89. 通い合う心
その後、「あ、そろそろ夕飯を獲りに行きますよ。今日からはエレインも現場復帰ですからね」と空気を読んだのか読めていないのか、アグニの言葉によりエレインはダンジョンで久々の狩りに奮闘した。それはもう、邪念を払うかの如く奮闘した。
獲物を仕留めて70階層に帰還してからも、アグニと夕飯の支度をし、出来上がったご飯をみんなで食べ、エレインが食器を片づけて、と忙しなく夕飯時の時間は過ぎていった。その間、ホムラは何やら考え込んでいた様子だが、エレインは先ほどの失態が恥ずかしくて声をかけれずにいた。
「おやすみなさい〜」
そしてあっという間にアグニがあくびをしながら自分のベッドに入りスヤスヤと寝入ってしまった。
エレインも寝支度をして眠ってしまおうかと考えていると、ずっと部屋の隅で顎に手を当てて考えに耽っていたホムラが立ち上がり、エレインの前に立ち塞がった。
「あ、えっと…ホムラさんも、もうおやすみになりますか…?」
目を泳がせながらエレインが尋ねると、ホムラは静かにエレインの手を取った。
「ちょっと付き合え」
「ひぇ…?」
急に手を握られてしまい、どうにか喉から声を絞り出すも変な返事をしてしまった。ホムラは肯定と受け取ったようで、エレインの手を引いてダンジョン内への転移の魔法陣に乗った。
ブン、と景色が流れたかと思うと、あっという間にどこかの階層に転移した。
「ここは…」
「49階層だ」
49階層は、階層の中心に巨大な瀑布が存在する階層だ。滝の周囲は滝がもたらす豊かな水により鬱蒼とした森が茂っている。
そしてこの階層の空にはダンジョンの外と同じ空が擬似的なものとして映し出されている。
「わあー!綺麗な月!今日は満月みたいですね」
雲一つない快晴、欠けることなくまん丸に満ちた月が天を明るく照らしている。星々は月に主役を譲り、控えめながらも美しく輝いている。
ホムラとエレインがやって来たのは瀑布をも見下ろす高い崖の上。49階層全体が望め、景色が素晴らしい。崖の上にはそれなりの広さがあるが、一歩足を踏み間違えれば崖下へ真っ逆さまという危険な場所でもある。
エレインははしゃぎすぎないように気をつけながらも、やはり少しの恐怖心があるため、空いた手でホムラの着物の裾を遠慮がちに掴んだ。
それに気づいたホムラが小さく笑い、握ったままだった手に込める力を強めた。
エレインの心臓は飛び跳ね、弾かれたようにホムラを仰ぎ見る。月光に照らされたホムラの表情はとても柔らかくて優しい。緋色の瞳に月が反射して見える。
「お前に三つ詫びなきゃならねぇことがある」
「…なんでしょう?」
ホムラはエレインを真っ直ぐに見つめたまま、話し始めた。
「まずは、あの日75階層でお前を守ると誓ったのに、ハイエルフの魂からお前を守ることができなかった。本当にすまなかった」
「いえ、あれは仕方がないかと…ドリューさんでさえ初めて見るものだったらしいですし…」
エレインからすれば、あの実体のない黒い靄から逃げる術はなかったように思える。結果的にホムラをはじめとする仲間たちの奮闘により、危機を脱することができた。謝られることではないし、むしろ感謝の気持ちしか抱いていない。
「エレイン、お前あの日の会話は全て聞いていたって言ったよな」
「あ…は、はい」
あの言葉のことかとエレインは期待半分、不安半分でホムラの言葉を待つ。ドキドキと胸の鼓動が忙しない。
「…悪りィ、正直に話すと何を口走ったか覚えてねェんだわ。これが二つ目」
「あ…そう、ですか」
エレインはホムラの言葉を受け、しょんぼりと肩を落とした。これで『惚れた女』発言の真意が分からなくなってしまった。淡い期待をしていただけに、少々落ち込んでしまう。
「それで、その…三つ目は…?」
おずおずとエレインがホムラに問うと、ホムラは僅かに瞳を揺らし、躊躇いがちに口を開いた。
「…72階層でのこと、覚えてるか?」
「72階層…あ、氷雪の階層ですね。私が川に引き摺り込まれた…」
「あの時、溺れたお前に人工呼吸をした」
「人工…呼吸……人工呼吸!?」
エレインは思わず叫ぶような声をあげてしまい、慌てて片手で口を覆う。
「黙っていて悪かった。蘇生措置だしあえて言うことでもねぇかと思ってな…だが、お前は…その、ウォンの口吸いも接吻に含むと考えているみてぇだし」
「え、ってことは、私のファーストキスの相手はホムラさん?」
「あーーー…お前の基準で言うとそうなるわな」
人工呼吸、それをファーストキスと言っていいのか甚だ疑問なホムラであるが、面と向かってキスに換算されるとどうも居心地が悪い。ましてや仮死状態の相手に一方的にした行為である。
だが、エレインはじわじわと恥ずかしさと嬉しさが込み上げていた。
(まさか、ホムラさんがファーストキスの相手だなんて…!嬉しい、けど覚えてないのが惜しすぎる…)
あわあわと一人感情の起伏が激しいエレインを見て、ホムラはフッと笑みを漏らした。
「これでお前に詫びなきゃならねぇことは全部だ。こっからはまた別の話だ。聞いてくれるか?」
「へ?はい、もちろん」
エレインは未だに頭の中が騒がしかったが、しっかり聞かねばと、居住まいを正してホムラを見上げた。ホムラは相変わらず優しい目でエレインを見つめている。
「お前が初めて70階層に来た日。俺は面白そうな奴だと、多少は暇潰しになるかと思って気まぐれでお前を拾った。だが、お前の過去を知り、懸命に自分を変えようと努力する姿を見ているうちに、いつの間にかお前を認めて受け入れるようになっていった。ちっちぇえし危なっかしいし、しっかり面倒見てやらねぇとなって思ってた。だが、お前はどんどん強くなって、信頼できる仲間も増やしていって、すっかり頼もしくなったな。始めは気まぐれだったはずが、知らねぇうちに俺にとって欠かせない存在になってた」
「ほ、ホムラさん…」
感動のあまりエレインの目に涙が滲む。他の誰でもないホムラに認められることがどれほど嬉しいことか、目の前のこの男は分かっているのだろうか。
ホムラは小さく笑うと、月光に輝く水滴を親指で拭った。そのまま身をかがめ、エレインの目の高さまで顔を近づけた。
「好きだ。一人の女としてお前を大事に想っている。エレイン、お前のことは一生俺が守り抜く」
「ホムラさん…私も、私もっ…ホムラさんのことが、好きです。でも…」
「でも…?」
泣き笑いのような顔でエレインが懸命に応える。
だが、エレインの気持ちを聞いてホッと心が満たされたかと思ったそばから、すぐに不穏な気配を醸し出され、ホムラは眉間に皺を寄せてしまう。
「でも…私にもホムラさんを守らせてください。ホムラさんの隣で戦えるように、これからも修行してもっともっと強くなりますから」
そう言って柔らかく微笑むエレイン。一瞬、ホムラは虚をつかれたように目を見開いたが、おかしそうに喉を鳴らした。
「…くっ、守られるだけの女じゃねぇってか。悪い、少し見くびってたな。惚れ直したわ」
「えへへ…」
しばらく、二人は気持ちが通った嬉しさを噛み締めながら、穏やかな空気に包まれていた。目が合っては照れ笑いをし、再び目を合わせる。コツンと額を合わせてはどちらからともなく笑みを漏らす。
徐に、ホムラがエレインの頬に手を添えた。びくりとエレインの肩が震える。
「目、閉じろよ」
「めめめめ目!?」
「ククッ、テンパり過ぎだろうが。ファーストキスとやらの上書きだ。ロケーションがいいロマンチックな…だったか?俺なりに考えてこの場所に連れて来たんだが…嫌だったら突き飛ばすなりして抵抗しろ。しねェなら同意したとみなすぞ」
「あわわわ…そ、そんな突き飛ばすなんて…あり得ないです…」
「あァ?」
「ホムラさんを拒絶するなんてこと、あり得ないです」
顔を真っ赤にしつつもしっかりとした声でエレインがそう言うので、ホムラの瞳が激しく揺れた。
「っ!…あー、もう無理だわ。今更嫌だっつってもやめねェからな」
ホムラはエレインの腰を引き寄せ、ぐっと顎を掴んで上向かせた。エレインの揺れる瞳は潤んでいるが、その瞳に映るホムラの目もまた熱を帯びていた。
「ホムラさ…」
言い終わる前に、そっと優しく唇同士が触れ合った。
エレインは慌ててぎゅうっと目を閉じた。息も心臓も止まるかと思った。恥ずかしくて嬉しくて、足が宙に浮いてふわふわ漂っているような。天地がひっくり返ったような感覚だ。今自分はきちんと地に足をつけて立てているのだろうか。
やがてそっと離れた熱を寂しいと感じていることに気付き、また頬に熱が集まる。だが、そう思っていたのはホムラも同じだったようで。
「…悪ぃ、もう一回」
「え?んぅ」
今度は優しく触れるものではなく、唇を覆いつくすような口づけで、先ほどよりもホムラの熱を感じる。啄まれるように、何度も何度も離れては角度を変えて唇が重なる。唇を食べられているように錯覚してしまう。エレインは倒れてしまわないように必死でホムラの着物にしがみつくことしかできなかった。
ようやく解放された時には、エレインはくたりとホムラにもたれかかってしまった。ホムラはそんなエレインを力強く抱きしめてくれる。エレインはそのまま真っ赤に染まった顔を隠すように、ホムラの厚い胸板に額を擦り寄せた。それに気づいたホムラが、エレインの後頭部あたりを優しく撫でる。
「我慢が効かなかったわ。ま、謝る気もねぇけどな」
「うぅ…もう少し手加減してください…」
「あー……それは約束できねェな」
「えぇっ!?」
「ずっと欲しかったもんがやっと手に入ったんだ。お前は違うのかよ?」
「っ!!?ず、ずるいです…」
なんともないやり取りをして、二人で笑い合う。それだけで幸せで心が満たされる思いがした。
ようやくエレインとホムラの心が通い合い、結ばれたのであった。
◇◇◇
ホムラとエレインを照らす満月は、同じく地上も明るく照らしていた。
その眩い光から隠れるように、暗い路地裏では、フードを目深に被った男ーーーシンが聳え立つダンジョンを睨みつけていた。
(おかしい。あれから一週間以上経つが、ダンジョンを出入りする冒険者やギルドの人間があまりにもいつも通り過ぎる。憎しみに満ちたハイエルフの魂を解き放ったのだ、相応の混乱がダンジョンを襲うと考えていたが期待外れだったか?それに、ハイエルフの魂に呑まれたエレインはどうなった?)
「…考えていても仕方ない。確かめてみるか」
しばしの思案の後、そう呟いたシンは、月光を避けるようにしてさらに深い闇の中へと消えて行った。




