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明治逢戀帖  作者:
第三章 当世高校生気質
21/61

8 

 日比谷公園の正門は、帝国ホテルと華族会館の前を抜け、ぐるりと公園を回った向こう側にあった。

 両側に構える白亜の門を通ると敷き詰められた石畳があるらしい。けれど千紗の視界に入ったのは、正面にある整然と横に並んだ庭木に沿って列を連なり歩く人の波。そこは石畳がわずかにしか見えないほどに人でごった返している。

 千紗の中での公園の定義は滑り台にジャングルジムなどの遊具だけれど、日比谷公園には遊具というものがなかった。

 ただ池と運動場という名を配した広場。それに花壇、たくさんの木。それでも、広く綺麗に整備された西洋風公園はこの時代にはとても珍しいものらしい。大小の公園が入り乱れ、たくさんの遊具が設置された公園まである現代は、きっとこの時代の人間には不可解に映るのだろう。

 それでも洋服や着物が入り乱れる庭園は見ごたえがある。この乱雑さならば、詰襟姿の千紗もその中に上手く馴染める気がする。

 花は見事に咲き乱れていた。

 西洋風庭園をうたっている割にやっぱり完全に排除することができないのかところどころに混じり合った日本風の木々。文化のせめぎあい、微妙なアンバランスがおかしい。やっぱりどうやら鶴の噴水のある日本風庭園の方は見飽きたものらしく人もあまりいなく閑散としていた。

 千紗は現代の日比谷公園には足を運んだことはなかった。

(でもすごく大きな公園なんだな……)

 地理に疎い千紗には現在の地図を頭に展開することができない。つまりはどうしても同伴者には質問の嵐になってしまう。

「先ほどあった大きな建物は一体なんですか? さっきの帝国ホテルみたいに大きな建物です」

 通り過ぎた時は聞けなかった。千紗は掴まれたままの手首をついと引く。

 もう何度目だろうか。いやいやながらに声が返ってくる。もう返事も投げやりだ。いちいち厭味を返すのも面倒になってきたらしい。

「……最初に通り過ぎたのが海軍省、次が司法省大審院」

「へええ」

 そう答えながら、千紗にはどういう政をする場所なのか全くわかっていない。

 公園も半ばまで来たところで振り返れば、青空に映える帝國ホテルにも劣らない美しい屋敷は、公園の向こう側に広がる並木に阻まれ全貌は見えなかった。空を鳥が飛んでいく向こう側に、広い屋根をのぞかせている。それだけでも随分と大きな建物だということが知れた。

 ただひたすらに歩くと、大きな広場がある向こう側に花咲き乱れる花壇が見えた。周りには日傘のつもりなのか、黒い傘をさす男の人の姿が目立つ。

 花壇手前には噴水。千紗の身長より数倍高く上る水の柱は、近代的な噴水を知る千紗には少し物足りないものだけれどこの時代の人々には珍しく見えるらしい。一際この周りには子供の歓声が多い。

「あっちには林の中に建物がありますよ」

 大きな銀杏の木の横に静かに佇む洋館がある。うねった散歩道の中にぽかんとある建物は美しく、軒先には美しく着飾った女性が何かを一心不乱に口に運んでいた。

 どうやらレストランらしい。

「松本楼」

「いい匂いがしますね、なんかお腹が空いちゃいます」

「…………手に饅頭持っている癖に、ぶよぶよ太るよ」

「太ったほうがいい、ってさっきは言ったじゃないですか」

「言って居ないっ、勝手に余計な解釈をしないで呉れっ!」

 桐野は公園の敷地に入ってから、一度も止まらなかった足をやっと止めた。

 振り返って長く伸びた手を辿り、見る。半分前髪に隠された視線を受けて、千紗は首を傾げ微笑んで見せた。伸びた互いの影は繋がれたままだ。

 と、桐野がぱたりと停止する。

 白亜の正門を抜けてからここに来るまで引き摺りながらも、桐野は千紗の手首を掴んだままだ。

 千紗だって何度も指摘しようとはしたけれど、結局言い出すチャンスを失ってこのままで来てしまった。混雑したここで手を離すと最悪、迷子になりそうな気もしたし、自分だけが気にしていると思われるのもなんとなく癪だった。

「―――――…っ!!」

 千紗の手が乱暴に振り落される。

 小さな悲鳴に似た声を上げると、できるだけ千紗に距離をとろうと思ったのか桐野は一歩後ろに下がった。その背中に花壇を覗き込む人の肩がぶつかり、動揺を隠さない桐野に短い舌打ちをした後、歩き去って行く。

 ただでさえぶかぶかな詰襟の袖が引っ張られた拍子にずれて、指先まで千紗の手を隠した。

(……何もそこまで嫌がらなくてもいいと思うんだけどな)

 ここは照れていると判断したいところだけれど、どうにもそんな様子には見えない。そっぽを向いた桐野は苛立ちを隠せていなかった。それは千紗に対してなのか、それとも違う誰かに対してなのかはわからない。

「……桐野さん、もしかして何か私に怒ってますか?」

「まさか、其んな無駄なことなんてしないよ。むしろ如何でもいい」

 速攻で返事が戻ってきた。

 千紗は学帽を目深に被りなおす。

 千紗の手に触れていた部分を汚らしいものを触ったように羽織に擦り付ける姿は、どう見ても小学生の意地悪だ。いつにもまして険のある口調とその素振りのせいで顔を見ると喧嘩を売ってしまいそうだった。

 元々そういう複雑な人だとは理解しているつもりだけどそれにしても大人げない、と思う。

「今朝だって、先生とふたりとも変でした。喧嘩したんですか? 何か眠っている間に私のことでありましたか?」

 これで今日、何度目の問いだろう。

 そろそろ桐野の堪忍袋も切れつつあるようだ。前髪を乱暴に掴み、桐野は引っ張っている。

(そんなに邪魔なら切ればいいのに)

 前髪が視界を遮るせいで、桐野の表情が読めなかった。その向こう側で桐野は雄弁に語る。少し雄弁すぎるほどに。

「何も無いよ。僕は先生と何年も共に居るのだから、一々お前に言われたくは無いね。大体、少ししかあの家に居ないのに随分と偉そうじゃあないか」

「そうじゃなくて、何か私が迷惑かけたんじゃないかって考えて――――」

「迷惑、と云うならば」

 ――――――――――――――声のトーンが一段と低くなった。

「……さっさとお前は「自分の家」へ戻れば好いだろう」

 桐野は吐き捨てた。

 唯一千紗にも見えた桐野の唇が歪んでいる。笑っていた。

「……先生の家を掃除するだの今日は散歩だの。なんだかんだ言い訳をして、お前は嫌な場所に戻るのを出来るだけ伸ばして居るだけじゃあないか。結局は同情を買って先生に取り入る気なのだろう、お前は」

 千紗は拳を握りしめる。この零れ落ちる言葉が真意なのだと信じたくはなかった。僅かに漏れてきた優しさを信じていたい。

(せめてあと数日だけでも)

 あとわずかしかない本郷での生活を終え伊沙子の過去を辿る桂木の屋敷に行くまでは、優しい夢に浸っていたい。

「僕はお前の保護者じゃあない。向こうを選んだのなら、さっさと消えてしまえば好いんだ。僕を巻き込まないで呉れ」

 千紗は耳を伏せてしまいたかった。でもまさかそんなこと、出来ずに握りしめた拳は長い袖に隠れて桐野には見えないだろう。それを助かったと思った。

 離れた場所から、バイオリンの優美な音色が漏れ聞こえてきた。先生の言っていた音楽会が始まったのだ。流れる人の波はそのバイオリンの音色に導かれ、千紗たちの周りからは引き潮のように人が減っていく。千紗は、行かなくちゃいけない、と思っているのに動くことができなかった。

 ぽつりと、ただ立ち竦んでいた。

 泣けばいい、と思う。こんな詰襟を着ていても千紗は女だ。これだけのことを言われたら、さすがに涙だって出てくる。出会ってからずっと、迷惑かけたのが千紗だということは重々理解している。それでもどんなに酷いことを言っているのか、涙を見て知ればいい。

 それなのに、千紗の目からは涙が出てこなかった。

「八つ当たりですか」

 哀しいのか悔しいのか。唇が震える。

「なに」

「私がここで謝れば気持ちは晴れますか? 先生に御恩を返すためには掃除なんてまどろっこしいことをしないで「元の家」に戻ってから誠意を見せますとでも言えばいいですか?」

「其んなことを僕は言っていない。何だよ、可哀想な自分には同情して優しくして欲しいなんて、馬鹿げたことを言うつもりじゃあないだろうな?」

「……そんなこと言ってない」

 これじゃ、売り言葉に買い言葉だ。

「じゃあ、何か? 結婚前のほんの少しの御飯事に僕らは巻き込まれる訳か。子供が玩具を放り投げるまで、僕らはお前をちやほやとして居ないといけない訳か。僕は記憶を失う前のお前に只同情しただけだ。身を投げようと覚悟するまでの苦しみをあっさり忘れたお前に、もう同情することなんてない、僕を放って置いて呉れ」

「―――おや、桐野君に千太郎君じゃあないか」

 逼迫した空気を引き裂いて、暢気な金田の声が響いた。

「金田……君……」

 気の抜けた桐野の声が千紗の頭の上で響く。自分が俯いていることを、その声の聞こえた方向で千紗は初めて知った。

 握りしめた拳が痛い。

 この世界に呼び寄せた曾祖母のことを初めて憎いと思った。自分だけ大切なことから逃げてしまった。千紗に何も残さずに、総ての同情も何もかも「伊沙子」に向かっている。千紗はこの時代に一人きりだ。

(誰も頼れないし、何もわからない)

 瞼が熱い、千紗は下唇を強く噛んだ。饅頭の袋はすでに空で、それをぐしゃりと握りしめて、ついでに自分の腕も強く抓り上げた。ここまで来て泣き出すなんて無様なことをしたくはなかった。

 立ち竦んだ千紗と桐野に気づかなかったらしく、金田は石畳を踏んで軽快にこちらへ近づいてくる。聞こえたバイオリンの音色はさっきのものとは違うものになっている。

「桐野君がここにいるということは、先生はまた逃げてしまわれたのだなあ。折角、先生にばれない様に僕の知り合いを呼び寄せておいたというのに総ての努力が水の泡だ」

 金田の声に促された桐野が、のろのろと重い口を開ける。

「……然う云うことですか。随分と強引に此の件を勧めると思ったら」

「然うだね。桐野君に千太郎君は先生に化かされて仕舞ったらしい。今頃、彼の人はいつも通りに書斎で読書三昧だよ。ところに千太郎君――――」

 ひょいと金田が千紗の顔を覗き込んだ。

「……はい」

 千紗は唇の端だけをわずかに上げて、その顔に答える。

 近くで見ればわずかにその瞳には茶色かかっているのがわかった。相も変わらずインテリ臭いスーツ姿だけれど、先日少し話をしたおかげでただのインテリ人間とは千紗にはもう思えなくなっている。

「今日は如何して此の姿なのだろうか? 君は此の服装で熱を出したのではなかったのかね」

「この格好じゃないと、金田さんは近づいてこないでしょう? だからです」

 千紗が強張った顔で答えると、金田は苦笑した。

「確かに進化した僕でも、あの女装は少し抵抗があるやもしれないな」

「……女装」

 それは根本的に間違っているけれど、千紗はなにも言わずにおく。横にいる桐野の方を向きたくはなくて、千紗は体の向きを変えた。背中向こうにいる分には存在を気にしないでいられる。

「………っ」

 視界の向こう側に見える指だけが、わずかに強張ったのが見えた。

「然し、可笑しなことにあの数日間の看病で千紗君の寝顔に見慣れたのか。然程抵抗を感じなくなりつつあるのだよ。今度は是非僕の進化のためだと思って、女装のままで来て頂けると嬉しいのだがね」

 学生帽の上に手のひらが乗った。

 背中を押すようにバイオリンの演奏会に金田は千紗を促す。

「さあさあ、早くしないと終わってしまう。時は有限と云うではないか。桐野君、棒のように立って居ないで早く来給え」

 バイオリンの音色にかき乱されて、歩く千紗と金田の後ろから桐野の追いかけてくる足音は聞こえてこない。千紗は後ろの音に耳を澄ませた。

(私は……桐野さんになんて言って欲しかったんだろう?)

 桐野が会ったのは伊沙子で、助けようと決意したのはあまりにも伊沙子の境遇が不憫だったからだ。今、ここにいる千紗はあくまでその延長で現代からの千紗には桐野は何も思っていない。

「あんまり考え込むのではないよ。あれは、そういう男なのだ」

 大きな歓声が周囲に満ちた。微かに聞こえた声に顔を上げた千紗は、囁いた声はまるで嘘のように演奏者へ盛大な拍手をする金田を見上げる。何もかもすべて見られていたのだろう。それでいて、金田はああやって助け船を出してくれた。

 肩越しに振り返ると、まだ桐野は同じ場所で立ったままだった。

 俯いた顔にはまたあの分厚い前髪がかかっている。あの向こうには入ることを許されない。まるで緞帳のようだ。

 それならば、望まれるがままに身を引こう、と思った。

(だって現代に戻ればいつだって恋愛なんかできるし、花の高校生なんだし、色んな素敵な人にだって出会えるし)

 今ならまだ、間に合うのだから、と千紗は自分に言い聞かせた。

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