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明治逢戀帖  作者:
第三章 当世高校生気質
18/61

     ◆     ◆     ◆


 東京新橋の駅付近にいくつもの店ができると、元々花柳街で栄えていた新橋・銀座は、芸妓のいる世界にはとんと付き合いのない桐野でも随分と行きやすい場所になった。

 軒を連ねる煉瓦造りの建物は銀座に多く、美しい洋風の建物が並ぶさまはリスを思わせるのだという。政府高官が芸妓に物を買い与えるおかげなのか、輸入品や高級品を扱う店は年々増え景気は潤っているようだ。最近は特に洋装の人間を見かけることが多くなった。皆一様として威張っている。

 そんな銀座の端にある知り合いの勤める新聞社に向かう途中、新橋の裏通りを通っていた桐野は不穏な声に足を止めた。

「お前は……っ!!! 何処まで私に恥をかかせれば気が済むのだっ!」

 軍服の男に引き摺られ、桐野の行く手を阻む形で目の前に海老茶袴の少女が投げ出される。

 勢いにふらつき、少女はブーツの足を数歩を危なげに前に出して、何とかみっともなく転倒するのを避けた。黒い髪の毛が乱れたのにも気づかないようだ。袴の裾が汚れた裏通りの泥に濡れる。ここ最近雨が降っていないはずなのに、路地は随分とぬかるんでいた。転ばなかったのは幸いだっただろう。

「良くものうのうとっ! 私を侮辱して居るのか!!」

 激昂した男はしゃがみこんだ少女の髪の毛をひと房掴み、持ち上げる。声を押し殺した悲鳴が上がった。

 いささか乱暴すぎる行動に桐野は飛び出そうとする体を諌めた。手を出さなかったのは臆したわけじゃない。少女がそれを甘受していたからだ。

 栄えている新橋も裏通りともなればその光までは届かない。

 もし誰かがこの状況を目にとめていたとしても、少女に手を上げているのが軍服の男という時点で見て見ぬふりをして通り過ぎるだろう。軍と警察は命令口調が基本装備だ。軍服に逆らってもいいことはない。

 だからこの場は黙って立ち去るべきだろう。少女が甘受しているのならばこんな面倒事に構っていても仕方がない。

 桐野もまたそう思っていた。―――――――――――そう、するつもりだった。

「あれも要らない、此れも要らないと、私に対するあてつけかっ!」

「……違うのです。伊沙子は本当に―――」

「五月蝿いっ! 黙れ、引き摺り戻されたいのか!」

「……御免なさい。……お兄様」

 苛立ちまぎれらしく男は足元の泥を蹴りつけた。傍目の割に随分と幼げなそぶりは、綺麗に磨かれた軍靴を泥に塗れさせてしまう。

「……靴が……」

「触るなっ!!!」

 近づく体を威嚇されて、伊沙子は怯えたように身を竦めた。

 この二人は随分とおかしな関係の兄妹らしい。出歯亀をするつもりはなかったのに、思わず桐野は丁度軍人の死角に隠れ聞き耳を立ててしまう。

 胸元の風呂敷包みを強く掴む。こういう使えそうなものを探ってしまうのは物書きの卵である桐野の性だ。

 新聞社に持ち込むつもりだった原稿用紙が急にうすっぺらに感じた。目の前にあるこの複雑な人間模様を原稿用紙に書き込むとどうなるだろうか。きっと今まで感じたこともないほど面白い書き物になるだろう。身の危険よりも興味本位が勝った。

 少女もまた、桐野の存在に気づかず、息も絶え絶えに唇を開いた。その響きは、懇願しているようにも、どうしてか総てをあきらめているようにも聞こえる。

「幸せだと……伊沙子は思って居ります。十七で世を儚むと言われた私を、此処まで大切にして頂いたのですもの。 ……総てお兄様の宜しいようになさって下さいませ」

「貴様っ! まだ言うか!」

「………っ!」

 髪の毛が重力に逆らって天に上る。それを掴み上げた少女の兄は、そんな伊沙子の言い分にも納得できなかったようで乱暴に振り払った。

「腐った血の流れたお前をこの私が使ってやるというのだ。せめて物言わぬ人形となっていればいいものを! 私は父と違うぞっ!」

「……は……い…」

 か細くたおやかな体が簡単に振り回されて、兄の指で強引に顎を囚われる。

 持ち上げられた顔を苦しそうに歪めて、唇を薄く開くさまはまるで餌を求める魚のようだと桐野は思った。

 顎を拘束したまま、その半開きの伊沙子の唇に礼装の白手袋の指が触れて乱暴に紅を拭い取る。逃げようと思えばいつでも逃げられるはずなのに、伊沙子はその拘束から逃げようと考えもしてないようだった。

 だらり、垂れた両手がそれを物語っている。

「……膨大な結納金と引き換えだ。お前は従順な女のままで向こうの言いなりになって居れば良い。後は私が……然うだな。何とかしてやる」

 その紅を自らの唇にゆっくりと這わせた男は、兄とも思えない扇情的な表情を伊沙子に向け、顎を掴んだ指を離した。ふらつくようにして伊沙子が薄汚れた壁に背中を預け、肩で息をつく。

 うつむいた伊沙子の顔は、少し離れた場所で立ち竦む桐野にもわかるほどに青褪めている。軽く握りしめた片手をもう片手で抑え込むように掴んでいた。必死に震えを抑えようとしているのかもしれない。

「………私は戻る。お前は……久美子と一緒に屋敷に戻って居ろ。馬車は大通りに呼んで置く」

 男は自分で伊沙子の唇から紅を拭い取った手袋を睨み付けた。まるで不本意で汚してしまったようにも見える素振りで、その部分を汚らわしいかのように指で引き潰す。

 寄りかかった伊沙子は声に出さず小さく頷いた。乱れた髪がさらりと頬を隠す。唇からわずかに紅がはみ出している姿は、敢えて感情を消して人形になってしまおうとしているようだ。

 ―――――――――小説の登場人物なのだと思ってしまえばいい。

 原稿用紙の中でのみ生きる人間に、共に苦しんでも手を伸ばそうとは思わない。そうなれば話の行き先は変わるだろうし、迷走してしまうだけなのだ。

 何もかもの行き先はすべて決まっている。どれほど足掻こうとも、結局は絡まない糸はそのままで迎える現実を淡々と受け入れるしかない。人は無力な生き物だ。

 そう思っているのに、俯く顔から目が離せなかった。それを人は「同情」というのだとわかっていた。

「貴様、何を見て居る! あっちに行けっ!!!」

 眉をひそめ立つ桐野の存在に今やっと気づいた兄が、顎で促しながら怒鳴りつけてくる。その声にゆっくりと顔を上げた伊沙子の感情の失せた視線に兄が舌打ちをし、大股でこの場を去っていった。 

 残されたのは、桐野と伊沙子だ。

 伊沙子は桐野の存在がさほど重要ではないらしく、ふらり、ひとり立ち上がった。立ち竦んだ桐野に視線も向けず、大通りに向かって歩き出す。

 足元を汚す袴についた泥は乾き始めていた。

 それを伊沙子は払わない、乱れた髪の毛も直そうともせず足を進める。頬に一粒、涙がこぼれていた。ぬぐわずに歩く足に迷いはないというのに、全身で大通りに戻ることを拒んでいるようにも見える。

「………………うちへ……帰りたい」

 そんな囁きが聞こえた。

 誰かに聞かせようと思ったわけでもなく、ただ口から零れ落ちただけのような小さな囁き。それが耳に入ってしまったのは本当に偶然の産物で、神の悪戯以外何でもない。

 大通り側へ歩いていく伊沙子を思わず追いかけたのは、その「うち」が少女の兄のいう「屋敷」とは異なっていると感じたからだ。表情は抜け落ち、操り人形のごとく歩きながらその声だけには妙に感情が籠っていた。だからかもしれない。

 馬鹿なことをしているという認識は桐野にもあった。

 新聞社に勤める知り合いとの約束は昼ドンの前、十時の予定だった。途中まで鉄道馬車を使い、新橋駅の近くで降りたころにはすでに残り三十分を切っていたはずだ。だとしたら、約束の時間まで猶予はない。

 わかっていた。

「……っ! 最悪だ」

 桐野は吐き捨て、角を曲がった伊沙子の背中を追う。

 大通りに迎えが来ていると言っていた。呼びかけたとしても何の解決にもならないとわかっている、それでもなぜか放っておけなかった。

 いつもの袴ではなく慣れない羽織がぎこちない。借り物の羽織を汚せば、金田に怒られるだろうか。こんな時に限って能天気な知り合いの顔が過る。思わず踏み出した足の速度が緩んだ。

 帝國大学を卒業し大学士となって中学の教師をしている金田は、家の都合で大学を中途退学せざるを得なかった桐野には憎らしいほどに模範的な未来設計を歩んでいる。複雑怪奇な性格と七面倒な人見知りは別として、裕福な家の援助もあって英吉利への留学をし金田は明るい道を進む。

 桐野は大学進学をあきらめ、元帝國大学の講師である「先生」の意思を継ぎ、長屋町や細民街の子供たちに教鞭を執りながら、物書きの道を選んだ。それでも「文」だけで生きていけるわけではない。

 何かが足りない、と先生に言われた。桐野にはその意味が分からない。先生にあるはずの物語の引き出しは桐野の中には存在しなく胸を打つ話が書けない。

「僕には……此んな子とをして居る余裕はない……って云うのに」

 止まりかけた足を桐野は再び動かした。馬鹿だ、と十分にわかっていた。

 すでに伊沙子が通りに面した場所で、同じ海老茶袴の少女と立っていた。伊沙子よりも長い髪を揺らし、久美子なのだろう少女は声を荒げている。良家の子女にはあるまじき鋭い声で、伊沙子を咎めているようだった。

 何かを久美子は言ったのだ。

 短い一言を言い残し、久美子はひとり、用意された馬車に乗り込んで帰ってしまった。伊沙子は車輪から飛ばされる砂ぼこりの中立ち竦み、呆然としていた―――わけではなく、

 ――――――――――――――――嬉しそうに、笑っていた。

 大通りに足を踏み出した桐野の背筋に冷たいものが走る。

 そんな顔を桐野は大学の在学時見たことがあった。経営不振に陥った会社も、大学に進学したばかりの子供もすべて捨てて自ら命を絶った父親にその笑顔が酷似していた。

 それまでずっと耐えてきたのだろう。その枷が今、失われてしまった。思いもつかなかった「逃げ道」を今、伊沙子は久美子から命令された。

 唇はくっきりと、

「死んで仕舞えば良いのに」

 と刻んだ。

 ―――――そうか、死ねばよかったのだ。

 やっと与えられた明確な指針に嬉しそうな笑顔を浮かべたまま、伊沙子は躊躇せず迫りくる馬車に背中から身を投げ出す。

 桐野の脳裏に首を吊った父親の姿が過った。ただ無心で手を伸ばした。助けたかったわけじゃなく、ただ放っておけなかった。目の前で誰かが死んで、心が壊れていくさまをもう見たくなかった。

 それだけだった。

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