第5話 大友の降伏 伊東も降伏
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1528年(大永8年)8月
- 肥後(熊本) 隈府城 -
大友義鑑さん(格上げ)が毛利氏に臣従したようだ。兵が10000近く残っていたが、口羽広良さんが口説き落としたらしい。いや、勝てないと自棄になって全員玉砕の道を選ばなかった義鑑さんの英断を称えた方が良いかな。10000近い兵と激突したら、さすがにこちらもタダでは済まない。うん義鑑さんの英断を称えようと思う。
それに伴い、毛利に臣従することを良しとせずとした佐伯惟常を筆頭に何人かが陣から去ったらしい。元就さまは二度目は無いときっちり警告したそうだ。中には大友三家の一家であった託磨貞泰さんのように帰農の道を選んだ人もいるという。
「田原二郎親述と申します」
「親董です」
田原親子が揃って頭を下げる。口羽広良さんが、「大友との和睦交渉の席で激高した田原親述が、和睦条件を提案したところ真っ先に毛利氏に恭順する意思を見せたのには正直驚いた」という内容の手紙を送ってきたのだが、それと前後して隈府城に田原親述さん親子と、あとひとり大友氏の家臣がやって来た。
田原親述さんが頭領を務める田原氏は、大友の庶家のひとつだけど代々大友宗家に反抗しながらも家臣であり続けたという謎の一族だが、その能力は子も孫もかなり高い。
どうやら田原親述さん、島津実久と戦うために志願して、手勢の兵300とともに肥後(熊本)に来たらしい。同じく今回の島津攻めのために俺の配下となった赤いタヌキの名和武顕さんと緑のキツネの菊池義国さんがキッとした顔で親述さんを見ている。今回の島津討伐の活躍次第で、新入り武将の毛利氏での順位付けの場になるから仕方ない。
「戸次孫次郎親守と申します」
あとひとり大友氏の家臣である少年が、元気な声で挨拶して頭を下げる。口羽広良さんの和睦案に臆することなく発言し質問した少年だったかな。
14歳で病弱な父の名代として出陣することを志願して、家臣3人の補佐もあったけど見事初陣を勝利で飾ったという剛の者らしい。うん。臣従してきた大友氏の家臣のなかでも癖のある人間を俺の元に送りこんでいるよね。まあいいけど・・・
ちなみに大内義隆くんは筑後(福岡南部)の大内派国人を率いて大友派国人を調略と力攻めを絡めて攻略している。元就さまは豊後(大分南部)に入って豊後の領民を慰撫しているそうだ。唐芋の栽培も始まっているので、今年の米の収穫に期待が持てない豊後でも飢饉に襲われることはないだろう。福原広俊さんは赤川就秀さんと合流し、日向(宮崎)の伊東氏に圧力をかける準備を行っている。
「年が明ける頃には九州統一かな」
思わずそうつぶやいてしまった。
1528年(大永8年)9月
日向(宮崎)の伊東祐充くんが福原広俊さんによって攻められ降伏した。実際には、一度は毛利と戦ったという実績を作っての降伏。という形だけの戦いだった。
もっとも、それ以上に伊東軍の心を砕いたのが、海岸線から陣地の近くに向かって放たれた宇夜弁に積んであった火砲。物凄い音と共に石の塊が天から陣地に降ってきたのだ。伊東氏配下の脳筋な国人がこぞって降伏に賛成したという。どうやら、その光景を日向の南に領地を有する北郷忠相さんの兵が観測していたらしい。ほどなく北郷忠相さんから降伏する旨の打診があった。
去年、桂川原の戦いに敗れて近江に逃げていた将軍足利義晴さんと管領の細川高国さんが朝倉教景さんの支援を受けて京、山城(京都府南部)に戻ってきているという情報がもたらされた。で、元就さまと尼子経久さんのところに、共に上洛して堺公方を討てと言ってきているらしい。
堺公方というのは、去年の桂川原の戦いで足利義晴さんと細川高国さんを京から追い出した足利義維さん、三好元長さん、細川晴元くんが摂津(兵庫南東部から大阪北中部)堺に樹立させた臨時の幕府のことだ。まあ、足利義晴さんと細川高国さんは堺公方ではなく朝敵足利義維と言ってるけどね。
で、上洛に支障となる尼子氏と山名氏。毛利氏と島津氏の間の一触即発事態を仲裁するために使者を送っていると・・・なんだかなぁ。
「島津を交渉の席に座らせている間で、筑後(福岡南部)と肥前(佐賀から長崎)から敵を一掃しましょう」そう元就さまに提案したらすんなり通った。
「龍造寺孫九郎殿とは多少縁がありますので連絡を取って見ましょう」こちらの案もあっさり通った。
あれ?




