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「どうして僕が連れて行かなくちゃあいけないんだ」
千紗の横で桐野が憤慨している。
(……まだ文句言ってるし)
手にした紙袋から取り出した饅頭を口に放り込んで、千紗は小さくため息をついた。
一般公開が始まったばかりだという日比谷公園に向かう道はごった返している。
ドイツの都市公園に倣って設計されたという、日本初めての洋風庭園である日比谷公園は、演奏会や集会にも使われるようだ。今朝、千紗は先生に教えてもらった。
そんな開園したばかりの日比谷公園へ向かう人の波の中には千紗のように徒歩で行く人はもちろん、馬車や人力車の姿もあった。乗っている女性は美しいドレスに日傘をさしているのも見える。皆華やかで美しい。
それに比べて、
「……私は詰襟なんだけど」
歩きながら呟いた声にすぐ、横から不機嫌な声が降ってきた。
「別に着なくもいいのに、着ると言ったのはお前だろう。それに―――」
「わかっています! 具合が悪くなったら、すぐに言うこと、でしょ」
「……わかってるのなら、ぐだぐだと長ったらしくこうるさいその口を閉じたらどうなんだよ。あんぱんだの饅頭だの、いい加減聞き飽きた」
「……ずっと文句言ってるのは自分も一緒のくせに」
小さい声で文句を言ったら、どうやら聞こえてしまったようだ。
「僕は望んでここにいるわけじゃない。それが嫌なら先生にでも連れてきて貰えばよかっただろう」
桐野はそう吐き捨てるとそっぽを向いて、だんまりに徹してしまった。
(私は迷惑かけたくないから、行かなくてもいいってきちんと言ったのに……)
気のせいか、僅かに歩く速度が速まった気がする。先ほどまで桐野の横を歩くのをあまり考えずにしていた所為か、その速度が妙に忙しない。
いくら風が少し涼しくともこれでは汗でもかきそうだ。千紗は念のため首元を少し緩め、遅れた千紗を気にもかけない様子の桐野を追いかけた。
暑いばかりだと思っていた詰襟だけど、今日のように夏にしては曇り空で少し風の強い日には助かる。表面を滑る土埃は、那美子からの借り物の着物ではかなり土埃まみれになって、さぞかし気分が悪いだろう。
(それに買い食いしても、変な目で見られないのがいいしね)
女性たるもの、のような風潮がある明治時代の街並みで現代の高校生活のようにファーストフードを歩き食いなんてことはできるはずもない。明治時代の後半には良妻賢母が礼讃され、女性はあくまで慎み深さを守り男に従うのだと教えられるらしい。
そんなこと、現代っ子である千紗には全く興味がない話だ。体の宿主である曾祖母には悪いけど、男装しているのだから、と千紗は心の中で言い訳した。
「だって、先生は怖いんですもん。らーぶについて熱く語ろうとするんですよ?」
千紗は唇を尖らせた。
曾祖母の体を間借りしているという衝撃的な事実を知り、熱を出して寝込むこと四日。
先生と桐野は、最悪でも二日ほどで熱が下がるのだと考えていたらしい。予想に反して千紗の熱は一向に下がらず、結局金田のつてをたどって町医者を呼び込む事態にまでなった。
その間千紗はと言えば、ただひたすらにこんこんと眠っていただけで記憶はほとんどないのだけれど、目を覚ます短い時間には必ず誰かの顔は見ていた気がする。
金田は男装ではなくなった千紗が相変わらず苦手らしく、金田のいるときは障子の向こう側に背中の影が見えた。金田までも忙しい中付き添ってくれていたらしい。
先生は千紗のいる客間にまでお気に入りの紫檀文机を持ち込んだようだ。かろうじて均衡を保っていた床の間の本の山は桐野が崩した時の倍になり、そこはもはや小さな書斎だ。今、千紗の部屋は先生の私物で溢れかえっている。
目が覚めると、暑さの真っ盛りだった夏は過ぎ去っていた。秋の足取りも早く、今日は特に風に寒さも感じる。着込んだ詰襟で丁度いいほどだ。
(みんなに心配かけちゃったな)
やっと体の自由を取り戻した五日目は一応は念のための休養をとって、やっと迎えた六日目。いざ家の掃除をと腕まくりした千紗に先生から「待った」が入った。
先生から朝食もそこそこに書斎に呼ばれ、シェイクスピアを片手に「らーぶ」談義だ。千紗の浅く無駄に広い知識は、明治時代に存在する書物なのか否や判断することができずに聞かれるものに応えるだけだったのが、どうやら先生の講師魂に火をつけたらしい。
筆を片手にらーぶの研究にするからとにじり寄られ、千紗がそろそろ恩義の枠を越え限界を感じてきたころに桐野の来訪を知った。
最初、講義から逃げ出そうと提案した散歩は本来近場で良かったはずなのに、気づくと日比谷公園への散策に目的は変わってしまっていた。
金田の知り合いが公園内で演奏会をするのだという。
とはいえ、上級階級の主催するものとは違いリベラルなものらしく招待状も何もなく自由に聴くことができるらしい。本来であれば先生が呼ばれているその場所に、千紗は桐野と代理として顔を出すことになってしまった。
断ろうとした千紗に、失われた千紗の気力を取り戻すためとほんのちょっとの気晴らしが必要なのだと先生は言った。そういわれると、毎回外出で迷惑かけているからと断ることも難しい。
半ば追い出されるように桐野と家を出てきてしまったのだ。
「…あの人は……振り幅が激しいから」
眉を寄せて先生を酷評する桐野の口調には、いつになく苦々しいものが混じり合っていて千紗は首を傾げる。どうにも熱から目覚めてからというもの、先生と桐野の関係がぎくしゃくしている気がした。
「お饅頭、食べます?」
肩越しに突き出すと、目を細め物騒な色を湛えた視線にぶつかった。
「食べない」
「おいしいですよ。苛々しているときには甘いものが一番だと思います」
「……誰のせいだと」
横を向き、ぼそり呟いた桐野の肩に千紗は「聞こえないですよ」と文句を垂れた。
馬車の行き交う右前方に立派な和風の門構えが見える。その向こう側には恐ろしいほどに門に似合わない大きな洋館が見えて、千紗は目を輝かせた。
「桐野さん! 公園はあっちにもあるんじゃないですかっ?」
羽織の袖を引けば、これ以上もない不機嫌なため息が降ってくる。
美しい城にも似た巨大な館だ。アーチ型の窓にかかる柱を見れば口が開いたまま、閉じなくなってしまう。ヨーロッパの城を見ればこんな感情を抱くのだろうか。これほどまでに壮麗な建物を千紗は見たことがない。
田舎者丸出しの大声に嫌気がさしたのか、桐野は足を止めて振り返った。
「馬鹿、あれは華族会館の門だ。向こう側は帝國ホテル。そんなことも忘れるなんてお前の記憶障害も末期だな」
「かぞく、かいかん?」
「元鹿鳴館の華族会館だよ」
「……帝国ホテルは、千代田区のですか?」
「違う! 麹町区」
千紗は黙ったままその豪華な建物を眺めた。千紗の記憶にある帝国ホテルとは随分とイメージが違う。記憶にあったのはもうちょっと近代的なイメージだ。
(これからの戦争で破壊されるのかな……)
恐らくこれは建て直す前の建物なのだろう。これからいくつもの戦火を東京は乗り越えなくてはいけない。それでもこの素晴らしいものが千紗が現代に戻った時、すでにないことを思うと巨大な美術品に見えるその建物が残っていないことが国の損害に思えてしまう。
―――――――――いやでも思い知らされた。
「……ここはやっぱり………過去、なんだ」
「次はなに」
「何でも……ない、です」
首を振った千紗は、なんでもない、という様子には見えなかったのだろう。触れないほうがいいと判断したのか。これ以上桐野は千紗に突っ込むことはせず「行くよ」と短く告げると人の波に足を踏み入れた。
声をかけられても立ち止まったままの千紗を振り返らずに無視して行ってしまう桐野は、はた目から見ると冷たいようにも見える。
(でも、きっと待ってくれてる)
千紗には確信があった。
寝込んでいた数日間、最初の日を除いて千紗の眠る客間に一度たりとも桐野の姿はなかった。久しぶりにあった今日も顔を見るなり厭味と苦言の応酬で、千紗の体調を気にするそぶりは欠片も見せない。外出の伴に決まるや否や、日比谷公園までの道のりの桐野は口を開けばほとんどが愚痴だ。
それでも眠り込んだ毎晩の真夜中、千紗の耳にはかすかに開く障子の音が聞こえていた。長くても十数秒、短いときはほんの五秒くらい。障子を閉める寸前、安堵のため息をつくその気配にいつしか胸が締め付けられるようになったのは何日目のことだっただろうか。
ここはかりそめの場所だと千紗にも分かっている。
本来は曾祖母の生きる世界、のちの千紗が産まれる礎になる時代だ。千紗の生きる未来を創るためにも、千紗はここで間違った判断を下すわけにはいかない。
(……私の気持ちを優先するなんて、絶対にいけない)
曾祖母の選ぶ真実の相手を千紗は見極めて、確実に「未来」に繋がなくてはいけなかった。そうでなくては未来の千紗はきっと消えてしまう。
覚えているのは「物書き」である一般人ということだけ。三十に亡くなった曾祖母は曽祖父の名前も写真も残さなかった。もしかしたら、これ以上の情報を祖母に聞かされていたのかもしれない。でも今は千紗の頭の中にはこれ以上の情報はなく、無理に思い出そうとしても黒く霞みかかって先が見えない。
これはもしかして、
(未来は確定されていないってことなのかもしれない)
それであればこそ千紗の判断に総てがかかっている。
立ち止まったまま、向こう側の美しい帝國ホテルを睨み付けていると、人ごみの向こう側から桐野の姿が見えた。追ってこない千紗に焦ったのか、歪んでいない目元は大きく見開いている。
「馬鹿っ! 迷子になりたいの」
千紗を見つけるなり怒鳴りつける。これだけの人ごみの中では逆流して戻ってくるのはかなりの骨だっただろうに、千紗は迷惑かけたことも忘れ思わず噴き出してしまった。
桐野が眉を顰める。
「本当にいい加減にしないと置いてくよ」
そう口では言っても次はそのまま背を向けることなく、伸びてきた手が千紗の手首を掴んだ。
(苦しい)
掴まれた手首から熱いものが流れ込んでくる気がして、千紗は思わず饅頭の袋を抱いた手を胸に押し付ける。柔らかく小さな饅頭が強くもない力でもつぶされていくのがわかった。
「お土産のお饅頭、潰れてしまいそうですね」
暢気に笑った千紗に、桐野は千紗の手首を引いたまま「全部食べてしまえばいいよ」と答えた。
肩がぶつかりふらつく千紗の顔を、厭味たらしい笑みを浮かべて見る。
「そうすれば肉もついて、男なんかには間違っても見えなくなるだろうからね」




