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「お兄ちゃん、字汚いね」
「……そう、かな」
邪気のない子供の言葉に深く傷ついた千紗は、棒切れを強く握りしめた。
下谷を含め長屋通りの裏道は物騒で、桐野や金田も敢えて踏み込まない場所が多いのだという。それでも、比較的新しい人間が住み着いているこの通りは板が剥き出しになっている建物を除けば、臭いもなくまだマシなほうだ。
この一時間ほど、千紗はその路地にしゃがみこんで平仮名ばかりを書いている。饅頭で腹の膨れた子供たちは講師交代で教鞭を執った金田の講義に集中できずに騒ぎ、結局皆でしゃがみ込みこんな状況になってしまった。
ひとり、ふたりと増え、千紗は今子供たちの輪の中だった。身長のおかげもあって話しかけやすい小さなお兄ちゃんと思われているらしく、子供たちの口調はすでに友達扱いになっている。
日常に使うものの名前や千紗の名前を次々と書いている中には上下逆のものだったり、鏡文字もあるけれどそれはそれで努力が感じられて微笑ましい。
でも、最初は教えていたはずなのに、気づくと千紗の文字のほうが子供たちの指導を受けている。
千紗の書く文字は現代仮名遣いで、一方子供たちは旧仮名遣い。現代の高校生らしくどこか丸く絵文字にも近い文字はどうも並ぶといろいろと物足りなく見えるみたいで、理解され難い。
金田が千紗の文字を見て、違う方向へ感心した。
「千太郎君の文字は実に頑固で、それでいて難解な方向に曲がるものだね。仏蘭西のびつふぉんも「The style is the man.文は人なり※1」と言ったが、文章はもちろん文を形成する文字にもまた然り、人なりが現れるものなのだよ。君は非常に面倒な人間だな、人と違うことが好きらしい」
「びつふぉんって人にお知り合いなんていないですもん……」
千紗は膨れっ面で土の上に「りんご」と書いた。
あちこちに転がる石に邪魔されて、文字は子供たちが書いたものと変わらず歪んでしまう。
(ペン習字でもやっとくべきだったかも)
旧仮名は別として、この数年間綺麗に書こうと考えて平仮名を書いたことなんてまったく覚えがない。
授業のノートをとる時も誰に見せるとも意識せずに書いていた。手紙なんて書くこともないから、字が自分を表すなんて考えずに綺麗か綺麗じゃないかなんて考えたこともなかった。
誰かに見せる機会があるものなんて滅多にない。千紗の生きてきたのはメールで事足りる時代だ。でも考えれば、自分を表現できることが限られてしまう時代であるこの時代には教養はとても大切なことなのだと千紗にも実感できた。
「絵なら嫌いじゃないんですけど。ほら、熊さんです」
「うわぁ!!!!」
コミカルな熊の絵を描くと子供たちが歓声を上げる。
「君、これは熊じゃなくつぶれた饅頭だろう!」
「……ポップなバージョンのテディベアです。金田さんにはこのパッションはわからないでしょうね」
なんとなく腹が立って、敢えてわからないだろう表現を使って言い返した。
「そこまで千太郎君が自信持って言うのであれば、僕だって脊索動物門哺乳綱ネコ目熊科の絵くらい描いてみせようじゃあないか」
「うわぁ、大人げない……」
負けじとスーツが汚れるのも構わず路地にしゃがみこんだ金田に呆れた視線を流し、千紗は肩を竦めると顔を上げた。
少し離れた場所で桐野が木箱に尻を預けている。この騒ぎにはわれ関せずと言った様子で、大して面白くもなさそうに表情変えず本を読んでいた。
先日の礼を言いたくても、桐野は全身からどうにも近寄りがたい空気を醸し出している。なんとなく近寄る勇気を出なかった。
(でも……帰らないし)
講師を金田に譲った後、桐野は騒がしい輪の中には入らなくてもこの場を離れる気はないようだ。この青空の下の授業が何時ごろまで続くのか、初めて来た千紗には知る由もないけれど、一応はこの子供たちが全員捌けるまではこの場にとどまるつもりなのかもしれない。
「よし」
千紗は強く拳を握りしめると、絵画会場となった路地から立ち上がった。
学帽に隠された千紗の顔を不思議そうに見上げる少女に「ちょっとお話してくる」と笑いかけ、千紗は足音も高らかに砂利を踏みしめる。
長屋の裏は固く踏みしめられていた。何度も何度も踏みしめられて、いつかここも溝臭くどことなく投げやりな空気に満ちていくのだろう。多分、昼ドンも近いはずだ。なのに、食欲のそそる匂いは流れてくる様子はなかった。
「ちょっとお話してもいいですか?」
数分の逡巡ののち、千紗が声をかけるとやっと機会を窺っていた千紗に気づいてくれたらしく桐野は俯いていた顔を上げた。
とはいえ千紗と視線が合うことはない。桐野はすぐに片膝を立てた脚についた腕を立て顔を隠してしまう。
(別に、話しかけただけで睨まなくてもいいのに)
前髪の向こうに見える嫌悪感を示す眉が、千紗の勇気を少しずつ削り取る。
「………勝手にしたら」
どう解釈しても良さそうな、すごくいい加減な返事が戻ってきた。
俯いた桐野の顔を隠す前髪が、無理に三つ編みをほぐされて華やかなウェーブになっている。思わず噴き出しそうになった千紗はその顔を次は咎められては敵わないと深く学帽を被り直し、開き直った。
「はい。勝手にします」
それでもあまり近くに寄ることはできなかった。千紗は少し間を開けて長屋の壁に背中を預ける。
首筋をすべて覆い隠す黒い詰襟は真夏の強い日差しを吸収してしまい、夏空に照らされるにはあまりに布の範囲が広すぎる。布にこすれる千紗のどこもかしこもが汗に濡れていた。
汗は暑さのせいでもあり緊張のせいでもある。今願いが叶うのならば切実にシャワーを浴びたい。炎天下に容赦なく奪って行かれる千紗の体力はすでに限界になっている。
手の甲を扇にして生温い風を顔に送ると、横から気遣うような視線を感じた。
「そこまでしてまでこんな処に来て、馬鹿じゃないの?」
「本当」
千紗は毒舌吐く桐野のほうを向かず、短く答える。
「でも……来てよかったと思います。先生の家に閉じこもっても何も変わらないから」
桐野から返事はない。俯いた髪の毛が膝の上にだらりと垂れている。
(きちんと聞いてくれてるのかな?)
正直、聞き流されていそうで不安だ。でも今を逃すとこんな機会なんて来ない気もする。
千紗はやたらと元気な雑草を踏みつけ、あえて桐野に体を向けると深く頭を下げた。顎を伝って汗が数滴流れ落ちた。乾いた路地の土が黒く色づく。
「この間はありがとうございました。危ないところを助けてもらって助かりました。これだけは言いたくて、今日はつい無理を言っちゃいました」
「…………」
―――――――――――ゆるぎない沈黙。
「……………あ、あの」
何か会話の糸口になる突破口は見つからなかった。
待てど暮らせど戻ってこない反応をずっと待っていられるほど千紗も忍耐強いわけじゃない。居心地悪い空気に耐えられず、先に沈黙を壊し立ち上がったのは千紗のほうだ。
「さ……てっと、皆さんのお勉強の邪魔をしてはいけないのでそろそろ帰りますね。先生も……きっと心配しているだろうし」
意味なくズボンについた何かを払い落とす。払った体からどこからついてきたのか小さな草が落ちてきて、千紗は内心深くため息をついた。
会ったら聞きたいことがたくさんあった。なんだか全くわからないこの状況が少しだけ進歩するんではないかという甘い期待もあった。
(協力は……してもらえなさそうかも)
向こうからさっきまで千紗の一番そばで黙って千紗の顔を見ていた女の子が走ってくるのが見える。黙りこくった千紗たちには気づかず、手を大きく振って誰かを呼んでいるようだ。呼ばれているのをこれ幸いと、体を起こした千紗の横で桐野が体を起こした。
「あのさ」
振り返ると、頭を乱暴にかき乱し桐野がこちらを見ている。
いつもは睨んでいる視線は歪むことなくこちらを向いていて、千紗は「はい」と返事をして桐野の視線を受け止めた。
桐野は僅かに言いよどむ。僅かな時間のあと、口を開いた。
「………すべてを知れば、幸せになれると思っているわけ?」
「はい?」
「お前はさ、無くした記憶が無駄なものだったって考えないの。先生が言った「胡蝶の夢」の話、夢より現実のほうが幸せで夢に潜りたくてこんな状況になっているって考えたりしないの?」
千紗は一瞬言葉を失った。
(桐野さんは私が記憶を失ってる人なんだって思っているから)
記憶を戻せば、ちゃんと元ある場所に戻っていくのだと思っている。でもそれならば、今ここにいる千紗はどうなってしまうんだろう。思い出した時点ですぐにあの現代に戻ることができるんだろうか。
それならこの今築こうとしている関係は、泡のように消え去ってしまうんだろうか。
「でも…………いつか帰らなくちゃいけない場所があるなら、そこで生きるのも私の運命みたいなものですから逃げてちゃいけないと思うんです」
これは千紗のことはもちろん、もしこの体の持ち主がいるのなら彼女も含めての話だ。
(だって私は現代から逃げてきたわけじゃないし)
与えられた運命なら、千紗だって甘受する。
「今起きていることから目を瞑ってしまえば、楽なのかもしれないけど頑張って頑張ってそれでだめなら仕方ないけど……それでも、私は夢には潜りたくないです」
「悩んで悩んでそれで選んだ「夢」の世界なら、お前が記憶を戻した時点で過去の自分を裏切ることになってもなの?」
もし、この世界の過去の自分というものが存在していたのなら総てを投げ出してしまいたいほどの絶望というのは一体どんなことなのかと思う。のうのうと生きてきたこの十七年間、そこまでの絶望に投げ出されたことなんて千紗には記憶がない。
(桐野さんは……私の知らない何を知っているんだろう?)
千紗は詰襟の首を少し緩ませた。
桐野の顔は千紗を気遣っている。
「次は投げ出さないで頑張って頑張り続けたいと思ってる、と思うんです。一度、投げ出したのなら次は頑張れる気がするから」
「………」
「私、桐野さんに助けてもらって感謝しているんです。できることなら記憶を戻してから感謝の気持ちを形にして返したいけど、きっと……それは無理だから」
その時は多分、千紗は現代に帰っている。
「……………」
「だから、今日、ここに来ました。もし桐野さんが何か私についてわかっていることがあるのなら覚悟の上だから、教えてほしいんです」
今日は随分とまっすぐ千紗を見てくれる、と思った。
歪む視線も小馬鹿にする表情もなく、ただまっすぐ視線を受け止めて千紗はなんとなく胸が温かくなる。先生も金田もまた少しずつ知れば知るほどに気持ちが温かくなる。それなのに、桐野だけはその種類がわずかに違う気がする。
「僕は―――――――そのままでいたらいいと思う」
「……え?」
千紗の前で桐野が立ち上がる。僅かに高い身長が丁度、速度を緩めた子供との間を遮って影が落ちてきた。
前髪の隙間からうつむきがちの桐野の顔が見えて、その顔が僅かに赤らんでいるのに気づくと千紗は首を傾げた。自分の言っていることが恥ずかしいのか、桐野は前髪を片手で掴んで顔が見えないように目の前で伸ばしてしまう。柔らかいウェーブを描いた髪の毛がふわふわと風に揺れる。
「知らなくていいこともこの世界にはあるだろう。先生の家にはお前を疎んだりする人間はいないし、このまま笑っていられるのならそのままでいてもいいと思う。迷惑には思わない。生活費だって先生の家にいたら何も心配することはないし―――」
「それじゃ……まるで生きていないみたいですね?」
千紗の声に桐野は身じろいだ。
「新橋のあの時を最後に、私という人間は死んでしまったみたいですね? 足掻くのをやめて、逃げてしまったみたいです」
「だから―――――っ!」
何か言いかけた桐野のだらり垂れた腕を千紗は掴んだ。言いかけた言葉はそんな簡単なことで途切れてしまう。
「知りたいんです。私がここにいる意味を」
ここに連れてこられた理由をどうしても知りたい。
「きっと知らなくちゃいけないと思うんです。それが決められていることのような気がするんです」
千紗の思い出す現代の記憶は高校生活とか大好きだったパンの味とか、比較的どうでもいいことばかりだ。知識と教養、その部分に欠けは感じられないのに不思議なことに人との絆についてだけは少しずつ抜け落ちていっている。
(急がなくちゃ……私が消えていく)
大切な家族との絆、思い出。こちらの時代で絆と思い出を作るたび、まるで千紗の許容量がオーバーしてしまったように少しずつ塗り替えられていく。家族の顔、大切なこと。総てが上書きされて最後に残るのは一体どんなことなのだろうか。
「桐野さん、だから私を助けてください。そういえば……最初の時も言いましたよね?」
「……そうだっけ」
「そうですよ。もう忘れちゃったんですか?」
苦笑して、千紗は肩を竦めた。
前に立ちすくむ桐野の背中から顔を出した三歳くらいの女の子に笑いかけて、千紗はしゃがみこむ。
手を握ると子供の手は温かい。千紗の手でも十分に包み込めるほどの小ささで、足元がおぼつかない状況の千紗なのにこの手くらいなら守ってあげられるような気になってしまう。
(……向こうに戻ってもこんなことくらい覚えていられたらいいな)
屈んで、と促されて千紗は首を傾げながら屈みこんだ。
「ちさねえちゃ」
「え」
―――――――――――――――――――――息を飲んだ。
帽子を乱暴にはぎとられて、括りつけていた髪の毛が零れ落ちる。とっさに伸ばした手も、子供の素早さにはかなわなかった。
「やっぱり、ちさねえちゃだ。へんな服着てるの。なんで?」
不思議そうに覗き込む女の子は、男装した千紗の腕を掴む。背伸びして髪の毛に手を伸ばし、編み込んだ髪の毛をぐしゃぐしゃにしてしまった。千紗は悲鳴を上げる。
「きゃあっ! 痛っ! 痛いって!!!」
「へんなのっ! ちさねえちゃが男の子になってる!」
「ちょ……っ! ちょっとなんで私のこと……っ?」
「伊沙子だ」
千紗は桐野の声に振り返った。
「……え……?」
「ちさねえちゃ、じゃなくお前の名前は伊沙子なんだ」
「……い…さこ?」
聞き覚えのあるその名前に「ああ、やっぱり」と思う。
一番考えたくなかったことが本当になってしまった。この時代で生きていた人間、曽祖母の時代で今、千紗はその曾祖母の体を借り受けている。
「ああ。お前の名前は、桂木 伊沙子。先日会った桂木中尉の腹違いの妹、五か月後に結婚式を控えた男爵家の令嬢なんだよ」
ふらりと力なく、その場に千紗は立ち上がった。
詰襟の中はサウナのようで、水分が極端に失われた体は貧血を起こし足元が揺らぐ。目の前が真っ暗になって、かろうじて残っていた記憶の中で祖母が言ったことが思い出された。
(婚約中に旦那様になる人とは違う人と恋に落ちたひと)
ふらついた千紗の体を支えようとしたのか、腕が強く掴まれた。
「……っ、おいっ!」
暑いはずなのに体に震えが走る。流れる汗は冷たくて全身が鳥肌で覆われた。
自分の力で立ち上がることができない千紗を桐野が力強く抱き上げる気配がする。千紗はすでに瞼すら持ち上げられない全身を桐野に預ける。
(知ってしまうのが怖い)
自分の決められた運命を嘆いて、だから何もかもが嫌になってしまったんだろうか。
この時代に高い身分の女性であればあるほど自由な恋愛は許されていなかったのだとしたら、その狭められた未来に「幸せ」というものはあったのか、千紗にはわからない。
流れる涙をぎこちない手つきでぬぐう気配に、意識を手放す。
この時代からいつか去っていく自分の「儚さ」を少し哀しく思った。




