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元就の野望~全国版~。わたしはガチャを駆使して補佐します  作者: 那田野狐
第11章 各所で舞う身内の野心編

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第1話 塩冶興久の乱

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1527年(大永7年)10月


-石見(島根西部) 矢滝城 -


 今年は3月に大内義隆くんに嫡男の亀童丸くんが生まれたのを始まりに俺の周りで慶事が続いた。初めての部下である甘草定純が神楽団の梅と間壁近純が福原広俊さんの娘さんと結婚した。無論、梅は俺の養女となって定純に嫁いだよ。待たせて本当にすまなかったと思う。


 6月に松との間に男の子が産まれた。嫡男の名前は三四郎。元就さまとの事前に取り決めた約束通り三四郎と元就さまの次女しん姫との間で婚約が交わされた。尼子経久さんがぐぬぬしてたけど、自分の血縁を出雲(島根東部)国内の有力国人に送り込んでいるから、今は嫁婿に出せる血縁が足りていない状態。久なんてまだ16なんだよな・・・

 そして、元就さまに三男の徳寿丸さまが生まれた。と、本来なら喜ばしい事なんだけど、子供が産まれたことで考えさせられる事態が発生した。

 尼子経久さんの三男である塩冶興久が、自身の地盤である出雲(島根東部)の西、自分の支配下にある国人を率いて反乱を起こしたのだ。


 塩冶興久を支持して共に挙兵したのは、西と南出雲の国人衆である出雲大社、鰐淵寺、三沢氏、多賀氏、真木氏。兵の数は約1500。よくかき集めたと思う。反乱の原因は、尼子経久さんの度重なる東への侵攻に対する国人たちの不満の爆発。

 隣りの毛利領がほぼ2年間戦をせず内政に注力して国内を豊かにしたのに対し、尼子経久さんは因幡(鳥取東部)の山名致豊。備後(広島東半分)の山内直通。備中(岡山西部)の三村宗親。備前(岡山南東部)と美作(岡山北東部)の浦上村宗による尼子氏の半包囲網を結成されるのを許し、年中どこかしらで戦を強いられていた。

 食糧を筆頭とした消費物資は毛利(うち)が切らすことなく供給していたので戦線が崩壊することはなかったけど、常に戦い続けるというのは精神的に耐えられなかったらしい。


「討伐軍を率いる義父(国久)殿は俺に援軍を求めてないのか?」


 暇さえあれば下腹部を触っている久に向かって声を掛ける。久は、最近妊娠三か月であることが判明して日々嬉しそうにしている。


「父は兄弟喧嘩に巻き込むのはしのびないと・・・」


「そうか・・・」


 まあ世鬼煙蔵さんを通じて、尼子国久さんから援軍は必要ないという事は聞いているんだけどね・・・


「どうなりましょう?」


「義父殿は心配することはないだろう。問題は前線の出雲守(経久)と彦四郎(興久)殿だな」


 前線で戦っている最中に後方の補給基地で派手に火祭りを起こしたのだ。塩冶興久が尼子経久さんの実の子供であってもタダで済む訳がない。もっとも、塩冶興久討伐のために前線から尼子国久さんと兵3000を引き抜いたのだ。前線で守りが薄くなった尼子経久さんの身が危険であるのも確かだ。


「お爺さまが問題とは?」


「ただでさえ戦力を分散している伯耆(鳥取西部)から、更に兵を引き抜いているからね」


 俺の言葉に久は表情を曇らせる。


「大殿と図った上で、海路を使っての伯耆に兵を送る準備を行うことにするよ」


 そう言うと久の顔が明るくなった。



 1527年(大永7年)10月下旬



 塩冶興久の起こした反乱は2週間たった今でも、しぶとく続いていた。尼子包囲網による伯耆への攻撃と、備後の山内氏の興久への支援が効果的に働いているからだ。

 というか、塩冶興久は尼子包囲網というか尼子経久さん包囲網に参加したのだろう。


「山内氏の興久支援を絶って欲しい」という尼子国久さんからの要請に、元就さまは宮庄経友さんと井原元師さんに兵500を与えて備後に派遣したそうだ。

 それに呼応して東石見の尼子派である佐波秀連さんと小笠原長隆さんが挙兵した。挙兵と言っても、佐波秀連さんも小笠原長隆さんも毛利軍が兵を進めたら、すぐに降伏することで話がついている。ふたりの挙兵で背中を気にせず戦えると塩冶興久を油断させるための策ともいえる。


「我らは石見の反尼子勢力を排除する。出陣」

 

 俺は兵2000を桂広澄さんは兵1500を率いて矢滝城を出陣する。拡張整備された道路が行軍速度に大いに貢献したのは言うまでもない。三日ほどで出雲へと進出することが出来た。


「圧倒的ではないか我が軍は!一斉に攻めかかれ!」


 俺の号令のもと佐波・小笠原軍を吸収し兵4000となった毛利軍が、塩冶興久の兵800が籠る出雲佐陀城を攻める。そして三日三晩の猛攻の末、佐陀城は陥落した。

 塩冶興久は落城寸前に城外へと脱出し、妻の実家である備後の山内氏の元に妻子共々落ち延びていったそうだ。もっとも、途中で井原元師さんの軍に補足されて、塩冶興久自身は逃げ延びることに成功したが、妻と子は捕まって伯耆の尼子経久さんの元に送られたらしい。

 即座に斬首されなかったところを見ると、孫はカワイイだけでなく何かに利用するんだと思う。で、旗頭である塩冶興久を失った反乱軍だけど、待っていたのは尼子国久さんによる粛清の嵐。出雲大社と鰐淵寺は所領を全て没収され、塩冶興久に味方した三沢氏、多賀氏、真木氏といった国人衆は降伏することも許されず一族すべてが誅殺されたという。

 出雲西部に、毛利の長門(山口北西部)、周防(山口南東部)と同じ広大な尼子の直轄領が生まれたことになる。

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