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明治逢戀帖  作者:
第四章 某名家令嬢
25/61

「……お兄様」

 階段の手摺に片手を乗せ、ステンドグラスの前を曲がったところで史郎に会った。

 今日は軍服を着ていない。私用で出かけていたのか、濃い色の両揃えのスーツを着た史郎は、軍服と何ら変わらず物凄い威圧感だ。洋帽をかぶっているせいで顔半分に影が落ちている。

 濃い飴色の腰壁に包まれているホールは薄暗く感じた。天井からペンダントライトがぶら下がっているけれど昼間には点灯していなかった。踊り場で足を止めたまま、一向に下りてこようとしない千紗に業を煮やしたのか史郎が眉を動かす。

「どうかしたのか。なぜ、部屋から出ている」

「久美子さんのお友達がサンルームに来て……見えているんです。朝、お誘いを受けていましたのでそれで行こうかと――」

「勝手なことを」

 言い訳にかぶさるように、史郎が吐き捨てた。

 千紗が誰かと交流を持つのをことごとく絶っているのは、他でもないこの史郎だ。とはいえ、久美子の誘いを断り、彼女の逆鱗に触れるのも好ましくない。久美子は千紗が自分の思い通りにならないのを極端に嫌う。このままただ足を竦ませてもサンルームに待っている久美子を苛々させるだけだ。

 千紗は足音を立てないように階段へ踏み出した。ふわり、靴の裏を包むのは程よく毛足のしっかりした絨毯だ。もちろん、毎朝箒で掃いている階段にも塵ひとつ見つからない。

 女中はそれぞれ担当箇所を持っている。問題が見つかれば簡単に解雇されてしまうのだ。

(働いている人も、皆死んだような目をしてる)

 桂木の屋敷に来て常々思っていた。誰も彼もどんよりと重い空気に憑りつかれている。伊沙子の父親である男爵は、もうここ半年ほど病院と屋敷を往復する暮らしなのだという。早い時期に史郎へ男爵の地位を譲るのではと言われている。

 そうして、史郎もまた伊沙子と同じく早い時期の結婚を望まれているらしい。跡目の問題だろう。

「私の許しを得ずに誰かを屋敷に入れるな、と言っておいたはずだが」

 史郎の鷹の目がぎょろりとホールを見回した。

 ホールはしいんと静まり返っていた。こんな時に視界に入る馬鹿な使用人はいない。千紗がのこのこ部屋から出てきたときにそばにいた使用人はすでに解雇されている。壁の向こう側で、ただ機嫌が収まるのを待っているに違いない。被らなくてもいい火の粉はできるだけ避けたいものだ。

 史郎は奥の使用人棟側へ視線を向けた。

 伊沙子は生粋ではなくともお嬢様だ、現代っ子で少し羽目を外すことを何とも思わない千紗とは違う。いつもの伊沙子ならば、このまま立ち止まって静かに史郎の出方を窺ったのだと思う。

 しかし、千紗は違った。この隙に、と階段手すりに身を擦り付けるようにしてそのまま壁際に避難し、透け感のある紗の着物の裳裾を蹴飛ばすのも厭わず一気に史郎の横をすり抜けた。

 ―――――――――しかし、そうは問屋が卸さない。

「伊沙子、どこへ行く」

 鋭い声に千紗の足が止まった。

「……だって、部屋の中はもう飽きちゃいましたもん」

 ぎろり、淑女らしからぬ言い方に史郎の目が光る。

 千紗は内心でため息をついて、当たり障りのない返事を探した。本郷では決して感じたことのなかった窮屈感、ここにあの優しい人たちはいない。高校の先生にだってこんな話すのに緊張したことはなかったと思う。

「……伊沙子は、久美子さんのお友達の「楽しい」お話が聞きたいのです。お部屋のおもちゃも本も、伊沙子には何も楽しくはありません」

「何を言う。お前が好きそうなものを見繕ったつもりだが」

「伊沙子は子供ではありません、大人です」

「………」

 ぶすりとした表情をして、史郎は何回りも低い千紗の頭を睨み付けた。

 背の高い史郎は千紗の視線ほどのところに肩の線がある。ビアホールで千紗を守ってくれた人の背中を思い出す。千紗の目線のどれくらいに肩があっただろうか、がっちりとしたその線を見ながらわずかにかすった記憶の中の背中を千紗はかき消した。胸が痛い。

(飼ったばかりの子犬を取られそうで躍起になってる子供みたい)

 史郎は、伊沙子を小屋の中に閉じ込めて自分だけに馴らせよう必至だ。綺麗な着物に可愛い人形、美味しいお菓子。与えられたものはまるで十代前半の子供が好むものばかりだった。妙齢である伊沙子には少し幼過ぎるものばかり。

 千紗になる前もさほど暮らしは変わらず、伊沙子は家と女学校の往復だけだったのだという。分かっていても伊沙子は何も言わずにいたのだろう。

 珍しいお菓子、高価なものの載ったカタログ。それらはひっきりなしに千紗の部屋にやってくるけれど千紗の心も同じく躍らない。それを史郎はわかっていないのだ。

(この人、伊沙子さんのこと、子供かなんかと勘違いしてるんじゃないのかな?)

 聖路加病院を退院するときに少しだけ会っただけで数日ぶりに会った史郎は、先日よりピリピリした空気が少し和らいでいるような気がした。僅かに垣間見える兄と妹のような会話、それで調子に乗って千紗は口を開く。すぐに後悔することになるなんて、全く考えてなかった。

「だって、伊沙子はお外に行きたいのです。銀座や日本橋、それに新橋にも――」

「………それで、次はどこであの男に会うつもりだ」

 地を這う声が聞こえ、すぐに千紗は口を噤んだ。

 あの男と言われて、史郎が桐野とすでに二度も会っていることを思い出した。はっきりと威嚇していた桐野に反し、史郎の方はあのビアホールが桐野と初めて会ったのだと思っているらしい。

 ぎろり、目に物騒なものが宿り、千紗は飛び上がる心臓と震える指をごまかそうと慌てて口を開いた。会いたい、と思った気持ちを見透かされたのかと思ってしまった。

「ちがう……違います! あの人は私を助けてくれただけです!」

 たった、それだけのことだ。千紗は、必死で言い募る。

「記憶を失ってどこに行けばいいのかわからない私に同情して、匿ってくれただけなんです」

 言い訳をしながら、千紗は哀しくなる。同情というものは受け取る側にとって、なんて残酷な気持ちなんだろうか。

 それまでどこにいたのか、史郎に追及されたくなかった千紗は小石川の屋敷まで送るという金田の好意を固辞した。伊沙子と千紗がかかわったことで、先生と桐野、金田にまで迷惑が掛かってはいけないとできるだけ跡は濁さずに来たつもりだ。人力車も本郷の家から離れた場所で捉まえた。

「痛い……っ! 痛いです、お兄様っ!」

 手首が掴まれ、千紗の体が浮き上がる。

 全体重が肩にかかって悲鳴を上げて、千紗は浮き上がった片足を必死にばたつかせた。こんな状況になっているのに、誰も使用人がホールに出てくることはない。

 この屋敷ではこんなこと、日常茶飯事のことだったのだ。

「部屋に戻れ。私は許可した覚えはない」

「でも……久美子さんが――」

「久美子には私から言っておく。お前は、部屋でただ座っていたらいいのだ。外出は永遠に許可しないと思え、この屋敷で結婚の日まで飼い殺されるんだな」

 にやり、笑う史郎の顔が歪んでいる。その顔から強い拒絶を感じた。

 大時計が視界に入る。史郎の手にぶら下がり逃げ出すことのできない自分を規則的に揺れる振り子のようだ、と千紗は思った。

(伊沙子さん……、私)

 もうどうにもならなく辛かった。この屋敷に戻ってきてしまったのは間違いだったのだろうか、千紗は強い拘束に感覚を失いつつある手首を見ながら後悔する。

「来い、部屋に戻る」

「痛いっ! 離してください、離して!」

 懇願する千紗の声を無視して、手首を掴んだまま、史郎は二階へつながる階段に上がっていく。

 あの部屋は千紗と伊沙子を閉じ込める籠。こんな毎日を繰り返せば、伊沙子や先生じゃなくとも心は簡単に壊れてしまうだろう。それなのに、この結婚が決まるまで伊沙子をこの桂木に縛り付けていたものは何だったのだろう。千紗には想像もつかない。

 部屋には伊沙子の記憶の痕跡は残されていなかった。遠い記憶の祖母の旧性を思い出そうとしても、千紗の記憶には靄がかかり思い出すことはできない。美しいドレッサー、その引き出しがひとつ。鍵がかかって開かない箇所があっただけだ。それ以外は毎日探しても目新しいものは見つからない。

 部屋の中で探るには、情報が少なすぎる。

 足が二階へ上がるのを拒んで、段にぶつかった。そんな小さな反応にもものともせず、史郎は人形でも持っているかのように無言で千紗を引き摺って行く。

 ステンドグラスの前、踊り場まで引き摺られた辺りでホールに人の気配を感じた。

 どこかのドアが開いたのだろう。鈴の音にも似た軽やかな声が、史郎の足を止める。

「史郎お兄様、戻っておられたのですか? サンルームに顔を出してくだされば良かったのに」

 千紗のものとは格段に華やかさの違う紗の着物を羽織った久美子が暖炉の前に歩み寄ってきた。裾をはしょることもなく優雅で静かに久美子は歩いてくる。淑女のたしなみを知らない千紗とまるで正反対だ。

 小さく首を傾げる髪は千紗と同じく結わないままだった。その姿はまるで鏡写しだ。千紗の姿に似て、リボンの色だけを変えた姿ははた目から見ると仲のいい姉妹のように見える。久美子は長い睫で影を作った目を驚いたように瞬かせ、史郎に掴まれた千紗の手首を見遣った。

 すると、からからと笑う。

「伊沙子さんったら、またお兄様に面倒をかけているのですか? 本当に、いくつになっても無邪気な方。久美子には真似できません」

「久美子、人を呼ぶときは私を通せと言っておいたはずだが?」

「言いたくとも、史郎お兄様はいつもお留守ではないですか。伊沙子さんが物凄く退屈してらっしゃって、頻繁にお部屋から抜け出そうとなさるから私もその退屈しのぎのお手伝いをしようと思ったのです。お外、お外って本当に伊沙子さんは子供のような方ね。お外に誰か好い人でもいるのかしら?」

「……………」

 史郎の指が千紗の手首に食い込んで、千紗は悲鳴を上げまいと下唇を噛んだ。

 口内に鉄の味が広がる。一気に広がっていく味に、唇を食い破ってしまったことを知った。涙交じりに睨み付けた階段下の久美子はまるで初心な少女のようだ。

(この腹黒女……、兄妹揃って最悪)

 伊沙子の手前、口に出してしまうわけにもいかず千紗は何とか口汚く言い返すのを避けた。千紗がこの屋敷の使用人と話していたのを史郎へ密告したのは久美子だ。伊沙子は何も言わないのをいいことに、かなり久美子に煮え湯を飲まされていたのだろう。久美子が伊沙子をいたぶるのに遠慮しているような素振りは見えない。

 千紗は掴まれたままの手首を、力任せに引っ張った。もちろん、食い込む指は離れない。

「史郎お兄様、今晩はお父様が久しぶりに戻ってこられるので夜のお食事は皆で摂りましょうとお母様が」

 だが、その食事に千紗が呼ばれることはなかった。あくまでその席は正妻である史郎と久美子の母親が主催するものであり、妾腹の伊沙子は遅れて食事を摂るのがごく普通のことなのだ。

 むしろそちらの方がずっと楽だと千紗は思っている。伊沙子の婚約を決めたのがその正妻である築子だ。一度だけ顔を合わせたことがあるものの、久美子によく似て見下げるような視線が好きにはなれなかった。明治時代にはなんらおかしなことではないとはいえ、妾と正妻の間には深い溝がある。

「……わかった」

「あ、史郎お兄様。サンルームに――」

「今日はいい」

「…………」

 話は終わったとばかりに、史郎は千紗の手首を掴んだまま身を翻した。

 振り回される寸前に見えた久美子の顔が、醜く歪んでいるのが見えて千紗は背筋に寒いものが走る。たまに久美子はこんな顔を千紗に向けた。決まって史郎が絡んでいるときに向けるので、いくら鈍感な千紗でもなんとなく気づいてしまった。

 ―――――久美子は兄である史郎を「男」として見ている。

 そして、剥き出しな嫉妬をあからさまに向けてくる史郎の異常にも薄々気づき始めていた。

「あの男に連絡を取ろうとしてみろ。次こそ、あいつを切り捨ててやる」

 史郎もまた、義理の妹である伊沙子を愛しているのだ。

(狂ってる……)

 千紗は心の中で「助けて」と叫んだ。誰に、とは考えないようにした。

 それをしてしまうと、伊沙子のように心が壊れてしまいそうだった。

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