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明治逢戀帖  作者:
第三章 当世高校生気質
19/61

 これ以上何も語るものがないという合図だろう。瓦斯燈がちかちかと瞬いた。

 桐野は、くたりと先生の腕に頭を預け今は身動きしない千紗を見つめた。先ほどまで辛うじて起きていたのは知っている。総てを聞き終え緊張の糸がやっと切れたのかもしれない。桐野が口を閉ざした後も目を開けるそぶりはなく、深い眠りに落ちたままだった。

 その力ない体を受け止める先生に桐野は視線を向ける。声をかけたのはただの確認でしかない。

「先生」

「……如何やら……眠って仕舞ったようです」

 やはり思っていた通りの返事が戻ってきた。

 千紗はわずかに荒いながらも安定した寝息を立てている。頬を流れる汗はまだ熱が完全に引いていないことを示していて、桐野は小さくため息をついた。

 もしかすると明日もまだ起き上がることができないかもしれない。体ではなく、千紗の心もまた悲鳴を上げているのだ。きっとそのせいだろう。

 壊れ物を扱うようにゆっくりと寝床に千紗を寝かせた先生は、汗で張り付いた千紗の濡れた前髪を人差し指で優しく避けた。剥き出しになった額に冷たい手ぬぐいを乗せるとやっと安堵したらしく、頬を緩ませる。

 眠る千紗の顔は、まるで親に抱かれ安堵した幼子だ。よほど先生の腕の中は気持ちがよかったのだろうか。なんとなくざわめいている心に桐野は静かに蓋をした。そういうことが今は問題じゃないと言い聞かす。

 同情を向けた相手、記憶を失った「千紗」は、あの新橋の路地で桐野が見た「伊沙子」の印象とは似つかない、絶望も何も知らない無邪気な少女だった。

 記憶を失っただけなのに、随分と明るい印象に変わったと思う。時に常識外れなことをしでかしたり、聞いてきたりするのは記憶障害のせいなのだ。あれだけのことがあったのだから、そういうこともあるのかもしれない。

 ――――――――――人は簡単に苦しいことを忘れてしまえる。

 父親を亡くし家族離散の目に合い、努力してやっとのことで掴んだ桐野の希望に満ちた将来は隔たれてしまった。それでも桐野の記憶は今も失われることなく、後悔と自責の念に苦しみ続けている。

 嫌なことをすべて失い別人のように生きていける千紗が、桐野はうらやましかった。

 失うべくして失ったのならば、手に入れた新しい人生を思うがままに生きてみればいいと思う。桐野にはできない生き方を、この少女は選び取ることができる。

 空虚な顔で「うちへ戻りたい」と呟くくらいの人生ならば、何もかもを捨ててしまえばいい。

「最初、僕は彼女を下宿屋に連れて行こうと、思ったのです」

 ぼそりと話し始めた桐野を、先生は千紗が目覚めるからと咎めようとしない。瞼をぴくりとも動かさない千紗の顔を、穴が開きそうなほどに見つめている。

 いつもなら時場所を選ばずそばに置いているはずの本は、今先生の手にはなかった。そういえば、千紗がこの家に運び込まれてから先生は一度も本を手にしていない。

 代わりに、雛鳥を守る親鳥のように千紗の傍からひと時も離れようとはしない。だからこそ桐野が水の張った盥や水を持ち込むためにこの家を離れるわけにはいかなかった。眠る少女が心配だったわけでは決してなく。

 先生は千紗の額から温まった手ぬぐいをおろした。どんなに冷たい水に浸しても、どうやらすぐに温まってしまうようだった。

「然うして………参商君は、過去の人生を振り切れば良いと思ったのですね?」

「浅慮な振る舞いでした」

 先生が講師をしてきたときの呼び方に戻っていることを、桐野は何も言わないままでいた。

 頑なに過去の自分を切り捨ててきた先生が、当時の呼び名に戻ることはさほど嫌悪感はない。むしろまだ、あの当時の素晴らしい教鞭をあきらめていない桐野にとって、少しでも面影を見せることがうれしい。先ほど咎めたのは千紗の前だからだ。

「彼女には彼女の考えが在る。僕は、あの場でやはり手を離すべきだった」

 吐き出した声には後悔が混じり合った。

 桐野の住む下宿屋に連れて行ったとしても遅からず誰かの目には留まったのだろう、今考えてみたら簡単にわかる。「妻」でもなく「妹」でもない女を連れ帰って、周りがいきなり受け入れられるとも思えなかった。

 記憶のない女を受け入れることができるほどに収入があるわけでも守り切れるほどに地位があるわけでもない桐野が、結局千紗の懇願するままに連れてきてしまったのは、あの時のあの場所で魔が差したのに違いない。

 これはきっと懺悔だ。誰にも吐き出せない言葉を、目の前にいるのが先生だからこそ桐野は吐露しているに過ぎないのだろう。

「僕は記憶を失う前の彼女に助けを求められた訳じゃない。只勝手にあのむごい状況を見て助けて欲しいのか、と思い込んだに過ぎないのです。僕なら彼女を―――」

 救ってあげることが出来るのかも知れないと慢心した。

 言いかけた続きを口にせず、桐野は畳に拳を強く叩きつけた。

 千紗がこの家に来てからまだそれほどにたっていない。つい一週間ほど前まで納屋だったそこからは、埃が立ち上った。そうしてここはまたあと僅かで納屋に逆戻りしてしまうのだろう。ほんの少しの思い出だけを残して。

「迫り来る馬車から彼女を救えた時、僕は父のように死を選ぼうとした人間を救えたことで………まるで過去、届かなかった父の死へ手が届いたような気がして仕舞いました。僕は……其れだけで会心して仕舞ったのです。かすり傷だけなのであれば、其処から彼女の言う「うち」に帰って呉れさえすれば、死を選びさえしなければ……どんな選択だって有るのだと僕は思って……っ!」

 悲鳴のように吐き出す声は、かすれていく。

 うつぶせた桐野の鼻にかび臭い畳が触れ、桐野はそこを爪で引っ掻いた。爪と肉の間に容赦なくいぐさが突き刺さる、書斎とは異なりここには絨毯が敷かれていなかった。

「先のことなど考えもしなかった」

 死にたいと心から願っていた少女に、勝手な同情を抱き手を伸ばしてしまった。

 桐野は両手で顔を覆った。

「………今なら…まだ間に合うと思うのです」

 それでも指の隙間から、眠る千紗の顔が見える。

 記憶を失う―――たったそれだけで笑顔を取り戻せた少女は、やっと得た安息を自ら手離して渦中の中へと戻ろうとしている。どんなに記憶を失い、苦しい現実が待つのだと知っていても運命は結局、元ある場所へと戻って行ってしまうのだろう。

 それは桐野にとって、いまだに受け入れがたい自分の現実を突きつけられたようだ。

 過去から立ち直れずその場で立ち竦み、いまだに精彩を欠く文しかかけない自分を嘆き、無くしたものを見つけることしかできない。足掻いてもまだ結局、この迷い道の中にいる。

 結局桐野は先生のことばかりを咎められなかった。心が壊れているのは、桐野もまた変わらない。

 今の感情はまだ同情だ。それならばまだ手が離せる。

「何もなかったことにして、彼女の望むままに手を離してしまおう……と、然う言うのですか? 君は」

 先生の声には責めるような色が混じり合っている。

 暑かったのか、布団から出て胸の上に乗った千紗の手を苦笑交じりに布団の中へと誘い、先生はやっと千紗から視線を離した。先生の視線は咎めているようにも自嘲している様にも見えて、桐野はあえて視線を外す。

 胸の奥の感情を読み取られてしまいそうだった。

「其れで………参商君は「彼女」と全くの他人に戻る、と云うのですね」

「……其れが、彼女の望むことならば」

 両手を畳について、桐野は自分をまるで土下座でもしているようだと思った。そうなのだとしたら一体誰になのだろう? 千紗になのだろうか、伊沙子にだろうか。桐野には答えは見つけられなかった。

 眠る千紗は桐野に「次は足掻く」のだと言った。

 足掻くことが生きていてくれることならば、次こそ桐野の出番はなく新しい物語になるのだろう。苦しみの中にも光を見つけ、逃げることなく立ち向かうことができる。記憶を失った後の「伊沙子」である千紗はそんな人間なのだと、桐野は思っている。

 そして、その戯曲の登場人物に桐野の名前はない。

「本来、絡むことの無かった糸です。解けば、互いに元在る場所へと戻ると思って居ます」

「……逃げるのですか? 参商君」

「逃げるですって?」

 その言葉に、思わず凪いだ心が波だった。

「僕は人を助けただけでしょう。先生は目の前で失われそうな命を見殺しになど出来るのですか? 其れがどんな命であれ、誰でも手を伸ばす筈だ。違いますか?」

「……さあ、僕は冷たい人間ですからね。突き放すやも知れませんよ」

「今、其処に受け入れた命が在るではないですか。先生が突き放せば、彼女は途方に暮れるだけでした」

「参商君が連れて来たからでしょう。僕に他意は在りませんよ」

 子供の主張のような言い訳に、桐野は眉を跳ね上げた。

「………其処まで言うのなら、先生が彼女を受け入れたら良いではないですか! 実際に……今の先生を見ても彼女と先生は懇意の間柄としか思えない!」

 決して離れない距離が、それを物語っている。

 見ないふりをしていてもわかる。先生は過去の千紗を知っているのだと、桐野は薄々気づいている。恐らく、門下になる前、講師時代の先生の過去に「伊沙子」は深くかかわっているのだ。

「貴方が救えば良い。彼女が苦しむのだと分かって居るのなら、あなが掴んで逃げてあげれば良かったんだ……!」

「僕には……無理ですよ。残念ですが」

 先生は微笑みながら桐野の提案を一蹴した。

「其んな甲斐性がないことくらい参商君も知って居るでしょうに。僕は、講師すらまともに続けることができない男ですよ」

「其れは……あの件があったから――」

「どんなに大切な親友が身罷っても、其の度に心が壊れてしまっては此の世は生きて往けないのです。参商君」

 桐野は口を噤んだ。

 心が弱いのだと、先生が講師をやめた時に囁かれた陰口は桐野も聞き知っている。帝國大学を卒業し、欧羅巴に留学、大学講師になるという誰もが羨む道を辿りながら、先生は少しずつ壊れていった。極端に繊細なのだ、とよく言ったものだ。

 知識も何もかもがもろ刃の剣、周りからの称賛も批判も同じように先生を傷つける。絶望と背中合わせの文はいつしか評価を得るようになり、それでもその心中を吐露する文すら自身を傷つけ、気づくと筆を持つこともしなくなった。

「……僕は、「彼女」を助けたいのです」

「其れで僕に押し付けるのですか、此の記憶喪失の女を?」

「拾ったのは参商君じゃないですか。助けて欲しい、と言われて振り払えなかったのでしょう?」

 笑いながら先生は千紗がこの家に運ばれて初めて、布団の脇から立ち上がりそばを離れた。

 ふすまを開けると窓の向こうから忍び入った夜風が、いつの間にか蒸れていた部屋の空気を浄化していく。

 向こう側に見えるのは、漆黒ではなく濃い群青の闇、その上にぽかりと月の船が浮かぶ。着流し姿のままで、先生は月を見上げた。

「今日は……月が綺麗ですね」

 桐野は返事をしない。

 それが自分に向けて言われた気がしなかった。先生の横で返事をする筈の人は声も出さずただただ眠りについている。桐野は小さく吐息ついた。

「先生の元へ彼女を連れてきてしまった僕は……間違ったのですね」

 瓦斯燈の下で桐野は眠る千紗を見つめていた。

 先ほどよりもずっと、呼吸が楽になってきたらしく穏やかな顔になっている。指を伸ばし、その眠る千紗の前髪に触れると随分としっとりしていた。

 千紗をこの家に連れてきてしまったということは、知らずとはいえ癒えずに敢えて見ないふりをしてきた先生の傷を抉り、剥き出しの傷に塩を塗り込んだようなものだったのだろう。

 桐野の呟きに、先生は微笑み首を振った。

「其れは参商君、其れこそが運命と呼ばれるものだと僕は思うのですよ。僕は……もう一度、彼女に逢えてとても嬉しい」

 例え糸が二度と交わることがなくても――――――先生は眠る千紗を廊下から立って見つめた。思わず、桐野は眉を寄せる。

「先生、貴方は残酷だ。小説の登場人物のように、僕達は先生の頭の中で生きて居ないのですよ」

 眠る千紗を睨みつけて、憎々しげに吐き捨てた。

「貴方は結局、いさのことしか考えて居ないじゃあないですか」

 月の船が、ぽかりと空の海に浮かぶ。彼の人は眠りについたまま、起きる気配もなかった。


     ◆     ◆     ◆

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