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明治逢戀帖  作者:
第三章 当世高校生気質
22/61

 記憶が戻らないままで桂木の屋敷に戻ると言った千紗に、先生はただ黙り込み、賛成も反対もしなかった。

 千紗が説得するまでもなく、千紗の話を聞くだけだった先生は話が終わるなり「わかりました」と感情なく言って立ち上がった。そして、そのまま思案顔で食事もとらずただ書斎に閉じこもった。

 いつものことよ、と那美子は笑う。

 千紗が来るまで、なんら珍しいことではなかったらしい。本に没頭して食事すらとらないのが先生には当たり前の生活だったというけれど、本を手放さないまでも楽しく食事する先生の姿しか見ていなかった千紗には想像もできない。

(……最後は障子越しにしか挨拶できなかった)

 結局、先生は今日も千紗の前には出てこなかった。

 障子の向こう側のかすかに感じる人の気配へ、いつか必ずどんな形でもこの恩は返す、と言った千紗にやんわりと「車が待っていますよ」と応えた。千紗が断ると思っていたのか。那美子を通して最後にと持たせてくれた駄賃は、人力車の運賃だけ好意を借り受けることにして残りは全部返した。

 いつか返しに来たい、と千紗が思っていることを知っていてほしかった。

「…………っ、よし」

 小石川区。物静かな住宅地の門の僅か手前で千紗は小さく呟いた。

 重厚な門には鋳物の飾りがかかり、闖入者になろうとしている千紗の侵入を阻んでいる。

 立ち並ぶ常緑樹の隙間から美しい洋館が見えた。上半分は白塗りの壁で、下半分は石造り。大きな洋館の割に重厚な印象は受けず、建物は華やかで軽快だ。先日、日比谷公園の周囲で千紗が見たどの洋館よりも大きさこそは小さいけれど、十分に迫力のある大きさなのがわかる。

 木々の向こう側に見える均等に並ぶ同じ大きさの窓には、重さでたわわになったカーテンが飾られていた。庭には花も咲き誇っている。

 藍色の屋根が、青く輝く終わりかけの夏空に映えた。

 ――――――――桂木男爵邸。

 地理に疎い千紗が細かく指示せずとも、乗り込んだ人力車の俥夫に告げると連れて行ってくれた。

 後ろに流れる景色を見ながら辿りついた屋敷を見ても、やっぱり千紗に伊沙子の記憶は戻らず感慨に浸ることもできない。

(ここに、ひいおばあちゃんのお父さんと血の繋がらないお兄さんがいるんだ)

 門の前に人力車をつけるほど、気を強く持つことができなくて十数メートルほど手前で降りた。それでもまだずっと手前から続く桂木邸の敷地に戦慄してしまう。詳しいことを聞かずに飛び出してきてしまったけれど、やっぱりかなりの名家らしい。

 ビヤホールで千紗の腕を引き摺って店から連れ出そうとした義兄のことを考えると、千紗の体が強張ってしまう。身を投げる寸前まで桐野が放っておけないほどに酷い仕打ちをされていた伊沙子に、一体その名家の嫡男である義兄がどんな反応を示すのか。

 怖い――――――――けれど。

「……考えてたって仕方ないもの」

 深呼吸して、千紗はつぶやいた。

 どんなに怖くてももう、この屋敷にまで桐野が助けに来ることはない。

 日比谷公園の一件以来、桐野とは顔を合わせていなかった。新聞社にいる知り合いと頻繁に会っているので物凄く忙しいのだと金田はいう。それでも千紗には体よく避けられた気がしてならない。

(もう……どうでもいいんだろうけど)

 それでもと、本郷の家の客間に手紙を残してきた。

 桐野が同情したのは、虐げられてもなお耐え忍んでいた「伊沙子」だ。やっとなくせた記憶を戻しに桂木の屋敷に戻るのだという今の「千紗」を見て幻滅したのかもしれない。

 分かっていても、不義理だけはしたくなかった。

 手紙は、助けてもらった恩は忘れない、いつかこの恩は返すのだと、それだけにとどめた。本当は、あれだけのことを言われたのだからほんのちょっと愚痴でも書こうとして少し紙とにらめっこで悩んだけれど、結局千紗は書くのをやめた。

 なるべく感情を剥き出しにしないように端的に書いた手紙は素っ気なさ過ぎて電報のようだった。でも、それで精いっぱいだった。

 手にした荷物は風呂敷包みひとつきりだ。せめて門の前まで送ると言ってくれた金田の申し出を頑固に固辞して、千紗はひとり、ここに立っている。

 ぎゅうと握りしめた包みには、那美子にもらった手鏡と何故か記念にと金田が寄越した詰襟が一式入っている。他には何も持って出てこなかった。

(これでも十分、多いくらいだ)

 千紗は胸元にあるほんの少しの「自分のもの」を見下ろした。

 新橋に辿りついたとき、千紗には心しか自分のものがなかった。器になった体も伊沙子のもので、向けられるものも総て伊沙子へのものだった。向けられた桐野の優しさを自分のものだと勘違いした。でもあの日、日比谷公園の桐野の言葉で思い知らされた。

 でも、本郷のわずかな時間で千紗を見てくれた人もいる。

 大切な鏡は、手の平よりも小さくて愛らしい小花が彫り付けてあった。お気に入りだと言ってくれた那美子の言葉が嘘ではない証拠に、手鏡には小さな傷がたくさんついていてその割に顔を映し出す部分はとても綺麗だった。

 曾祖母はとても弱い人だったのだろう。辛くて辛くて、それでもどうしたらいいのかわからなかったに違いない。全部、放棄していなくなった曾祖母を憎んでいないと言えば嘘になる。いたって普通の高校生をこんな外国にも近い場所に放り投げていくなんて、職務放棄にもほどがある。

(でも、私だってやっぱりこの時代の女の人には同情するよ)

 自由がない生涯を人形のように生きるなんて悲しすぎる。

 目の前には、見知らぬ屋敷。

 彼女が死を選ぶほどに愛した男はわからないままだった。しかも五か月後には伊沙子の結婚が控えている。千紗の未来を気づく本来の曽祖父の影も見えず、千紗の未来は先の見えない霧の中だ。

(伊沙子さんに同情した桐野さんの気持ちも、私だって……分からないでもないんだ)

 だからこそ本来は桐野を責めることができない。桐野を責めたくなってしまうこの気持ちは、千紗の心の問題だ。

 だから誰にも頼らずに、次は自分で伊沙子を救い出せばいい。それなら、この時代の人に心を砕くこともなくなる。

「待ってて、伊沙子さん。私が……助けてあげるからね」

 千紗は足を踏み出した。

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