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奔放な女が街を闊歩する。誰にも靡かずどんなものにも心を傾けることなくただそこで 粉微塵になり、近づく相手を傷つける。そんな硝子細工のような女を主人公にしたらいいのではと思いついて桐野は原稿用紙に筆を下した。
「………駄目だ」
からりと筆が転がった。
頭の中に浮かぶ女は実像を持たずに、頭の中ではらはらと霧消していく。せせら笑い去っていく細い背中が実に憎たらしい。
一文字だけ書き出した原稿用紙を丸め、桐野はそう遠くない向かい側の壁に投げつけた。砂壁はその軽い球を受け止めて床に転がす。実はここのところずっとこんなことばかりを繰り返している。
視界の向こう側に風呂敷に綺麗に包まれた塊が見えた。桐野はあえてそれを見ないふりをして、前髪を乱暴にかき乱す。
四畳半の部屋は本と書き損じで床が覆いつくされていた。いつ剃ったのかとんと覚えのない口元は、あまり髭の目立たない桐野でもうっすらとわかるほどになってしまっている。本来ならば下宿料に入っているはずの朝夕の食事もここ数日、摂った覚えもなかった。
「締切にはもう余裕がないのに」
告げられた期日まですでに一週間切っていた。
書こう、書こう、と焦るたびに頭から色んなものが抜け落ちていく。僅かばかり手にしていた蜘蛛の糸も今あっけなく手放してしまった。
何が原因でこんな状況になっているのか、実は桐野にもよくわかっている。この状況を打開するためには本郷の先生の家に行けば容易だということもわかっていた。
ぐしゃり、髪をかき混ぜる。投げ出した片方の足が廊下の方を向いていた。
「なんだ、生きているではないか」
合図も挨拶も何もなく、乱暴に開けられた扉の向こう側に見慣れた顔がのぞく。いつも通りに気取ったスーツ姿で、金田は書き損じとはいえ原稿用紙を踏み分けることなく踏み潰し、壁に背中を預ける桐野の前に立った。
この無作法は今に始まったことではない。桐野は面倒な相手が来た、と立てたままの膝に額を預ける。
意地でも口を開きたくはなかった。この知り合いは、馬鹿げた物言いばかりと見せかけてたまに真意を付いてくる。その勢いに巻き込まれたくはない。
「相も変わらず君の部屋は不健康そのものだな。実に師弟共似ているよ。先生ばかりも責められまい」
手の平でその不健康極まりない部屋の真ん中の塵滓を払い、どっかと腰かける。
紙を広げる音が聞こえてくるのを見ると、書き損じを見ているのだろう。桐野は咎めることもせず、終始だんまりを決め込んだ。食事を摂っていないせいだろう。頭が朦朧としていた。
「ふむ、筆が走らないようだ。ならば、本郷にきたらどうだね? 新聞社に提示された締切が近いのだろう?」
行けるのならば今すぐにでも行っている、と桐野は内心で毒づいた。
本郷に行って先生に助言をもらっても結局仕上げるのは自分なのだ。そう桐野が慢心していたせいもある。正直言って先生の顔は見たくはなかった。それ以上にあの件があって千紗と顔を合わせ辛かった。身から出た錆だと言われるとそれまでだ。
「君は物書きを職にするつもりなのだろう。自分の感情にかまけていてはいいことは書けないと思うが」
「そんなこと」
思わず乾いた唇を開いた。
「重々承知している。君に言われる筋合いはない」
言い返すと、金田が笑った。
「おお、起きていたのかね。反応がないから眠っていたとばかり思っていた」
「……君は眠っている人間の前で、どれだけ独り言つんだ。僕が寝ていると思ったのなら黙って部屋を出ていけばいいだろう」
「しがない独り言だと聞き流してくれたまえよ」
「……随分うるさい独り言だ」
桐野は目の前にどっかと腰かける金田の前を立ち上がり、卓の上に置かれた湯呑ふたつに水を注ぎこんだ。
「水しかありませんよ」
「構わないよ」
こちらが構うのだと怒鳴りつけてやりたい。
桐野は卓の湯呑に手を伸ばす金田に背を向けて、文机前に腰かけた。
先生の使う紫檀のものとは違い、安物の文机は先生を真似して学生時代の桐野が買ったものだ。と、言っても常に文机に向かうことを習慣としていた先生とは違い、壁に背中を預け膝を机にする奇妙な書き方をする桐野には文机は無用の長物だった。結局、机の上は物置と化し原稿用紙が乗ったためしはない。
「何の用ですか。金田君が来ると本当に碌なことがない、さっさと言ってくださいよ」
「なかなかに冷たいではないか。人は決められた栄養が足らないと脳に養分が足らず憤懣を他人にぶつけてしまうのだ。……さては桐野君、君は食事を摂っていないのだろう」
「……関係ないでしょう」
「いやいや、実に大ありだよ」
金田は丁度手元にあった紙を広げた。
安物の薄い紙の向こう側が空けて見えた。
「………っ!」
桐野は、金田の手からその書き損じをひったくった。
桂木の文字の見えるそれを桐野は両手の平で押し潰し、金田の手の届かない窓側に投げつけた。風雨に汚れ曇り硝子になった窓の枠にぶつかり、机の上に転がる。
暢気に紙の球は片膝を立てた桐野の足元に転がって落ちてきた。
「ひとの部屋を彼方此方触らないでください」
「それは失礼した。何しろ僕は書き損じと覚書の区別がつかないものでね」
「……………」
桐野は紙の球を膝で押し潰した。その上に腰かけると文机の下に置かれた菓子の包みが膝に触れる。日比谷公園の帰り、数時間店先で悩んだ結果包んで貰ったものだ。
一歳年上のこの男を、桐野はやはり苦手だと思う。先生とは種類が違えどもその根本はよく似通っている。桐野にはない引き出しを持ち、それは桐野には手に入れることが叶わないものだ。
金田であれば、桐野のように面白味のない小説ではなく誰も見たことのない物語を書くのだろう。それなのに、金田は先生の言うように「らーぶ」なるものの研究にかまけ結局欧羅巴に洋行した。その結果中途半端な女性不信に人見知りを患い、東京で中学の英語教師だ。
才能があり引き出しが多い人間は、物書きには興味がないのだ。
「本郷に来たまえ。桐野君」
桐野は嘆息した。
「僕に何をさせようというんです? 僕には何もできませんよ。人ができていませんからね」
桐野に倣い、金田も大袈裟に嘆息して見せる。
「彼の人がまた心を閉ざしてしまったのだよ」
「……最近は随分と、いいように見受けられましたが」
「まぁ、そうだね。外出する先生を見たのは僕も実に一年ぶりだった」
それが誰の影響だったのか、桐野は知っていても口を閉ざした。
正直、先生があれほど話すのは桐野も数年ぶりだった。千紗の前で先生は帝国大学の講師時代のように雄弁で、それでいて好奇心を隠さずシェイクスピアを語った。それがどれだけ意外だったことか。
先生にあの本たちはずっと鬼門だったのだ。
「あれを手にしたのは、僕も久しぶりに見たな」
「僕もそれを見て油断していたというべきだろうね。あの、演奏会に君を代理として遣わせたときに気づくべきだったのだ。先生の心は再び壊れる寸前だったのだろう」
桐野は黙りこくった。
桐野も大概人のことは言えないが、先生は読書に没頭すると寝食を忘れてしまう。たまに様子伺いをしてもらっていた那美子からは金田はなにも聞いていなかったのだという。むしろ、食欲は旺盛で目を見張るほどだったのだ。
先生に相談できないとなればとうとう自分で何とかしなくてはならないだろう、と桐野は、さほど気にせず机の上にうず高く重なった本を窓側に押しやった。積もった埃が舞い、鼻を擽る。くしゃみを耐えた桐野の視界に、菓子を包んだ風呂敷包みが入った。
饅頭を何個も頬張った千紗ならば喜ぶだろうか、と思う。
「本郷に来たまえ、桐野君。君の憂慮の種はすでに存在しないのだからね」
「……何を言っているか、さっぱりわからないのですが」
「―――千紗君はもう、本郷の家にはいないのだよ」
――――――――――――――――――――。
大きな物音が鳴った。膝を文机にしこたま打ち付けた音だ。
勢いよく立ち上がった桐野は、不健康にしていたつけが来たのか眩暈で足元をふらつかせた。咄嗟に片膝をつき、重心をとろうと無様に手を振り回す。円を描いた手が不安定に高く積んだ本にぶつかり埃をまき散らしながら崩れ落ちた。
それを振り返りもせずに、桐野は金田の前に身を乗り出す。
「……どういうことですか。記憶が戻ったのですか?」
「どういうことも何も、言葉の通りだよ。ああ、ちなみに記憶はとんと戻らないままだ、難儀なことだね」
正面から向き合った金田は珍しく物静かな空気を纏っていた。ぶつかりそうな勢いで振り向いた桐野から目を逸らさず、口を開く。
「千紗君は三日も前に本郷を出て行ったのだ。桐野君にそれを伝えなかったのは僕の判断だ。君はその件が気にかかっていたのだろう? 大切な執筆を滞らせてまで思い悩んでおいてよく言う」
なにかを聞こうとして、聞きたいことが有りすぎることに気づいた桐野は結局口を噤んだ。
金田は卓の横に腰かけたまま、身動きせず口のみを雄弁に動かす。
「君の望むとおりに絡まった糸は解れたではないか。君は悠々と執筆活動に勤しむべきだ。そうではないかな。もう筆の進まない理由はないのだ」
「僕は―――――何も書けないのを………を言い訳にしていたわけでは」
「ふむ、面倒な男だな。君は」
金田は飲み干した湯呑に、自分で水を注いだ。乱暴な流しっぷりに、卓に入り損ねた水が零れ落ちたが頓着しない。一息ついた。
「今すぐにとは言わないが、突き放すのか、受け入れるのか。どちらかに決めたまえ、桐野君」
金田の手が伸びる。足元に転がる丸まった紙を手にして、片手の中でより小さく握りしめた。
一連の動きを桐野は見て、畳の上に拳を握りしめた。
たった一度、同情で人を助けただけで随分と大事になった。先生も金田も他人事だと思って勝手なことを抜かしている、そう心の中で弱弱しく毒づいた。
「この期に及んで進退を躊躇しているのなら、このまま、君は元の生活に戻るべきなのだ。相手は男爵令嬢。しかも結婚を控えた婚約中の身だ。生半可な覚悟では、これからは手を伸ばすわけにはいかないのだよ」
ゆっくりと身を起こした金田に紙を押し付けられる。
桐野はのろのろとそれを両手に受け取った。
「僕はこういう不可解な身だが、この短期間で近づいてもいいと思えるくらいには千紗君を気に入ったらしい。彼女が望むのならある程度までは手を貸すのもやぶさかではないのだ」
「……記憶を失うほどの苦しみがあるのだとわかっていて、それでも戻る彼女の真意が読めませんよ。彼女が望んで、桂木に戻ったのだとしたらどうするのです? 僕にそれを奪い取れとでもいうのですか」
ぎしり、桐野と金田の体重を同時に受け止めている畳が鳴った。
古い下宿屋の床は歪んでいる。桐野の部屋はまだいい方だ。他の部屋ともなると酷い部屋は、梅雨時に茸が生えるのだという。
金田はにやり、甚だしく迷惑な笑みを浮かべた。
「笑止、桐野君は意に染まない縁談を受け入れにわざわざ戻ったのだと思ってるのかね。もしくは千紗君が先生の家の質素な食事に失望して、豪勢な食事を求め男爵家に戻ったのだと」
「君は……どうしてこういう時にふざけたことを言うんだ」
そういえばこういう人だった、と今更桐野は思い出す。
短い学生時代、かなり金田には煮え湯を飲まされたのだ。人を振り回すことにかけてはこの男の右に出るものはいない。名家令息、本来はこんな場所で油を売っていい人間ではない。
浮いたままだった腰を畳に落とし、桐野は片膝を立てた。片目を完全に覆う前髪もそろそろ邪魔になりつつある。桐野は髪を乱暴に持ち上げて後ろに流した。
金田は卓の上にあった未使用の原稿用紙の束を扇子にして顔を仰いだ。四畳半の鬱屈とした空気の中に男ふたりも入っていれば息苦しくなるというものだ。
ただ原稿用紙も徒ではない。ぐなりぐなりとしなる紙の束に桐野は恨めしそうな視線を向けた。残り半分になった湯呑の中身を一気に飲み干した金田は、紙束を桐野に渡し意味ありげに微笑む。
「僕はね、先生と同じくらい君も心配なのだよ、桐野君。君には文才があるのだと先生もお墨付きなのに、一向にその芽が出てこようとしない」
受け止めた紙束は真新しい原稿用紙だ。桐野はそれに目を落とし眉を顰めた。どうしてだろうか、憂慮の種が消えたはずなのに書く気が一向に起こらない。
「君は僕のように一歩進化するべきなのだ。自ら作った箱に閉じこもり、蓋の隙間から周りを見ているからこうした自分の変化にも気づかないのだよ。先生や僕の方が先に気づくとは笑止千万ではないか、実に滑稽だ。気の毒だ」
そんな桐野に気づかず、金田は能天気に笑った。
「しかし、彼の人もまた自分の変化に気づいておられない。気づいたのは僕だけだ、ははははは」
「……なにを言いたいんだ、あんたは」
やはり、到底意味が分からない。
片膝を立て腰かけたまま吐き捨てた桐野の肩を、金田はがっしと掴んだ。
「……っ!!!」
近づく顔が馬鹿に嬉しそうで、嫌気がさす。鼻息が微妙に顔にかかり桐野は思わず背中を後ろに傾いだ。――――――――――追ってくる。
「恋い、だよ。「らーぶ」だ、この短期間で僕らは恋いにより進化しつつあるのだ!!!! これを乗り越えた暁には、桐野君も素晴らしい題材を書けるだろう!」
「………このしがない物書きの卵でしかない僕が、ご令嬢である娘に懸想しているとでも? 君は頭に虫でも湧いているのか」
桐野は吐き捨てた。
「それこそ馬鹿げた大衆小説だ。僕は女ごときで、自分の生涯を棒に振りたくはない」
正論だ、と思う。
「実に正論だ」
その内心を読み取られたように、金田が言った。
「だが、正論ぶっている。それならば君は、なぜそんな「ごとき」と罵る絆が失したことに動揺しているのだ」
どうやってもこの師弟は、あの記憶喪失の女とそういう関係に持ち込ませたいらしい。
予想以上に強く掴んでくる金田の指を死ぬ気でこじ開け、桐野は文机の方に逃げた。背中に机の端が当たると無駄に疲れたような気がする。
「動揺?」
「かの伊沙子嬢に出会ったその次の日に、君は新聞社からの正式な依頼を受けているではないか。時間は十分にあったはずなのだ。それなのに今日のこの日まで筆は進まず、締切間近になってから倉皇として執筆を始めている。この無駄な時間、君は本郷に身を置いていたのではないのかね」
探偵気取りの金田を睨み付け、桐野は部屋の塵滓を見遣った。山になった無駄な原稿用紙、これだけ書いても話の残滓も掴みとれない。
頭がいい奴はこれだから嫌なんだ、と嘆息する。確かにいつもならば締切寸前に出かけるようなことはしない。部屋に閉じ籠りただひたすらに書き募るだろう。
「千紗君が熱で倒れていた時も、君は律儀に通い詰めていたそうだね。しかも「夜」、しかも「真夜中」にだ。何も動じることのない人間ならそうやってこそこそとやってくるかね? そのくせ、日比谷公園では八つ当たりとばかりに、さっさと小石川の桂木邸に戻れ、と来た。……僕はね、桐野君。非常に憤慨しているのだよ」
首を傾げた金田は、卓に肘をつく。それを見て、桐野は長くなるのを覚悟した。
それこそ学生時代のように先輩風を吹かせて説教を始める気らしい。激情型の桐野はよく意見の違いで講師とやりあうことが多く、その度に金田に叱責された。今のこの時のように。
基本、お道化て内心を読み取らせない金田は、とんでもない食わせ物だ。
「僕のありとあらゆる手段で少し調べさせて貰ったのだが、桂木男爵のご子息、桂木史郎となる男は随分と野心家のようだね。そして君の見た通りに、その中尉なるものは腹違いの妹である伊沙子嬢を異常なほど偏愛しているのだ。それこそ片時も手放したくないほどに」
金田は言葉を切る。
「それを知りつつ、千紗君は戻ると言ったのだ。何か理由があるのだと思えないだろうか? 君はそれをすべて聞き質すことなく、子羊を狼の中へ戻るようにけしかけたのだよ。―――――――実に好ましくない」
日比谷公園の一件を言っているのはすぐにわかった。千紗は、聞き質しても恐らく口を割らなかっただろう。知っているのならばあの不毛な言い争いを金田は聞いていたのだ。
「………」
「だんまりを決め込むか。確かに大人げない人間のすることではあるね。人が出来ていないのだと「自負」するだけはある。しかし」
金田は桐野の着流しの襟を掴み上げた。だらしなく開いたままの胸元がはだけ腹の帯まで一気に広がっていく。
桐野は浮き上がった腕をだらりと垂らし、金田のするままに任せた。総ては後悔しても遅い、口から飛び出て行った言葉は取り戻す術もなくそのまま我が身に戻ってくるのだと思い知った。
「物書きを自称するならばこの機会も好機と捉えたまえ、桐野君。君がもう両手を上げたとて、僕は君の筆をあきらめるつもりなど欠片もないのだ。君の中にある可能性を引き摺り出す為に、彼女が必要なのだろう、この朴念仁が。これだから女性経験のない男は面倒だ」
「……っ!!!!」
金田の手首を掴み上げた。
一気に色が変わる金田の手の平を見て容赦をしていないことは桐野にもわかっていた。それでも力を抜くことなくむしろ力を強める。
「………五月蝿いっ! 大学に洋行、総て手に入るあんたには何もわからないだろう!!!」
爪が手首の肉に食い込むのがわかった。それでも力は緩めない。
「努力しても大学にまた入るのは金が要るんだ! 僕にはもうその後ろ盾はない。たかが同情からの気の迷いでその名家の令嬢を奪い取って何になる。彼女を救っても、僕に残されるのは空虚な現実だけだろう! あの女は現実を忘れて夢に生きることできる。でも、僕にはそれが許されない! 僕が……っ、救われたいくらいだ……!」
覗き込む金田の目に滑稽なほど取り乱す自分の姿が映っていて、桐野は顔を歪めた。
「……あんなこと、言うつもりはなかった。僕は、ただもうこれ以上……深入りしたくなかったんだ」
ずるり、スーツの腕を辿り桐野の指が金田の足元に落ちた。
ついた手の平の下に小さく丸められた紙が見える。まるで暗号のように残された言葉、何度も書き連ねたふたつの名前が紙の上で踊っていた。
桐野の脳裏に残るのは新橋の裏手で感情なく佇む姿ではなく、あの日比谷公園の涙を堪えたような複雑な顔だ。その顔が脳裏を離れない。
「考えたって……空しくなるだけだ。その感情のどこがっ! どこが糧だというんだっ! そんなもの、僕は必要としていない……っ!!」
「ならば、その喪失感を以て文を書けばいいではないか。そうして先生のようになればいい」
桐野は唇を噛んだ。
「先生のように大切なものを総て手から溢して、自分の中に閉じ籠ればいいのだ。なにかを喪失し隔絶した素晴らしい文を書けるだろう。それもまた由、君がいいのなら僕も先生も止めはしない。但しそれは君、心を壊す行為と同じくではないのかね。自分の中にあるはずの引き出しを延々と探し続け、その絶望と向き合うだけの強さが君にはあるのだろうか。それで自ら命を絶つ、愚かさを持ち得ないとでも?」
答えることができなかった。
桐野は両手を畳についたまま、ぐたりと落ちる前髪に隠れたスーツ姿の金田の足元を見た。大学の授業中だけあって下宿屋はしんと静まり返っている。残った僅かな人間もこの天気ならきっと本屋にで言っているのだろう。
言い争っている声は下宿屋の外まで響いているだろうか、と微かに脳裏を過った。だとしても、血気盛んな若者が集う下宿屋だ。いつものことだと誰もが聞き流すに違いない。
「僕は僕の判断で以て、千紗君の件は手を出させて貰うことにしよう。臆病な君は、そこで鬱々と自分の殻に閉じ籠っていればいいのだ。そして先生のように総てを手離して生きていくのも一興だ。ただし、僕は御免だがね」
物語には山場が必要なのだ、金田は笑いながら立ち上がった。
「人生こそ、実に素晴らしいえんたーていめんとだろう。僕は先の読める物語を好まないのだ」
下宿屋の薄い扉が、閉じた。




