第4話 能登畠山当主は逃げ出した!
閲覧・感想・ポイント評価・ブックマーク・誤字報告・いいねありがとうございます
- 1539年(天文8年)3月 -
ー 佐渡(新潟佐渡島) 国府川陣屋 ー
近江(滋賀)や越前(岐阜北西部を含む福井嶺北)での街道整備から大坂城に戻ってきた二体の土木ゴーレムと建築資材をアイテムボックスに収納してから佐渡に戻った。ゴーレムは24時間無休で働いてくれるので、ここ2ヶ月の間に港の整備が捗ること捗ること。本来ならここは岩礁が多くて避難する事さえ不向だってされている場所なんだけど、今では余裕で毛利氏保有の大型船が入港出来るまで整備されている。ようやく蒸気機関の開発に目処が付いて、来年の今頃には鉄製の大型艦も入港する予定だ。
「では、今月の定期報告会を始める」
先日、色々と設備も整ったので佐渡に司令部を移した北畠晴具さんが厳かに宣言する。
まず遠江(静岡大井川以西)の今川元親くんが、毛利氏が三河(愛知東部)全土を支配下に収めたのと歩調を合わせるように駿河(静岡中部から北東部(大井川以東))に攻め込んだ。
上の兄二人が急死して急遽今川家当主の座につくも、それに異を唱えた異母弟の今川氏虎によって駿河から追い出されていた今川元親くん。先祖代々が眠る菩提寺とこれまた先祖代々が拠点としてきた今川館さえ自身の手で奪還できればいい。目標達成の暁には即座に毛利氏に臣従すると明言しての出陣である。
そして、今川元親くんについてきた直臣や遠江の国人衆も今川元親くんの判断に従うと誓紙まで出した。毛利氏が即座に兵以外の支援を開始したのは言うまでもない。
「で、現状は?」
「はっ。三日前の情報ではありますが、治部少輔殿の軍勢は既に今川館にまで到達しております。これは、駿府西部の国人衆が即座に治部少輔殿に寝返った結果でもあります」
北畠晴具さんの問いに服部半蔵くんが答える。この時代、己が権利を少しでも保証してくれる人に従うのが国人達の主流だから、それが出来ないと判断されるとあっさり見限られるんだよね。まあ、事前に根回した結果でもあるんだけど。
「これで東海方面は安定しますな」
「まだ武田と国境を接し武田の強硬派を刺激する時期ではありませんからね」
北畠晴具さんの言葉に俺は頷く。武田氏とは武田氏が毛利氏へ従属する事を前提とした話し合いを、穏健派と呼ばれるー派を相手に始めている。
一応、うちの窓口はこの度、父の武田元光さんから若狭武田氏の当主を引き継いだ武田信豊くん。武田氏は武田氏の嫡男である武田晴信くん。武田晴信くんは、義兄となった小山田虎親と共に朝廷への年始の挨拶と称して、ちょくちょく摂津を経由して京に遊びに来ていて、毛利氏の軍事力というものを知っているので話が早い。
「つぎに越中(富山)ですが・・・」
服部半蔵くんが説明を続ける。越中は、14~5年前に守護代の神保慶宗が主家である能登畠山氏からの独立を目論むも失敗。その遺児である神保長職が神保家再興をかかげ椎名長常と抗争中。
ちなみに能登畠山氏と長尾氏が仲がいいのは、この神保慶宗の独立を連合を組んで叩き潰したことがあったから。そして越中の東一部を長尾氏が緩く支配している理由でもある。そしてこれに加え、去年末からは毛利氏が能登(石川県北部、能登半島)の完全封鎖をするため西部地区に侵攻。長尾氏が能登に援軍を送ることが難しくなくなっている。
「長尾から接触はありましたか?」
「はっ。長尾家家臣の柿崎弥次郎なる男から面会の申し込みがありました。が、正式な書状を持った使者を寄越せと突っぱねました」
俺の問いに現在、越中で毛利軍の指揮を執っている尼子詮久くんが答える。毛利氏としては能登に続く街道は誰も通すつもりはないから、道を通せという要求なら即座に要求を突っぱねてもいいんだけどね。
「上の者と相談します。で、時間が稼げるようならそのように。無理なら佐渡に来るように振ってください。それまでに能登は治まるでしょう。治まりますよね?」
北畠晴具さんが確認するかのような視線を送ってくるので、軽く頭を縦に振っておく。
「その能登ですが・・・」
現在の能登は、畠山氏の家臣である遊佐総光が、長尾氏から支援を取り付けたことを盾に毛利氏との和平を模索していた長英連や平信光を一族もろとも誅殺して権力を握っていた。
「先日、加賀(石川南部)に逃れてきた公家の一行の中に、畠山修理大夫殿が身を隠しており、毛利に庇護を求めて参りました」
今まで畠山氏の使者を通じての接触は一切無視してたから、ついに当主自らが出向いてきたのだ。
「修理大夫殿は毛利の新型砲と家臣の内紛で心を折られたのか。まあこれ以上の意地悪はせず、判断を大坂に投げよう」
北畠晴具さんの言葉に、その場にいた全員が肯定の意を示した。




