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元就の野望~全国版~。わたしはガチャを駆使して補佐します  作者: 那田野狐
第4章 東部戦線 戦あり編

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第3話 吉川経基さんを偲ぶ会

吉川経基

1428年(正長元年)に吉川之経の子として生まれる。

応仁の乱では細川勝元率いる東軍に属して獅子奮迅の働きを見せ、「鬼吉川」「俎板吉川」の異名を全国にとどろかせた。

1509年(永正6年)息子の国経に家督を譲って隠居した。

1520年(永正17年)11月下旬


 備後(広島東部)加井妻城を包囲していた元就さまが三吉氏との和議を整えて多治比猿掛城に戻った。三吉氏との和議は、毛利氏に加井妻城を明け渡しての2年間の不戦協定。元就さまは加井妻城の城代に毛利氏の重臣である渡辺勝さんを入れたそうだ。

 ちなみに渡辺勝さんは、あの茨木童子を討ったという伝説を持つ源頼光の四天王のひとり渡辺綱の後裔。さらに先祖を遡ると、源氏物語の主人公の実在モデルである源融がでてくる。何が言いたいかというと、かなりの美男子だ。


 多治比猿掛城で2日ほど休んだ元就さまは兵1500を再編成すると三入高松城に入った。それと時を同じくして石見(島根西部)、出雲(島根東部)、安芸(広島)北部に雪が降り始める。これで武田氏を支援する勢力のうち高橋氏と尼子氏は若干動きを封じられたことになるだろう。


「それは俺たちにも当てはまるんだけどね」


「どうした三四郎」


「いえ。雪が本格的に降り始めたなと」


 部屋の真ん中に設置された火鉢に手をかざしていた志道広良さんの問いに言葉を濁す。いま石見矢羽城は、山の尾根にある主郭の南側の住居部分の拡大とそこから出た土石で西側にある郭の改修中だ。

 例によって土嚢袋に土を詰めて壁のように積み上げているだけだが、見た目の進捗が半端なく早い。こちらの壁の表面はコンクリートではなく漆喰でコーティングする予定だ。


「高松城に瞬く間に壁を作ったというが本当だったんだな」


 外の見回りから帰って来た志道広長さんが、火鉢の横にあった木箱から焦げるまで炒ってすり潰して粉にした大豆をガチャのコモンで出たお茶パックで包むと湯飲みに投入。火鉢から鉄瓶を取り出し沸騰したお湯を湯飲みにドバドバと入れる。

 ガチャで大量のお茶パックが出たときはもう天啓だと思ったね。早速、大豆を炒って珈琲を作ったんだよ。志道広良さん志道広長さん親子がこの大豆珈琲に大ハマり。

 春には椿の葉を発酵させてなんちゃって紅茶を作る予定だ。(紅茶葉の茶ノ木はツバキ科の植物です)


「田植えまでにはそれなりの城に仕上げてみせますよ」


 俺がそう請け負うと、志道広良さんと志道広長さんは笑った。


1520年(永正17年)12月


「三四郎殿。久しいな」


「こちらこそ、ご無沙汰しております。下野守さま」


 俺は宮庄経友さんに頭を下げる。宮庄経友さんは、尼子氏に新年のご機嫌伺いに出向けないことを伝えに行く途中に石見矢羽城に寄ったらしい。幸い今年は積雪があまり酷くないからね。

 で、出向けない理由というのが、宮庄経友さんの祖父にあたる吉川氏11代当主だった吉川経基さんが亡くなったから。実際に亡くなったのは今年の1月だったが、吉川氏と毛利氏が大内氏から尼子氏に鞍替えした直後のことで、親尼子派の重鎮の死で大内氏からの横槍を恐れてその死を秘匿していたという。

 それから「一献どうぞ」「一献どうぞ」と酒を酌み交わして吉川経基さんのことを偲ぶ。吉川経基さんと俺とは有田城の戦いの論功行賞のときに挨拶した程度の縁しかないんだけどね。

 で吉川経基さん。実際凄い人だった。まず室町幕府第8代将軍である足利義政の命を受けて畠山政長と畠山義就との間で起きた戦いに畠山政長側の武将として参陣。翌年には山名是豊に従って出陣し、畠山義就の軍を打ち破る戦功を挙げている。

 応仁の乱が始まると、細川勝元率いる東軍に属して2年で一条高倉、武者小路今出川、北小路高倉、鹿苑院口、京都相国寺などの合戦に参加。獅子奮迅の働きを見せ、「鬼吉川」「俎板(まないた)吉川」の異名を全国にとどろかせたという。

 10年ぐらい前には息子の吉川国経さんに家督を譲って隠居したけど、有田城の戦いにも一軍を率いて戦っている。また「古今和歌集」「年中日発句」「拾遺和歌集」などを自らの手で書き写すなど和歌にも造詣が深く、禅にも通じた智勇兼備・文武兼備の武将だったそうだ。


 でも宮庄経友さんの吉川経基さん話で一番驚いたのは、吉川経基さんが尼子経久さんに「元就を手放すな!」と助言したことだ。尼子経久さん。たぶんうちの領地に来て酒を浴びるように飲んだあとに吉川と毛利の居城に出向いてるから、そこで助言したのだろう。さすがに有田城の戦いの前にこの助言は・・・はっ、もしかして元就さまと妙さんとの間で結婚話が持ち上がったのは経基さんが一枚噛んでる?


「爺様はお主にも感謝しておるだろう。多治比殿と縁を結び多治比家に吉川の血を繋げたのだからな」


 宮庄経友さんは上機嫌に笑う。そう1519年(永正16年)の3月に生まれたたま姫さまに続き、先月下旬に妙さまが多治比氏待望の嫡男である少輔太郎さまを産んだのだ。史実より3年早いのはお二人の妊活の影響かな?吉川氏では吉川経基さんの生まれ変わりに違いないと大騒ぎしたとか。

 そして元就さまは、少輔太郎さまの誕生を血生臭い事で穢すことを避けたのだろう。春が来るまで大内軍と対陣することはあっても合戦に至ることはなかったのである。

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