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桐野の住む下宿屋は田端にあるのだという。
とんと顔を見せようとしない桐野にせめて先日の礼だけはしたいと言った千紗に、金田は桐野の住む下宿屋に向かわず、千紗の今日の目的地である新橋とは少し離れた長屋の立ち並ぶ下谷の長屋町に向かうことを提案した。
「…………長屋町…ですか?」
詰襟を着ているとはいえ、女性である千紗を一応は気遣っているらしい。金田は「女性には少し辛い場所だと思うのだがね」と言葉を継いだ。
先生の家のある本郷を出て、坂を下り角を曲がった時点ですでに地理に疎い千紗には自分の立っている場所がどこなのかさっぱりわからない。
足早に前を歩く金田が何やら説明してくれるものの、どこぞの文豪の話や博士の話、それに外人の名前が矢継ぎ早に出てくるものだから千紗も途中から話を聞くのを断念してしまった。
(この人……女の人と話すの慣れていないんだろうな)
どうやらそんな有名な人と知り合いだということを暗に言いたいのだろう。それでも出てくる名前がさっぱりわからないのだから同意や感嘆せよ、と言われても困ってしまうだけなのに。
きっと共通の話題が見つからないのだと思う。千紗が返事をしなくても気にはならないらしく、金田の自分語りは留まる事を知らない。もちろん、結構大袈裟な身振り手振りは周囲の目を集めるのだけどそれすら金田には自分を称賛する目に見えているようだ。
「食べ給え」
僅かな小休止の後、先ほど通りすがりの店で買った饅頭をおもむろに目の前に突き出され、千紗は目深にかぶった帽子をあえて上げずに小さく頭を下げた。
恐る恐る噛みついた饅頭の皮は少し甘味の中に塩の味が感じられて複雑な味だった。しかし二度目に食らいついたときに出てきた餡のおかげで塩味が丁度いい塩梅になる。
「……美味しい」
「それは君が持って行きたまえ。まぁ、そんなに歩きはしないよ」
千紗と金田だけでは食べきれない量を買い込んだ金田は、その結構な重さの饅頭を千紗に押し付けた。一体どれほどの量を買ったのか。腕にどすりと重みがやってくる。詰襟を着ていても中身は千紗なのに、完全に金田の認識は千紗を「少年」としてしまったらしい。
慌てて、口の中に残りを放り込んで千紗は大量の饅頭を抱え、金田の後を追いかけた。
途中には寺があり、いくつもの小さな店があった。新橋や銀座とは全く様相を異なる街並みは千紗のよく知る「下町」というのとも全く違っていて、その違和感は足を進めるごとにだんだん強くなって来る。 詰襟を着込んで学帽をかぶった千紗を不審げに見返す人間はいなかった。むしろ感じる視線はちくちくと痛く、千紗は思わず目の前を悠々と歩く金田のスーツの裾を掴む。
「ひょえっ!」
変な声が上がって、千紗はすぐに手を離した。
咎めるような視線が二歩前から降ってくる。
「き、君! 突然の接触とは卑怯ではないのかねっ?」
「ごっ、ごめんなさいっ! この格好なら金田さんも大丈夫なんだと思っていたから……」
「構わない、僕は全く、一向に構わないのだよ! ………………しかし、ちょっと離したまえ」
「……でも」
小声で話しながら、帽子の影から辺りを見回す。少し前から、嫌なほどの視線を集めていることはわかっていた。
本郷の空と全く変わらず、心地よい夏空に白くこんもりとした雲が浮かぶ。ただ先生の家では濡れた緑の匂いと味噌汁の出汁の匂いの混ざっていた空気は淀み、饐えている。
立ち止まり、小声で応酬していた千紗たちの横を、決してきれいとは言えない着物を着た子供が数名肩をぶつけながら通り過ぎた。その部分だけはまだ日常を感じられる。
(鬼ごっこかな……?)
千紗の本来生きる現代と同じく、明治時代とはいえ、きっと子供は子供らしいままなのだろう。千紗は饅頭を抱きしめたままその背中を見送った。そんな思わず笑みを浮かべた千紗に、金田は厳しい声をかける。
「財布は持ってきていないだろうね?」
突然、金田に聞かれ千紗は頷いた。饅頭の金でも取る気になったのか、と千紗がポケットを二度ほど叩く。空っぽの布が擦れる音しかしない。
「小遣いはいらないって言ったじゃないですか」
「そういうことじゃあない。君は今通り過ぎた子供たちに狙われていたのだよ。実に間抜け面をした鴨なのだと思われていたのだろうね」
「な……っ!!!!!!!」
千紗はぽかんと口を開けて、すでに背中も見えない道の先を見た。
(馬鹿面をした鴨、って……桐野さんにも言われた………)
よほど自分は「鴨」に見えるんだろうか。千紗は深く被りすぎた学帽をわずかに持ち上げる。この路地に入ってからの違和感はこれだったのだろう。千紗はずっと間の抜けた「獲物」として狙われていたのだ。
「まぁ、慣れるまでは仕方ない。もしやられたとしても勉強代とでも思っておけばいいのだよ! あはははは」
金田は「慣れるまで」かなり痛い思いをしたらしい。悔し紛れにも近い笑い声を上げる。
それでも慣れない千紗が思わず臆しそうなこの長屋町の中、金田はよほど街並みを知っているらしく。迷いのない足取りだ。
ここは―――――――――東京の中でも特に隔離された場所なのだろう。千紗がこの数日間見てきたどこの人間とも違う暗い闇が辺りに漂っている。飢えと貧しさ、何もかもぎりぎりの状態でここの人たちは生きているに違いない。
「どこに……向かっているんですか?」
思わず震える小声で聞いた。
桐野に会いたい、と言ったのは千紗だけれどこの場所に桐野がいるとは思えない。それよりも現代の街並みに慣れた千紗には少し慣れた本郷ともあまりに視覚的なギャップが激しくて、正直ここから早く出ていきたくて仕方がない。
ちらり、そんな千紗に金田は背中越しに視線を流した。
「帰りたいかね?」
黙っていれば、現代でも女の子が騒ぎそうな顔だ。鋭利な錐のような目元の桐野とは異なり、どちらかというと常に気取った風にゆっくりと閉じる目元は甘く、薄い唇は歪むことなく自信ありげ(実際にあるかどうかは別として)に反り返っている。
高級そうなスーツを着こなす姿は、まるで青年実業家だ。口を開けばたちまち変わる印象も、黙って道を行くだけでは垣間見えることがない。
「…………そういうわけじゃないんですけど」
金田は千紗の返事を聞いて前を向く。わずかに寄った眉は桐野の不機嫌な顔にもよく似ていて、千紗は気分を害させてしまったかと思わず口をつぐんだ。
小さく鼻で笑うのを感じた。
「君が先生と呼ぶ人間は、過去ここで密かに教鞭を執っていたのだよ」
「ここで……?」
「無駄だと思うかね?」
千紗は周りを見渡した。学校という施設がこの長屋町の人間たちに行き渡るとは思えなかった。
千紗よりもずっと幼い子供たちは皆、大人と同じように仕事に明け暮れ、親のいない子供たちは生きるために徒党を組んで犯罪に走る。どこか溝にも似た臭いはきっと下水道が完備されていないのだろう。教育どころか、食べ物すら行き渡らずにこの場所に閉じ込められて生きる。
それは違う気がする。
「……いえ」
「先生は過去、とある大学で教鞭を執られていた素晴らしい先生なのだよ。僕も実際その講義を受け感銘を受けた一人だが……あの時の講義は実に素晴らしいものだった! シェイクスピアの 「マクベス」「リア王」「ハムレット」を非常に――――――!!!!」
「…………」
「……どうやら僕の話が逸れたのだね?」
「……そう、ですね」
完全にずれてしまった空気を取り戻すために金田は小さく咳をした。
長屋町は中でも安全な場所に入ったのか、行き交う人の中に嫌な空気は感じない。壊れそうなまるで塵の山のような家は点在していてもわずかに小さな畑も見える。子供たちがその中で虫探しをしていた。
(こんなに小さい子供なのに)
千紗は学帽の小さな鍔を上げて、彼らを見つめた。
「ここは比較的新しい人が流れ込んでいるのだよ。長屋町はここと、まだ他に大きなものでは芝区と四谷にもある」
「……そんなに」
現代でももちろん生活に困る人だっている。何もできない千紗が同情することは一番簡単なことだってこともよくわかっていた。千紗だって、あの時桐野に連れて行ってもらわなくてはきっとこのような場所にやってくるか、それともあの場所でのたれ死ぬしか方法がなかったのだろう。
「先生は過去、唯一無二の友人を亡くし、心が壊れてしまったのだ」
金田は足を止めた。
角の向こう側から子供たちの笑い声が聞こえてくる。不愛想な声がそのはしゃぎ声を窘めているのに一層楽しげな笑い声に変わっていく。
金田よりも数歩遅れて立ち止まった千紗に向こう側は見えない。それでも十人近くはいるだろうか。その声に悲哀は感じられなかった。
振り返った金田と視線が合った千紗はどういう反応を返していいのか正直迷っていた。先生の過去をこの場で聞いていいものか。それと、呼ばれていないこの場に千紗が出て行っていいものか。わからない。
金田の話は続く。次は話を逸らすことなく、淡々と進んでいく。
「それで将来有望だった大学講師という席を辞し、先生は今本郷で隠居の生活を送っている。僕は、今でもすぐにあの素晴らしい授業を未来ある学生たちに聞かせてほしいと切望しているのだよ。しかし、それも恐らく叶わないだろう。先生は、とうとうここの教鞭すら放棄してしまったのだ」
「…………先生が……」
「桐野君も僕もまたそんな先生に感銘を抱き、先生の門下として意思を継いでいる。………君は――――――」
金田が何か言いたげに千紗を見下ろす。千紗は言いよどむ空気を感じて、かなり上にある金田の顔を見上げた。
途端、一際高い歓声が起きた。子供たちの一人に金田の姿が見つかったのだろう。
それに遮られるように金田は口をつぐむ。
「……いや、何でもないのだよ。気にしないでくれたまえ。――――おっと」
そう言うと金田は前を向き、飛び込んできた少女を大袈裟に受け止め満面の笑みを浮かべた。そこに気取ったいつもの金田の姿はない。汚れひとつないスーツが泥まみれの子供の手に触れられることにも抵抗なく、次々と弾丸のようにやってくる子供たちを受け止める。
「僕は未来を創る子供たちを育てたいのだ。知識は武器になり力になる。その武器を抱くことができるのなら、この国は素晴らしく強い国となるだろう。僕はそれが先生の意思だと思っている。もちろん、桐野君も同じく」
「……はい」
学校は当たり前なのだと思っていた。
従業だって、過ぎたことに思えてしまう日本史は千紗には嫌いな授業のひとつで、過去の話を聞いても今の千紗には何の糧にもなる気がしなかった。教科書も開くだけで必要最小限の単語を覚えるだけ。
千紗が抱きしめた饅頭の山を指して拍手をする子供たちの顔は、薄汚れているのに悲しみも苦しみもまだ見えない。それを遠く訪れる未来が明るいものに想像することができなくて、千紗には苦しく哀しい。その未来を「知識」は変えていってくれるのだろうか。
「金田君、そうそう客を連れてこられては困ると僕は言っておいたはずですがね」
子供たちの先生になっていた桐野が金田を睨み付け、手にした本を乱暴に閉じると面倒そうに嘆息した。いつもはだらり垂らしている前髪は、子供たちに遊ばれたらしく三つ編みになって額横に落ちている。
立ち竦む詰襟姿の千紗も同じく睨み付け、暫し見つめたあとに桐野は目を見開いた。
木箱を逆にして簡易的な椅子に拵えた教壇で片膝を立てたまま、閉じた本を持つ桐野の顔が驚愕から真紅に染まっていく。
「―――――――…………っ!!! どうしてこんな処に……っ!!!」
「僕が案内したのだよ。こんな格好になってまで健気だろう?」
「そうです。私がお願いしたんです。先生も了承済みです」
桐野はわなわなと震える唇のまま腰かけていた木箱をひっくり返し立ち上がると「そういう問題じゃない!」と叫んだ。
桐野の癇癪には慣れきっているのか、それとも土産となった饅頭があまりにも魅力的すぎるのか。千紗たちのやり取りは興味がないらしく子供たちは銘々自由な場所に腰かけて甘味を堪能している。
よく見れば、剥き出しの土には棒切れで書いたらしくいくつもの平仮名が見えた。たどたどしい文字で書かれているのは、名前だ。
金田が桐野の癇癪に油を注ぐ。
「そういう問題じゃないのであれば、それはどんな問題なのかね? 千太郎君が困惑しているのだ。早く言いたまえ」
「……急にごめんなさい」
千紗太郎から紗太郎を経て、今は千太郎になったらしい。いちいち突っ込むのもあきらめて千紗はその改名を黙って受け入れた。どのみちどんな名前であろうと対して変わらない。千紗の名前を何度も呼びたくないらしい金田の気分の問題だろう。
桐野はぐっと一瞬押し黙り、足元の木箱を蹴り飛ばした。何もない路地に木箱は軽く転がっていく。
「桐野君は相変わらず短腹だな」
金田の横で千紗は身を竦めた。桐野が怒鳴るために、大きく深呼吸をしたのがわかったからだ。
そして―――――――――――耳をつんざく怒鳴り声。
「――――――――――――――お前ら、全員そこに正座しろっ!!!」
饅頭を口に放り込みながら薄笑いを浮かべていた子供たちは、癇癪の煽りを食って一斉に罵声を上げた。




