1
―――――――――――――――一度、新橋に戻ってみよう。
そう千紗が決意したのは、激しい川の流れにただ身を任せるしかなかった激動の二日間ののち、釈然としないまま嵐の前の静けさとばかりに穏やかだった三日目、四日目を過ぎた、実に五日目の朝のことだ。
丸二日降り続いた雨は止み、昨日までが嘘のように朝からからりと晴れている。
開けっ放しの障子の向こう庭で、久しぶりの晴れ間を堪能している雀が愛らしく囀った。
ぬれそぼる庭木から雀が飛び立つと、きらきらと水滴が零れ落ちてくる。軒先の庭木は濡れた重みに耐えられないらしく門の上にぐたりと枝垂れかかっていた。
そんな爽やかな昼前の軒先に響く、上機嫌な笑い声。
「……――――――――――あははははははっ!これはっ! これはいいっ!」
「………そう…ですか?」
千紗の存在に怯え切っていた先日のビアホールと違い金田の口調は軽い。その軽やかさに今まで感じたことのない憤りを感じてしまうのは千紗の気のせいだろうか。
若干不満げな表情を浮かべる千紗に先生が、
「いやいや、驚きました」
と微笑み惜しみない拍手をくれるので、千紗は憮然とした面持ちでも一応「はぁ」と頭を下げた。
先生の新しい書斎に入ったのは初日、掃除を終えた夜に話をしたときから二度目だ。
千紗が来る前まで使っていた二階を寝室、一階の奥にある板間を書斎としてくれたのにはきっと細かい気配りがあるのだと思っている。
千紗が布団に入る時間に一階に一人きりなのではなく、この数日間ふすまと壁を数枚隔てた向こう側で夜遅くまで先生は本を読んでいる。
それは先生にとって日課であり、何ら変わりない毎日なのだとしても一階にひとりきりというのはどうも心細いから千紗にはとてもうれしい。死んだように眠った最初の二日間を過ぎ、なんとなく慣れたころになるとあんなにあっという間に眠れたのに余計なことを考えてしまうから。
掃除した当初こそ整然としていたけれど、今はすでに雑然としてしまった書斎の隅には、何も書かれていない原稿用紙が無造作に山積みとなっている。一体何を書いていたというのか、塵箱から零れ落ちた紙切れが文机の近くまで迫ってきていた。
その隙間を縫うようにして強引に座布団を敷き、金田はその上に座っている。塵を片付けるという考えはないようだ。
けれど、
「君はこの格好でずっとい給えよ。君の「短所」をその衣装が覆い隠し、更に「長所」を素晴らしく誇張しているではないか! これこそ本来の君の制服であると断言してもいいだろうね。あの似合わない女ものの着物は今すぐ捨て去るべきだ」
こんなことを言われて喜ぶ女の子はいないと思う。千紗は憮然とした顔を金田に向けた。
「それって全然褒めてないですよね?」
「どうしてだろうか? 僕は全身全霊で持ってその出で立ちを褒めているのだよ。そうですよねっ? 先生」
「金田君はこちらの格好をした千紗さんでしたら、抵抗がなく話せるようですしね」
「実に不可解ではあるけれど、現実としてはそうらしい。いや、まったくもって素晴らしい! この歳にして僕が進化してしまった」
詰襟に着替え、縁側から部屋へ入る障子を開けてからというもの、ずっとこのような状態だ。千紗を物の怪扱いした先日から幾日もたっていないというのに、物凄い手のひらの返しっぷり。
正座をしていたはずの金田の足はもはや笑いすぎて崩れ、体は塵の山に半ば埋もれていた。
(………むしろ貶されている気がするのは気のせい……?)
千紗は今、黒い詰襟に学生帽姿。昨日まで那美子が妙齢の女性よろしく取り計らってくれた着物とは異なり、今の千紗はまるで入学したての初々しい学生だ。
少し袖が長い学生服は金田に借り、肩までの髪の毛は編み込んで帽子の中に隠した。
金田が高等学校入学時に着ていたという詰襟は、那美子に頼んで丈を詰めて貰ったというのにまだ少し大きく感じる。それが功を奏したらしく、千紗の凹凸の若干乏しい体は予防策をいくつか張ってはいるが、黒い詰襟の向こう側で完全に息を潜めていた。
これ以外、手段がないとはいえ何とも納得しがたい。
「んー……」
「口を開きさえしなければ、学生さんで十分通りますね。学帽はもう少し深くかぶりましょうか?」
首をひねる千紗の帽子を先生が直してくれる。瞼ぎりぎりまで落とした帽子のせいで、千紗の視界は狭く暗くなった。
「これでよし」と先生が学帽の上に置く。朝から迷走していた外出の了解が、やっと出たのだ。
新橋に行こうと思うと言い出した千紗を咎めることも引き止めることもなく、先生はたったひとつの条件を出した。
千紗が自由に歩き回る代わりに、見た目を変えること。つまり、「変装」だ。
最初那美子に用意してもらった着物はどれを着てもさほど印象が変わらず、先生の金縁眼鏡まで試しても結局お許しが出なかった。
頭を悩ませた千紗が「いっそ男の子にでもなったりして」とこぼしたのは冗談のつもりだったのに、先生は嬉しそうにいそいそと二階の奥に置かれた衣装箱から金田の詰襟を取り出したのだ。
絶対に似合わないし、違和感があるんだろうと自分では思っていた。でも着てみるとどうだろう。意外にもしっくりして違和感が全くない。
「いつもの千紗さんのほうが華やかで私はいいと思いますが、似合ってますよ、意外に」と先生は笑いをこらえながら千紗の姿をつま先から頭の先まで頷きながら眺めた。
千紗は「えい」とばかりに、モデルさながらくるりと軽やかに回って見せる。きしりと足元の畳が鳴った。
「ええ、とても……可愛らしいですよ」
「将来有望かつ勉強家の高生には到底見えないのが不憫ですがね。まぁ、僕がその点は教鞭を執ろう。宜しいですよね、先生?」
「ええ。よろしくお願いしますよ、金田君。千紗さんも今日は金田君について行って、馬車に乗ってみてくださいね」
どうやら、今日の外出は保護者つきらしい。
でも、
(これでやっと桐野さんにありがとうって言いに行ける)
あの騒ぎの中、桐野を見失ってから千紗は一度も桐野に会っていない。先生に聞いてもはぐらかすばかりで、いつ来るのか。もう二度と来ないのか。予測できないのがつらかった。
この二日間で先生の家の暮らしにも少し慣れてきていた。
まるで大きな書棚でしかなかった家も、丸二日間千紗が雑巾とはたきを片手に走り回った成果が出て随分と見やすくなってきた。いつ千紗がこの時代から抜け出せるのかはわからないけれど、こんな小さいことから一宿一飯の恩義を少しでも返せることができればと思う。
短い間だけどお世話になった人たちに大切なことを言い残さないようにしたい。千紗がいたという異例を彼らが覚えていてくれるという確信はないけれど、これは千紗の問題だ。
最初の二日間はとにかく戸惑うだけだった。自分のよく知る部分と違うところを探しては、ただ落ち込んで「どうして」とか「どうしよう」とか、そんなことばかり考えていた。
もし、この時代に来たことに理由があるのだとしたらどうだろう? 桂木はあの時、千紗の顔を見て明らかに誰かと勘違いしていた。千紗の顔を持つ誰かがこの時代に存在しているのだ。
(その人を見つけたら、何かわかるかも)
その前にせめて、あの場所で独りぼっちだった千紗を助けてくれた桐野と話をしなくてはいけない。
因縁に近い雰囲気とはいえ桂木中尉をよく知る様子だった桐野なら、千紗が記憶を取り戻す為だと説明したら情報を提供するくらいには協力してくれるかもしれない。
「さあさあ、僕についてくるといい。僕は大学士であり、いつか教授になる男だからね! なあに、小遣いを気にすることはない、僕が持っている。行くぞ、千紗太郎君!」
複雑な表情の千紗を置いて、金田は足音も高らかに書斎を飛び出して行ってしまった。
縁側に向かう廊下をそのまま足早に歩き去る音は離れて、玄関先からまた「遅いぞ、千紗太郎君」と名を呼ぶ声が聞こえてくる。
「短絡的な名前……」
そう思わず呟いた千紗に、先生は苦笑を返し片手を振った。
「行ってらっしゃい、遅くなる前に必ず帰ってくるんですよ」
「はぁい」と返事をして、千紗はやかましい声の響く玄関へと足を踏み出した。




