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明治逢戀帖  作者:
第四章 某名家令嬢
24/61

     ◆     ◆     ◆


 没落華族から買い受けたのだという小石川の屋敷は、中も品よく贅が尽くされている。

 玄関から縦長く続くホールを進み右側、二階へ繋がる大階段を上がる時に見えるのは、階段踊り場の突き当りにある巨大なステンドグラスだ。色ガラスを品よく配置したステンドグラスを背に、階段から下をのぞくとすぐに暖炉がある。横にはフランス製で備え付けの大時計が見えた。

 階段の踊り場を支えるように一階から天井に伸びる二本の太い柱は、下半分に美しく彫刻されている。女中たちに毎日磨かれているようで、飴色の彫刻には埃ひとつ乗っていない。

 千紗が寝転んでも十分な横幅の階段を上り、一階に四部屋、二階には二部屋ある客室側とは違う側のずっと奥。そこが千紗に許された居住区だった。

 大食堂、厨房、書斎や応接室のある一階へ下りることは余程のことでもない限り許されていなく、部屋の中にこれでもかというほど沢山用意された暇つぶしに囲まれて毎日を過ごす。

 ―――――――――正直なところ、これは監禁と言うのだと思う。

 千紗は薄手な紗を重ねた夏物の着物を蹴り歩き、僅かに開けたドアの向こう側を覗き込んだ。

 均等に並んだ窓枠に向こうに常緑樹、隙間から薄い色をした青空が見える。空が高い、秋も間近なんだろう。階段へ向かう廊下に塵ひとつ落ちていなく、どれだけ念入りに掃除をしているかわかるものだ。

(……誰も、いない)

 廊下に人の気配はなかった。とはいえ、すぐに飛び出したりはしない。千紗もこの一週間で思い知らされている。誰も見えないからと言って安心してはいけないのだ。

 いつもならこの時点で、今現在千紗のお付き女中である「かつ」が声をかけてくる。

「伊沙子お嬢様、だめですよ。お兄様にまたお叱りを受けてしまいます」

 ――――――――――そう、こんな風に。

 ドアの裏側から聞こえてきた声に千紗は大きく肩を落とした。

「………………やっぱり」

「まあ……、避暑からお戻りになった伊沙子お嬢様はなんてお転婆なのでしょうか。かつが何度言ってもお聞き入れくださいませんのね?」

「……ちょっとくらいは外に出るくらいいいじゃない……」

 大袈裟にため息をついて見せるかつへ早々に背を向けると、千紗はとぼとぼと部屋の中へと戻った。かつもまた千紗に倣い、手に紅茶のカップソーサーと洋菓子を乗せた盆を手に部屋に入ってくる。

 かちゃりと食器がぶつかる音を聞きながら、千紗はドレッサーの前に腰かけた。

 大きな鏡のつくドレッサーはフランス製なのだという。猫足の椅子を激しく軋ませ鏡を眺めていた千紗に、背後からお叱りが入った。このかつという女中は非常に千紗に手厳しい。

「お嬢様、仏蘭西製のお化粧台が壊れてしまいますよ」

「……はぁい」

デーのお返事はそれで良かったのでしょうか?」

「………はい」

 香しい紅茶が千紗の鼻を擽った。

 甘いバターの匂いが千紗の胃袋を刺激するけれど、千紗はドレッサーの椅子から立ち上がる気にもなれず不貞腐れたままだ。淑女にあるまじき態度で肘を付いたまま、ドレッサーの上にうず高く積まれた商品カタログを指先でつまんだ。

 ―――三越呉服店の「時好」

 ―――高島屋飯田呉服店の「新衣装」

 ―――白木屋呉服店の「今様」

 ―――松坂屋呉服店の「衣道楽」

 それぞれ中を軽く流し見しただけですぐに閉じてしまった。美しい女がしなをつくりこちらを見ている写真や絵を見ても、千紗にはどれがいいものなのか、どれが似合うのか。さっぱりわからず胸が躍らない。

(こんなのより、もっと違う誰かと話したい)

 本郷の先生の家では感じたこともなかった窮屈さと退屈さにそろそろ千紗も辟易していた。こんな状況で伊沙子の謎を解けるとも思えないし、このままなら結婚まで籠の中の鳥で終わりそうだ。

 何よりも千紗には人間関係が息苦しい。

「かつさん、久美子さんは学校から戻ってきたのですか?」

 鏡に映る自分を見ながら発した千紗の言葉を聞いたかつが、盆を手にして嘆息した。

 これは小言の合図だ。

「伊沙子お嬢様、何度言ったらわかるのでしょうか? 私はかつ「さん」ではなく、かつでいいのです。それと私には敬語はいらないと、何度申したら――――」

「わかりました。もう……結構です」

 万事が万事この調子だ。

 小石川の桂木邸に住んでいるのは、伊沙子の父親である桂木男爵、その男爵と正妻を両親に持つかの軍人である桂木史郎、その妹である久美子。それに腹違いの妹である伊沙子だ。久美子は伊沙子の二歳下で初等中学科の三年生で、これまた扱いが難しい。ちなみにかつは元々が久美子のお付き女中だった。伊沙子の女中だった人間は、今解雇されてしまったらしい。

 ―――――伊沙子が失踪した責任を取らされたのだ。

 ドレッサーの前に突っ伏している千紗の後ろでベッドメイクをしていたかつは、聞こえよがしに小声で文句をぐちぐちと言った。それはまるで久美子の分身のようだ。伊沙子は妾腹の子供だった。しかもこの屋敷に昔勤めていた女中と男爵の娘なのだという。

 正妻腹の久美子とかつは、どうも妾腹の伊沙子に含むところがあるらしい。

 陰険な仕打ちを見れば、伊沙子の記憶のない千紗にも簡単にこの屋敷で彼女がどんな扱いを受けていたのかわかるというものだ。

「久美子さんが戻られたら教えてください。私は少し休みます」

「……畏まりました」

 本当に休むのか、とでも言いたげな視線を向けてかつは部屋を出て行った。

 ドアが閉まるなりどっと疲れが出てくる。この屋敷に来て、一週間というものこの調子。千紗が桂木邸に戻ったと知るや否や軍施設から舞い戻った桂木中尉は、記憶障害を先日の理由にする千紗の話を聞くとすぐに病院へ連れて行けと言いつけた。

 検査に一日、様子を見るためにもう一日。

 聖路加病院に入院させられた千紗は、結局身体に異常なく突発的な状況に一時的なショック症状を起こしているのだと診断された。その間、父親である桂木男爵も兄である桂木中尉も姿を見せず、千紗は女中であるかつに案内されるままこの部屋に閉じ込められた。

 ビアホールで会ったとき同様、桂木中尉は千紗に蔑んだ目を向けた。

 朝、夜の食事は千紗たったひとり。大きな食堂でぽつんと用意されたものを食べる。那美子が作った本郷の食事に比べると、量も多く豪華なものばかりだった。久しぶりに食べたパンは、千紗が思っていたよりもずっと柔らかくおいしいものだ。

 でも、

(……もう帰りたい)

 伊沙子の件がないのなら、もう逃げてしまいたいくらいだ。

 伊沙子は今の千紗と同じく十七歳。この家に引き取られたのは生後三か月の頃で、一度庶民の家に養子として出されていたのだという。話好きの厨房の女が千紗に教えてくれたものの、話をしているところを桂木中尉に見つかり、その後、比較的一階までは許されていた千紗の行動範囲は急激に狭まった。

「……伊沙子さんは、その養子に出ていた「いえ」に帰りたかったのかな」

 五か月後に控えた結婚式の前日、それが伊沙子の誕生日だ。驚くことに、伊沙子の誕生日と千紗の誕生日は一緒だった。千紗もまたその日に十八歳になる。

 養子に出ていた家から、この小石川の屋敷に戻ってきたのが十三歳の時、初等中学科に在籍し今は結婚準備のため学校は退学したのだという。

(まぁ、それは助かったけどさ)

 桐野と伊沙子の出会ったあの日、伊沙子は女学校の最後の日だったのだという。

 あの日、桂木中尉と久美子と伊沙子で出かけた先は、千紗には教えて貰えなかった。と、言うよりもそれを聞く前にここに監禁されてしまったのだ。

 こつこつ、とドアがノックされた。

「はい」

 千紗はドレッサー前に腰かけたまま、返事する。鏡に映っている自分の顔には随分と馴染んだ。髪色が黒く、千紗よりも僅かに色が白いだけで大して変わらない姿に違和感は感じなかった。

「久美子お嬢様がお戻りになられました」

「…………」

 紗の着物は久美子のお下がりだ。何よりも伊沙子より上であろうとする久美子はたまにこういう妙なことを千紗に強要する。

 色が少し華やかすぎる着物は、どちらかというと地味な顔立ちの千紗には正直似合わない。それこそ華やかな現代的な美人である久美子にこそこの模様は似合うと思うけれど、何せ時代の問題で明治時代は千紗のような地味な顔立ちが奨励されたらしい。

 今日は久美子の友人とサンルームでお茶をするのだという。

 表向きは記憶障害の伊沙子を優しくお慰めして今後のことを話し合う会なのだと言うけれど、礼儀作法を現代的なものしか知らない千紗にはそれこそ公開処刑みたいなものだ。

「……無事に終わる気がしない」

 それでも、数少ない外の人間と触れ合う機会だ。

「今、行きます」

 千紗は突っ伏していた所為で乱れた前髪を簡単に直し、ドレッサー前から立ち上がった。

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