第3話 真一向宗の終焉
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三好海雲→三好元長
- 1539年(天文8年)1月 下旬-
ー 三河(愛知東部)本證寺 -
ー 三人称 -
伊勢(三重北中部から愛知、岐阜の一部)に集結していた毛利軍5万は、尾張(愛知西部)の斯波・織田軍から募集した3千の兵を加え、三河の織田氏の拠点である岡崎城へと移動。毛利氏の三河制圧軍が正式に結成される。
総大将は大友義鑑。副将は長宗我部国親と島津忠良。戦目付は三好海雲。それに岡崎城への先触れと三河本證寺までの道案内として織田家家臣の柴田勝義と柴田勝家の親子が同行している。
(※ちなみに史実で柴田勝家は、足利高経の孫から分かれた斯波氏の傍流を称しているが、戦国武将に有りがちな箔付けらしく、柴田勝義と柴田勝家が本当に親子であったかどうかは不明)
なお柴田親子に付き従う5人ほどの供回り以外は、柴田親子に毛利軍部隊の指揮権どころか戦そのものに参加する事も出来ない。これは、一番槍だなんだと毛利氏での居場所作りのために手柄を焦って勝手をされるのが一番困るので、予め禁止されているからだ。
閑話休題。現在の三河だが、3年前に西三河を支配下に置き、東三河にも強い影響力を及ぼしていた安祥松平氏の当主松平清康が尾張に攻め込んだ際に討ち取られ・・・実際に松平清康を討ち取るよう部下に指示を出したのは、毛利氏の家臣である畝方元近である・・・その時の混乱に乗じて織田氏は三河に侵攻して、岡崎城を占領。安祥松平氏は、その後弱体化してしまう。
また、一向宗が分裂したことで出来た真一向宗の勢力が増し、東三河に侵出を目論んでいた今川氏が跡目争いで分裂した事で、三河は比較的小康状態になっていた。
「本證寺からの返事は?」
「真一向宗の指導者からは返事はありません。潜入させている工作員からは何時でもいいと・・・」
大友義鑑の質問に、近くに控えていた島津忠良が答える。
「畝方殿の部下は凄いな・・・本人は規格外だが」
「連絡に忍犬なるものが使えるのが大きいですな・・・本人は規格外ですが」
二人は視線を斜め上に上げて遠くを見る。
畝方元近の配下を名乗る犬の覆面を被る人物が、犬笛なる音の鳴らない笛を吹いて、数十メートル先から忍犬を呼び寄せ、手紙の入った竹筒を咥えさせて元の位置に戻らせるという技術を見せられたときのことを思い出す。そして、彼らの元締めである畝方元近は、大型の鳥を使って遠距離の相手と素早く情報をやり取りをするという。広大な毛利領で謀叛が起きないのは、畝方元近と御伽衆が裏でコッソリその芽を早期に摘んでいるからというのが専らの噂である。
「「畝方殿と縁があって良かった・・・」」
二人とも身内が畝方元近の近習として仕えているためか、周りが勝手に忖度してくれる。真剣にそう思う二人である。
「では島津殿。合図を」
「はっ」
島津忠良は懐から畝方元近から渡された短銃を取り出すと、空に向けて引き金を引く。
「パン」という乾いた音が響いて、数秒後に上空で一際大きな音と黒煙がたなびく。
「「「「「おお!」」」」」
辺りに閏の声が上がり、竹束を掲げた兵が本證寺に向かって前進を開始する。
「放て!」
号令と共に本證寺側から、それなりの数の矢が放たれる。が、壁越しの山なりに放たれる矢では、掲げられた竹束の前に有効的なー撃を与えられることができない。
やがて一人また一人と本證寺の壁へと取り付いて、竹束で足場を組み立て始める。
「門を開け!」
足場を駆け上がり、壁を超え寺院の敷地内へと兵がなだれ込んでいく。
ギギィィ
やがて、寺院の門が重い音を立てながら開いていく。
「降伏する者は捨て置け。だが、坊主は逃がすな!」
こじ開けられた門に兵が殺到した。
・・・
・・
・
「思ったより早かったのぉ」
戦目付として従軍していた三好海雲が、ペチペチと扇子を鳴らしながらやってくる。
「これは海雲さま。報告でしたら、こちらからお伺いましたのに。もっとも、現状では予定よりも早く真一向宗の指導者を全て捕らえました、ぐらいですか」
島津忠良が笑いながら簡単に報告をする。
「うむ。順調なら良い」
三好海雲は満足そうに笑う。その後、真一向宗は浄土真宗の一宗派として布教することのみ許可され、それまで保有していた特権の数々は剥奪。組織として活動することを大幅に制限されることになる。
無論、それを良しとせず何人かの僧侶と門徒の人間が毛利領内から出ていったが、その後、彼らが歴史の表舞台に出て来ることはなかった。




