第14話 欧州の影
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1534年(天文3年)1月
- 京 施薬不動院 -
年が明けた。俺は元就さまのお供として、主上と将軍の足利義晴さんに新年の挨拶をする。なぜ俺がお供なのか?毛利家臣の中では朝廷で圧倒的に場数を踏んでいるので仕方ないと言えば仕方がない。
で、足利義晴さんとの謁見の席で足利義晴さんから元就さまに管領職への就任要請があった。これは細川晴元から管領職を剥奪したということを世間にアピールするのが狙いだそうだ。
元就さまは「我が大江は管領職に就任することができる家格ではありません」と一度は断ったけど、足利義晴さんは、元就さまを三好海雲さんとも非常に因縁の深かった畠山稙長の弟である畠山長経の養子にして家格にあう足利一門へと引き上げることを提案し、元就さまも管領への就任ともどもこれを受諾した。なお畠山長経が本物だったかどうかは聞いてはいけないことになったよ・・・
そして元就さまが管領への就任を受諾した関係で、主上の即位礼に多大な資金援助した元就さまの朝廷での官位に変化がなかった。これは上司の足利義晴さんのいまの官位を鑑みての処置だ。その代わりに、元就さまの嫡男である毛利少輔太郎くんが正五位下太宰少弐に叙され、足利義晴さんを烏帽子親に元服することになったよ。
史実では、主家だった大内義隆くんから一字を貰って毛利隆元を名乗ったけど、この世界では足利義晴さんの一字を諱に貰い毛利義元になったよ。うん。なんだかもにょる。
また毛利義元くんの元服を受けて近習だった天野米寿丸くんが天野隆綱を陶五郎くんが陶隆房を弘中小太郎くんが弘中隆包を名乗り元服した。あと宇都宮豊綱くんとか国司元武くんとか村上通康くんとか吉弘鑑理くんとか武田信高くんといった1519年、1520年、1521年生まれの面々も元服している。
ついでに俺の子飼いである島津又四郎くんが元服し島津忠近 (史実では島津忠将)を名乗る。また戸次親守くんが俺の養女であるひなげし(23)と祝言を挙げて、戸次鑑近に改名した(史実では戸次鑑連)。この時代的には高・・・いやなんでもない。戸次鑑近くんが戸次道雪を名乗る日は来るのだろうか・・・
なお、元服に当たり元就さまから諱の一文字が貰えなかったことに不満を言う家臣はいなかった。まあ元服ぐらいでは貰えないと理解しているのだろう。
「これだけのために京に呼んだようで悪いな周俚よ」
「はは、師匠に直に報告しなければならない事もありましたので」
天野隆綱くん陶隆房くん弘中隆包くんの烏帽子親になった周俚こと大内義隆くんが笑う。
「明(中国)でなにかあったのか?」
俺の問いに明との貿易の責任者でもある大内義隆くんは顔をシャンとさせる。
「明の貿易商人から、明より遥か南にある島々が白い肌の人、確か欧州人でしたか?その欧州人によって次々と占領されているという情報を手に入れました。彼らが率いるのは我が水軍の市杵島級に三国崩しと火縄銃で武装した船のようです」
なるほど、欧州が東南アジアを侵略しているという情報は明もある程度は押さえている訳か。
「それと、13年前にはラプ・ラプという島の領主が欧州人マゼランという船長を討ち取ったという話も聞きました」
「それは誠ですか」
側で話を聞いていた戸次鑑近くんが、大内義隆くんの情報に目を輝かせる。毛利水軍と似たような戦力を撃退してみせたというのに興味があるようだ。
「面白い話だ。臥茶七曜を通して市杵島級2隻と当座の資金に1,000貫文を出資する。議会には南方貿易路の調査で話を通す。産品は甘味が取れるお化けススキ、良質の植物油が取れる椰子の実。あと芭蕉の実があるはずだから、いろいろと見繕って情報と共に売ってもらえ」
「御意。ところで師匠。芭蕉というのは猿楽師、金春禅竹の書いた演目の芭蕉ですか?」
大内義隆くんなかなか通な所を。確か毛利に降った後は明貿易の傍らで文芸保護にも力を入れてるんだっけ?史実と違って武家であることの重圧がないので伸び伸びやっているようだ。
「まあ似たような植物だな。ああ、お化けススキ、椰子の実、芭蕉の実は後で絵に描いて渡すよ」
「さすが義父殿。博識ですね」
戸次鑑近くんの視線が眩しい・・・
「ところで師匠が臥茶七曜を通じて出資するということは、儲けが見込まれるということですね?投資は一口10貫文からでしょうか?」
大内義隆くんの質問に俺はニヤリと笑って返す。
「琉球(沖縄)より南にダイオワン(台湾)という九州より一回り小さい島があるのだが、欧州人の侵略に備えて開発する必要があるだろ」
「来ますか?」
「来るよ」
「博多の商人にも話を通しておきます」
大内義隆くんは満足げに頷く。後日、毛利が南方貿易路の開拓を俺が発起人となって出資したという話はあっという間に広がった。結果、筑後(福岡南部)、摂津(兵庫南東部から大阪北中部)、北近江(滋賀北半分)、尾張(愛知西部)の商人から出資の申し込みが相次ぎ2,000貫近い資金が集まったのはまた別の話である。




