第7話 尼子の臣従と九州探題
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1530年(享禄3年)8月
- 安芸(広島) 広島城 -
「我ら尼子家は毛利さまに臣従いたします」
そう言って尼子経久さんと数人の家臣が元就さまに向かって一斉に頭を下げる。土佐一条氏が臣従するよりも前に、毛利領の東隣りの大名尼子氏が毛利に臣従した。
尼子経久さんとその家臣の皆さんは、毛利が四国の半分より西を従えたことで、もう、どんなに頑張っても尼子に毛利を倒す力は無いという結論に至ったらしい。まあ、米の収穫だけでも5倍近い差があって、既に背後に敵がいない毛利氏と、毛利氏と戦う際に周辺の国人と連合しても矢面に立つ尼子氏ではね・・・
尼子氏家臣的には、俺をハブに毛利氏と尼子氏が縁続きになっているのも大きいのだろう。ああ、そうそう。尼子経久さんが広島城に来た表向きの理由は、尼子経久さんの孫である尼子詮久くんとうちの養女であるスミレとの祝言に出席するため。尼子詮久くんは見事初恋を実らせた訳だ。
で、尼子氏が毛利氏に臣従したことで尼子氏が受けた恩恵が幾つかある。まず大量の物資が安い値段で領内に流通するようになったこと。安い物資の大量流入は旧尼子領の農家の人に大ダメージを与えて、大量の困窮者を産むことが確定しているので、この冬の検地による農地整理の際に希望者には他の領内に移住してもらう事にしている。
耕作地はまだまだ余裕があるからね。生まれ故郷を離れたくない人は超頑張れだ。もっとも、九州と四国の毛利領では城の統廃合や道路整備だけでも十数年単位で仕事があるから問題は無いと思う。例えガチャでゴーレムが量産されたとしてもだ・・・大丈夫だよね?
次に、ここ数年の戦続きで疲弊していた多くの尼子氏家臣と兵士たちが後方の安全地帯に引き上げて休息できたこと。代わりに、毛利氏の戦働きをする家臣団が伯耆(鳥取西部)、備後(広島東部)、因幡(鳥取東部)に入る。これは新たに領地になった伊予(愛媛)でも同じ。
備中(岡山西部)、備前(岡山南東部)、美作(岡山北東部)の大名、国人衆が戦々恐々としていて、臣従を申し込んでいる家もあるそうだけど、旧尼子領の安定させることが優先だと元就さまは突っぱねているそうだ。
そして・・・
「我ら一条家、毛利さまに臣従いたします」
土佐の一条房家さんとその家臣団の人たちが元就さまに頭を下げる。尼子氏の臣従で土佐一条氏が、本家と一気に関係修復をして毛利氏に臣従した。まあ、ここに至って「ああ、潰すことになったからもう臣従しなくていいよ」と言われても土佐一条氏も京の一条氏も堪ったものではないから急いで臣従したのだ。一条房家さんはこのまま京に向かうらしい。家臣団の皆さんは研修を受けるため安芸に留まるという。
これにより、四国討伐の総指揮官である井原元師さんは伊予の東の端にある仏殿城に移動して、中国地方を海から睨みつつ当面の四国での指揮を行うことになった。
1530年(享禄3年)10月
「お屋形さま、此度の九州探題就任おめでとうございます」
口羽広良さんの掛け声と共に広島城に集まった重臣たちが一斉に頭を下げる。一条房家さんが京に行って本家筋の人と共に幕府に請願して、元就さまの御屋形号と九州探題への就任が正式に認められた。
許可したのは、何故か今逃亡中の将軍足利義晴さん。たぶん管領細川高国さんともども腹黒い思惑があるのだろう。
元就さまが九州探題に任命されたことで、毛利氏の組織を若干変更した。
戦働きをする家臣団を毛利軍と呼称。限定的だけど総大将を異母弟である相合元綱さんが務める中国地方方面軍と総大将を義弟である井原元師さんの四国方面軍。
領内の治安維持をする家臣団は治安隊と呼称。中国地方の責任者に尼子国久さん、四国の責任者は宇都宮清綱さん、九州の責任者は龍造寺家兼さん。
内政をする家臣団は行政府と呼称。総責任者は吉川国経さん。そしてその取りまとめをする家臣団を内閣府と呼称。総責任者はもちろん元就さまである。名称は俺の入れ知恵。
御伽衆?名称に変更はなし。ただ相談役という名目で経久さんと愚谷軒日新斎さんが御伽衆に入った。尼子経久さん、愚谷軒日新斎(島津忠良)さん、司箭院興仙さん。はい。どう見ても妖怪大軍団です。本当にアリガトウゴザイマス。
「その妖怪筆頭が何を抜かす」って三人から声が飛んできた。失礼な。
14章 東日本にバタフライ編 完




