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明治逢戀帖  作者:
第三章 当世高校生気質
17/61

 髪を撫でる指に気づいて、千紗は目を覚ました。

「具合はいかがですか?」

 見慣れない天井が見える。千紗のよく知る真っ白な壁紙の天井ではなく、小さなころに祖母の家で見たような板間の天井だ。欄間の向こう側は暗かった。もうすでに時刻は夜らしい。

 頭が重かった。瞼がやたらと熱く、咽喉が乾いて張り付いている。額に違和感を感じて布団の中の手を持ち上げようとしても手はすごく重く、指をほんの少し動かしただけで千紗は持ち上げるのを断念してしまう。

 かすれる声で目の前の人を呼んだ。

「せ……んせい?」

「はい、私です。覚えていらっしゃいますか? 千紗さんは突然倒れたのですよ」

「……頭………痛いです」

「ええ、そりゃあ熱がありますからね、今日は特に暑かったから詰襟を着込んで出かけるのは少し女性の体では酷だったようです」

 額に乗っているのは濡れた手ぬぐいだったらしい。額に風が流れる感覚のあと、盥にはった水の中で手ぬぐいが泳ぐ音がする。熱く火照った額に濡れた手ぬぐいは冷たく、気持ちよかった。

 どかどか、と激しい足音が聞こえてふすまが開いた。千紗は枕に乗った頭を動かさずに視線をだけを廊下側に流した。

「ああ、起きたんだ」

 新しい盥に冷たい水を用意してくれたらしく、桐野が水のコップの乗った盆と共に現れた。両手がふさがっているのにふすまが開いたのは、もしかして宙に浮いているつま先でこじ開けたのか。どちらにしても行儀悪いことこの上ない。

 盆を先生に手渡すと盥を新しいものに取り換え、桐野は部屋の端にどっかと腰かけた。膝を片方立てたままの恰好で相変わらず髪の毛は無造作に括ってある。ただ、下谷の長屋町にいた時とは様相を変えらしくない地味な着流しに羽織を肩掛けしていた。

 わずかに髪の毛が濡れているのは水でも浴びたあとなのだろうか。部屋の端を陣取った桐野を見たくとも、寝転んだままではこれ以上視界に入らない。

「あ、だめですよ」

 体を起こそうと半身を動かし肘を立てると、先生が慌てて千紗の肩を押さえつけた。

「……でも」

「これ以上迷惑かけるつもりか。黙って寝てなよ」

 向こう側から桐野の呆れた声がやってくる。先生も微笑み交じりに頷いた。

「そうですよ、ここで無理をしたら何のために桐野君が背負っ―――」

「っ!!!!!!!!!!」

 盛大な物音が聞こえ、続いて何冊もの本が激しく床に叩きつけられた。音のあとにふわりとと埃が舞う。掃除をしておいてよかった、とちょっと思った。

 千紗の視界に入るところにまで本が滑り込んでくる。床の間に積み上がっていた本の山を、何かの拍子に崩してしまったらしい。

 先生の咎めるような視線が桐野へ向けられる。

「桐野君、一応それはどいの外書でなかなか手に入らない貴重なものですからね?」

「……そういう貴重なものは書棚にでもしまって、こんなところに投げて置かないでくださいよ。大体、これは仕舞ったと言わないで放置したと言うんです」

 千紗は滑り込んできた本に手を伸ばす桐野の顔を見上げた。だらしない前髪の向こう側にある目には鋭い光はなく、気遣うように千紗を見下ろしている。顔が近いときは比較的、睨まれないような気がする。

 なんとなくほっとして千紗は口を開く。

「……せっかく教えてもらったのに、何も思い出せないみたいです」

 桐野は合った視線をずらし、手元に戻した。

「何度も言っているけど、僕は思い出せって言ってるわけじゃない」

「……はい」

 ずるりとつま先を引き摺り、桐野が元いた場所へと戻っていく。

「金田さんは……?」

「金田君は明日、お仕事があるので早々に帰りましたよ。彼は前途ある少年少女を導くお仕事をしているのです」

「導く……?」

「中学校の先生だよ、英語を担当しているんだ」

 熱で朦朧となっている千紗に、桐野が丁寧に説明をしてくれた。金田が英語の先生なのなら、千紗があの路地で話したカタカナ英語の羅列も理解できていたんだろう。むきになった千紗がちょっとバカみたいだ。

「僕の教え子はみな揃って優秀で鼻が高いです。この国の未来は明るいでしょうね」

「……先生もまだ現役でしょうに。何、自分だけ引退した老人みたいな言い方をしてらっしゃるんですか」

 自分の未来だけを置き去りにした先生の物言いに、桐野が眉をひそめたようだった。わずかに険のある口調で先生を窘める中で、先生は微笑んでその不穏な空気を押し流してしまう。

(心が壊れた……)

 見ているだけでは先生はいたって温和で何もおかしなところはない。

しんしょう君も金田君を倣って先生になるのはどうでしょうか? 僕は応援しますよ」

「……学生時代の呼び方は止めていただけませんかね」

「しんしょう、というのが……桐野さんの名前なんですか?」

 千紗の声に部屋の端からため息が聞こえた。これが返事だ。

 明らかに先生は、自分の話題から話をそらすため桐野の名前を出したとしか思えない。意味ありげに笑う先生が千紗の額から手ぬぐいを取り、再び水に沈めた。

「………両親が杜甫の好きな人だったらしい。冬のオリオンと夏のさそりは決して合見えることがないから、一度会った人とはもう一度出会うのは難しい……って、そんな意味の詩を子供の名前に入れるってのは、僕はどうかと思うけどね」

 千紗には言っている意味がほとんど理解できない。どうやら詳しく説明してくれる気はないらしい。

 先生が手ぬぐいを絞りながら、笑う。

「決して合い見えることのない参星と商星を歌うなんて、まるで名前が呪いのようではないですか」

「違いますよ、参商君」

 先生の敢えての名前呼びに、桐野は深いため息を返す。

「ご両親は出会いを大切にせよ、と言いたかったのですよ。そもそもこの詩は、杜甫が二十年ぶりに親友に再会できた感激を詩っているのですからね。大切な人と一度別れると、どんなに願ってももう一度会うことはなかなか叶わないのだと、だからこそ一度の出会いを大切にしろと言っているのだと僕は解釈しています」

 千紗は、微笑みを崩さないまま盥の上で手ぬぐいを絞っている先生を見上げた。

 視線が合えば、先生は嬉しそうに笑う。でも、

(どこか悲しそうに見えるのは、先生がいろいろな人を失ってきたからなのかな)

 桐野もまた同じことを思っていたらしい。無駄に言い返すことをせず「まあ知っていますけどね」とこの会話の流れを閉じた。

 部屋は静かだった。ぱらりと桐野が本を捲る音ですら響く。瞼が虚ろになり閉じたり開いたりを繰り返していると、先生が「眠っていいのですよ」と言ってくれる。

 千紗は体からわずかに残っていた力を完全に抜く。

「……はい。でも……なんかこんな静かな時間がもったいなくて」

「そうですか? ではもう少し、話をしましょうか?」

「……はい」

 伊沙子の名前を聞いて、ほのかに祖母と曾祖母の記憶は戻ってきていた。離れてバラバラになったパズルのピースが何かをきっかけに僅かな時間だけ組み合わさって、千紗の中に存在している。

(でも、きっとすぐにわからなくなる)

 そんな実感はあった。両親の顔は思い出せないままだし、千紗が事故に合うまで何をしたのか、その前に祖母と話したことも記憶がない。千紗の脳はきっと必要なことだけをパズルのピースとして残し、あとはゴミ箱に投げ捨てているに違いない。

 曾祖母の体は千紗の体に馴染んでいる。似ているのは当たり前だ。千紗にもまた伊沙子の血は流れている。三十歳でこの世を去った伊沙子に生き写しなのだと、千紗は祖母にも幼いころからずっと言われ続けてきた。

 傷一つない美しい指、手入れのされた長く黒檀の髪。伊沙子は男爵家の令嬢で、好きな男ができた上に意に沿わぬ婚約を強いられて屋敷を逃げ出してしまった。

(それほどに……好きな人がいたの?)

 千紗の通う高校でも、たくさんの恋愛話があった。どちらかというとまだ興味を持てずに、話を合わせるだけだった千紗だって小学校、中学校を経てきちんと初恋は済ませているわけだし、ここ最近の高校生は体の関係にまで行ってしまう友達もいるくらいだ。

 それでも、身を焦がすような恋愛をしている人はその中にいるのだろうか、と千紗は思う。なんとなく好きな気がして、束縛して喧嘩して別れてしまう。命を捧げるほど愛して、それでも叶わずに引き裂かれてしまう恋愛なんて高校時代にはお目にかかれない。

 顔を動かせば、桐野の視線とぶつかった。

 今の千紗に、祖母の話を聞いて「どんなに迷惑かけても自分を押し通すなんて、自分勝手だと思う」なんてこと言い切れるとは思えない。この時代に感化され過ぎているのかもしれない。

「私は……伊沙子、というのだそうです」

 千紗は言った。

 先生の顔がそれを聞いて大きく歪む。千紗の境遇を憂いてくれているのかもしれない。それを隠そうとして微笑むつもりらしいけれどどうやら失敗したらしかった。

「……正直、言われても実感がありません。……でも、分かったんだから帰らなくちゃいけません……よね?」

 頬に伸びてきた先生の手が、何かに躊躇して千紗の目の前で軽く握られた。

 頬にそれが触れることはなく、指は汗と水に濡れた額から千紗の前髪を避ける。手ぬぐいは乗っていなかった。剥き出しの額が子供のようで少し恥ずかしい。

「……そうですね」

 小さく呟いた声は、自分を納得させようとしているようにも聞こえた。向こう側で桐野が本を閉じた音。衣擦れの音は膝を倒し、体をおこしたのかもしれない。

「僕は……反対です。先生は「あれ」を見ていないから―――」

「そう、僕は「先生」として言わないといけないのかもしれませんね」

 言いかけた桐野の声に先生は畳み込んだ。

 千紗は湿った枕の上でわずかに頭を動かして先生の顔と部屋の端、交互に視線を移動させる。そんな千紗の瞼の上に柔らかい手のひらが乗った。柔らかなガス燈の灯りがたったそれだけで闇に代わる。

(顔を見られたくないのかもしれない)

 なんとなく思った。

「ずっといてもいいですよ、と言いたいですけど、あなたはきっといつか自分の意思で歩き出してしまうのでしょう? きっと、立ち止まっていることはできないでしょうね」

「……はい。多分、私はいつかあの家に行くのだと思います。……でも」

 桐野が何かから守ろうとしてくれているのは千紗にもわかる。それでも今、千紗が曾祖母の伊沙子として生きているのならば、過去に存在する「自分」を守るためにこの場所に立ち止まっているわけにはいかない。

 未来を思い出したくても、今の千紗には曽祖父の存在は深い霧の向こう側で曖昧なことしかわからない。誰を千紗が選べばあの未来につながっていくのか。今の千紗ができることは伊沙子いるべきところに戻り、探すしか方法はない。

「もう少しだけ……あとほんの数日でもいいんです。先生の家を綺麗にして、お世話になったお礼をするまでここに置いていただけませんか? 全部終わったら……私のするべきことをしに、戻りますから」

 知らない人、知らない家。いつ、現代に戻れるか保証なんてなく、もしかするとこのまま決められた人と添い遂げる道を強制的に選ばなくてはいけない未来なのかもしれない。

 それでも――――――

(ひいおばあちゃん、伊沙子さん。私に何とかして欲しいんだよね?)

 未来を託された気がしてしまう。強引に選んだ未来をもとの戻るべきところへ戻すために、ここに千紗が連れてこられたのなら、怖くても嫌でも泣いてしゃがみこんでいるわけにはいかない。

 千紗は目の上に乗った先生の指を二本、指で掴んで持ち上げると重い体を起こした。

 よほど熱が上がっていたのだろう。体は自分のものじゃないように重く、ちょっと身を起こしただけで息が切れた。

 桐野がこちらを向いている。両膝を畳について、崩れ落ちそうな千紗にいつでも手を伸ばせるようにしているみたいだと思う。

(不器用なひと)

 剥き出しの優しさじゃなく、背を向けているのにそのくせいつも肝心な時に手を伸ばしてくれる。きっとあの時もまた手を伸ばしていた。

 現代で押されて車の前に体を投げ出した千紗と同じように、背中から馬車の前に飛び出しただろう伊沙子を見て桐野は手を伸ばしたのだろう。

 それならば、

「……あの時の「私」は馬車に身を投げたんですね? 自分から命を絶とうと。それを桐野さんは見てしまったんですね? その前に何が起きたのか、私が命を絶とうとした切っ掛けを桐野さんが知っているのならば、今……話して欲しいんです」

 千紗は、倒れるように畳に頭を下げた。

「千紗さん」

 先生が倒れた千紗の体を起こしてくれる。

 別に千紗を傷つけたのは先生なわけじゃないのに、先生は優しく千紗の体を抱き寄せた。千紗には兄はいないけれど、先生を見て歳の離れた兄のようだ、と思う。伊沙子の兄である桂木中尉は、今の先生のように傷ついた伊沙子を黙って抱き寄せてくれたのだろうか? それとも、壊れそうな伊沙子を突き放してしまったのだろうか。

 千紗はぐたりと先生の体に身を預けて、こちらを見る桐野を見つめた。

 言いよどむ桐野に千紗は「私は大丈夫」と笑いかける。千紗を抱きよせる先生の腕が痛いほどに強くなって、千紗が小さく吐息ついたときにやっと桐野は口を開いた。

「……新橋で、記憶を失う前のお前を見たんだ」

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