第3話 将軍足利義晴さんの合流
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1531年(享禄4年)3月
丹波(兵庫東部から京都西部)は、細川高国さんに反旗を翻した波多野稙通が治めていたけど、毛利氏の軍勢が丹波に侵攻した3月頃には既に病死しており、嫡男である波多野晴通が跡を継いでいた。
ただ、父や叔父である香西元盛や柳本賢治と比べてかなり暗愚な御仁らしく、毛利氏が攻め込んだ城を守る波多野氏家臣は口々にそう言ってこちらとほとんど戦うことなく降伏していった。
新米頭領なんだから、暗愚だと評価されるのはちょっと可哀そうだとは思うけど、そうでも言わないと矜持が保てないのかもしれない。難儀なことだ。
ああ、降伏した波多野氏家臣の皆さん。一人の例外も漏れなく安芸(広島)に出向して貰ったよ。話が違うとか叫んだ人がいたけど無視した。まあ新天地でガンバレ。丹波に御戻りは許しませんぞ。
程なく波多野晴通は八上城を明け渡し、東へと落ち延びていった。どこに行くんだろうね?
そしてついに毛利氏は京に・・・入らないよ。主催?の細川高国さんがいま摂津(兵庫南東部から大阪北中部)で戦っている。それを差し置いて京に入ると要らない勘繰りをされる可能性がある。それは避けなければならないからね。
「相手に合わせて進むというのは難しいものだな」
元就さまが何度目かの似たような呟きをする。摂津が解決するまで、無駄に食料を消費するだけだからね。
「当分は睨み合いですね。折角ですから丹波の拠点となる城を作りましょう」
このまま兵を遊ばせておくのも勿体ないし、元就さまに提案してみる。元就さまはふむと唸る。ここで「できるのか?」とか聞いたりしない。俺が携わる築城の速さを知っているからだ。
「どこに建てるつもりだ?」
「そうですね。亀山でしょうか」
元就さまの問いに、俺は記憶にある丹波で有名な城の名前を挙げる。亀山城は明智光秀が丹波攻略のために築いた平城で、江戸時代には山陰から京に攻め込んできた場合の最終防衛ラインに想定された城だけど今はまだ単なる平地なんだよね。
「今のまま、ただ飯を食べさせるだけというのも業腹か」
元就さまは笑った。
1531年(享禄4年)6月
城を造ると決まってからの動きは早かった。城の資材として但馬(兵庫北部)と丹後(京都北部)に近い城が解体され亀山に運ばれてくる。輸送路はきちんと整地し大量輸送を可能としていく。
「相変わらず元近のゴーレムの力は出鱈目だな」
基礎工事の進捗の視察に来ていた元就さまが苦笑いする。それは俺も思う。空堀はゴーレムが不眠不休で掘り下げ、出た土砂は土嚢に詰めて城の土台として積み上げて、城の土台や壁はコンクリートでコーティングして強化するいつもの行程。
俺が率いる工作隊は、普段は中四国で城整備や道路普請に従事しているので手が早い。既に亀山城(予定)は城の土台と空堀が完成しているのだ。ちなみに、城の材料となる木材は解体された城から選りすぐられたものが資材置き場に積み上げられている。
「御屋形様。大変です」
血相を変えた口羽広良さんが走ってやって来た。
「どうした」
元就さまが僅かに眉を顰める。
「足利権大納言さまがおいでになりました」
ぜいぜいと息を吐きながら口羽広良さんが報告する。足利権大納言は室町幕府第12代征夷大将軍足利義晴さんのこと。桂川原の戦いで高国さんと近江(滋賀)坂本に逃げた後、近江の国人に匿われて雌伏していたはずだ。
「解った」
元就さまは一度大きく息を吐いて歩き出した。
- 八上城 -
「お初にお目にかかります。毛利大宰権帥元就と申します」
元就さまが部屋の上座にいる凛々しい顔の青年に向かって頭を下げる。ちなみに大宰権帥というのは大宰府の長官である大宰帥の代理人のこと。元就さまが九州探題に任命された後に、朝廷から任命された官位である。長らく名誉職だったけど、元就さまの従三位と九州探題の就任で丁度いいということらしい。
「足利権大納言義晴です。よろしくお願いします」
足利義晴さんも頭を下げる。どうやら、毛利氏が京に上洛するのに便乗するため、近江から若狭(福井南部)、丹後(京都北部)を経てやって来たのだという。結構ちゃっかりしている。まあ、毛利氏としても足利将軍を擁して上洛というのは箔がつくからいいんだけどね。
一方、摂津(兵庫南東部から大阪北中部)神呪寺城で陣を張っている細川高国さんと浦上村宗の連合軍は、率いてきた20000の兵を周辺に展開させ、富松城、伊丹城、大物城、池田城といった城を攻略していた。
で、いよいよ後がなくなってきた細川晴元くん。半ば追放する形で阿波(徳島)に追いやった三好元長さんに泣きついたという。
三好元長さん。反目していた柳本賢治が既に暗殺されたこともあり、兵8000を率いて堺に到着したようだ。これにより堺公方の兵は15000となった。




