第3話 本願寺の耳は・・・
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1537年(天文6年)9月 ― 越前(岐阜北西部を含む福井嶺北)敦賀湊 ―
晩秋のやや冷たい風が吹き始め、中部地方も収穫を終えて農閑期に入り始めた。戦争の季節である。
まあ、毛利氏の場合は兵農分離が随分進んでいて、5万程度なら常時動かせるし、防衛戦ならその3倍ぐらいの数が即応できるんだけどね。
「「おはようございます。義父殿」」
鎧を身に纏った朝倉景紀さんと尼子詮久くんが揃って頭を下げる。ちなみに朝倉景紀さんは俺の養女の朝顔を、尼子詮久くんは俺の養女のスミレを娶っている俺の義理の息子である。
今回は、朝倉軍と合同で行われる加賀(石川南部)攻めに、朝倉景紀さんは朝倉軍の後詰め兼戦目付として毛利軍2,000を率いて、尼子詮久くんは宇夜弁級戦闘艦と呼ばれる武装キャラック船2隻と、改市杵島級輸送艦と呼ばれる小型キャラック船2隻からなる支援艦隊と工兵2,000を率いて参陣する。
共に戦う朝倉軍は騎馬500兵4,000荷駄隊2,000で以て公称15,000とか宣伝している。毛利軍の援軍と併せても1.5倍の鯖読みとか、かなり剛毅である。
毛利軍の工兵は陣地構築などの技能労働者で、朝倉軍の荷駄隊は単なる労働者。戦力として数えて欲しくないんだけどね・・・
「おはようございます欧仙殿」
二人とは別の方向から声が掛けられる。
「おお、下間殿。おはようございます」
声のした方に視線を送ると、旅装姿の僧侶が、10人程の僧兵を引き連れてこちらに向かってきた。
「どちらの何方でしょうか?」
尼子詮久くんが聞いてくる。
「こちら、北陸で一向宗門徒との交渉を行う、浄土真宗本願寺派の坊官で下間左衛門大夫殿だ」
「下間左衛門大夫頼慶と申します」
旅装姿の下間頼慶さんが頭を下げる。実は本願寺証如さん。毛利氏に従属したのはいいけど、宗祖親鸞聖人の「正信念仏偈」や「三帖和讃」。本願寺蓮如の「御文章」といった聖典以外のものを全部、伊勢(三重北中部から愛知、岐阜の一部)長島の願証寺に残して摂津(兵庫南東部から大阪北中部)に来ているので、とても貧乏である。
しかも毛利領内では、宗教は自由に布教することが許されているけど、信者などから寄付を受け取る事には制限がかけられている。山城(京都府南部)、摂津、和泉(大阪南西部)、河内(大阪東部)、紀伊(和歌山から三重南部)、大和(奈良)の宗教勢力などは、過去のやんちゃが影響していてとても厳しい。
尤も本願寺証如さんも贅沢をしなければ日々の生活が出来る程の金を毛利氏から禄として受け取っている。いるのだが、本願寺証如さんとしては、京に一向宗の総本山としての本願寺を再建したいということを堂々と相談されたので、俺は、悪名が目立つ一向宗から名称を浄土真宗本願寺派に改める事。越前、加賀、能登(石川県北部、能登半島)、飛騨(岐阜北部)、越中(富山)の一向宗門徒を説得し、浄土真宗本願寺派・・・毛利氏の側に引き込むという武勲を立てて褒美を得ることを提案する。
すると、この提案は浄土真宗本願寺派の門主である本願寺証如さんの名によって即座に毛利氏に提案され、元就さまの名で承認された。まあ、毛利氏の上層部には元就さまを筆頭に事前に話を通していたから迅速に承認されるのは当然なんだけどね。
しかし、思ったより本願寺証如さんは思考が柔軟で思いきりがいい。
「此度の戦で海上から支援を行う部隊の指揮官を務めます尼子修理大夫詮久と申します」
「此度の戦で戦目付を務めます朝倉九郎左衛門尉景紀と申します」
二人がほぼ同時に頭を下げる。
「おお、噂の畝方十一花仙の二人方にお会いできるとは正に僥倖」
下間頼慶さんが二人を物凄くよいしょし始める。ところで畝方十一花仙ってなんだよ。ああ、なんだ俺の義息達の数・・・というか、そんなに有名なのか?知らなかったよ。
「あーそろそろ朝倉の本陣へ挨拶に行かれてはどうでしょう」
二人が困っているようなので話を逸らすべく声を掛ける。
「おや?欧仙殿は参加されないのですか?」
下間頼慶さんは小さく首を傾げる。
「某は、後詰の更に後。輸送のための道を整備しながら、のんびりと後を追います」
「あぁ、毛利の戦上手の秘密という奴ですね」
下間頼慶さんは納得したようにポンと手を叩く。そこで先程の十一花仙と義息の数を正確に言った事の意味にも気付く。浄土真宗本願寺派の情報収集能力侮り難し・・・




