58. 蘇生処置
ザブンッと、やけに遠くで何かが水に落ちる音がした。
エレインはそれが自分であると遅れて気がついた。
遠目には川は浅く見えたが、水中に入ると底の知れない深さであった。川底には深い闇が広がっており、エレインの身体は何かに引っ張られるように沈んでいく。
(何だか温かい…だから凍ってなかったのかな…)
エレインはボーッとする頭でそんなことを考えていた。水温はぬるま湯ほどの温かさで、何だか心地よい。
ごぽごぽと空気を漏らしながら、遠ざかっていく水面をぼんやり眺めていると、不意に頭上に影が差した。ゆっくりと顔を上げると、誰かこちらに向かってが泳いで来ているようだった。
切迫した表情で勢いよく潜って来たのは、ホムラであった。必死で水を掻きながらこちらに向かってくる。
(ホムラ、さん…水浴びるの、嫌いだって言ってた…のに…)
エレインはホムラに向かって手を伸ばし、そこで意識を手放した。
◇◇◇
川の中に引き込まれたエレインを追って、迷うことなく川に飛び込んだホムラ。アグニはホムラが脱ぎ捨てた羽織を抱え、帰還に備えて川岸に火を起こしていた。
「ぶはぁっ!」
「ホムラ様っ!」
間もなくエレインを抱き抱えたホムラが水面に姿を現した。
ホムラは川岸に上半身を乗り出し、ゲホゲホと咳き込みながらエレインを引き摺り上げる。
「エレイン!しっかりするんですよ!」
アグニが火の近くまでエレインを引き摺り、横たえた。ぺちぺちとエレインの頬を叩くが、目覚める様子はない。外気に晒されて、エレインの濡れた身体が急激に冷えていく。
ホムラはザバっと川から上がると、エレインに駆け寄り、胸に耳を当てた。
「かなり水を飲んでそうだな」
そう言うと、エレインの胸ぐらを掴み一気に服を引き裂いた。白く透き通った肌と、控えめな膨らみが露わになる。
「きゃー!?ほ、ホムラ様、何を…」
アグニが乙女のような悲鳴を上げて両手で顔を覆う。
「馬鹿野郎!そんなこと言ってる場合じゃねえだろ!」
水温は低くはなかったが、この寒さだ。水をたっぷり吸った服を着たままだと、みるみるうちに体温を奪われてしまう。
ホムラはエレインの心臓の位置に両手を添え、体重を乗せて数度圧迫した。その度にホムラの髪から水が滴り落ち、地面に落ちる前に凍りついた。
心臓マッサージだけではエレインは息を吹き返す様子がない。ホムラは次の手に移ることに一瞬躊躇したが、今は緊急事態だと腹を決める。
(チィッ、この状況だ、勘弁しろよ…!)
ホムラは、エレインの鼻を摘み顎を上げると、噛み付くようにエレインの口に覆い被さった。そして、重ねた口から、ふーっと息を吹き込む。
心臓マッサージと人工呼吸を数回繰り返した時、
「ごふっ、げほっ、げほっ」
ようやくエレインが息を突き返し、飲んでいた水を吐き出したので、ホムラはホッと息を吐いた。
「ったく、心配させんなよ…」
ホムラは濡れて凍りかけた髪を掻き分けると、エレインの身体をぎゅっと抱き上げた。濡れて冷えた肌同士が重なり、そこから次第に温度を取り戻して行く。
「う…ホムラさん…?って、ぴぎゃぁあ!?」
エレインは、まだ虚な目でホムラを見つめ、されるがままに身体を預けていたが、次第に頭がハッキリしていき、自分が服を身に纏っていないことに気が付いた。
エレインは勢いよくホムラを突き飛ばし、はだけて露わになった肌を慌てて両手で隠した。その様子に、ホムラが呆れた顔で言った。
「お前なァ、もっと豊満な大人の女!って体型になってから恥ずかしがれ」
「んなっ!し、失礼ですよ…っくちゅん!わぶっ」
ホムラの酷い言いようにエレインは目を怒らせるが、そのホムラにより、バサリと羽織りを被せられた。
「着とけ」
「あ、ありがとうございます…」
預かっていたアグニがしっかりと抱き締めていたため、羽織りはじんわりと温かかった。
アグニが起こしてくれた火に、エレインは両手を前に出して暖を取る。あまりの寒さに歯がガチガチと音を鳴らす。気を失った拍子に防寒膜の魔法は解けてしまっていたので、再度熱を身体に纏い、どうにか体温を維持した。
「何が起こったか覚えてるか?」
「えっと…すみません、何だか歌のようなものが聞こえて、気付けば川を覗き込んでいました…」
事情を問うホムラに、エレインが答えると、アグニとホムラは顔を見合わせた。
「ホムラ様」
「ああ、恐らく、セイレーンの亜種だろう」
「せ、セイレーンって…」
「歌で人を惑わせて水の中に引き摺り込み、食う半魚人の魔物ですよ。本来なら海に生息するんですけど、まあここはダンジョンなので、その亜種が生まれてもおかしくありません」
2人の話を聞いて、エレインの顔がサッと青くなる。と、そこでとあることに思い当たった。
「え!?じゃあ私、セイレーンに引き摺り込まれたってこと…?そ、そのセイレーンは!?」
「安心しろ、俺が殴り飛ばした。今頃川の底で伸びてるだろ。チッ、もっとボコボコにしてやればよかったぜ」
再びセイレーンに襲われては堪らない。焦って問うたエレインに、ホムラが忌々しそうに舌打ちをしながら答えた。エレインを沈めて食らおうとしたセイレーンへの怒りがおさまらず、まだ殴り足りないようだ。
一先ず安全を確保してくれたようなのでエレインはホッと息を吐いた。そして、ぶるりと身体を震わせると、盛大なくしゃみをした。
「ぶぇっくしゃーい!」
「大丈夫ですか?まだ身体の芯が冷えてしまってるんですね…あ、ボクが元の姿に戻って、口の中にエレインを入れて温めるというのはどうでしょう?」
アグニが心配そうにエレインを覗き込み、
妙案を思いついたと言うように人差し指を立てた。その提案にエレインは頬をひくつかせる。
「え…飲み込まない?」
エレインの尤もな問いに、アグニはすっと視線を逸らす。
「…保証は致しかねます」
「ダメじゃん!」
すっかりいつもの調子を取り戻した様子のエレインは、やいやいとアグニと言い合いをしている。
ホムラは呆れたような、安心したような視線でその様子を見守っていたが、エレインの唇は未だに青白い。ホムラが唇を重ねた時も酷く冷たかった。
ホムラは無意識のうちに視線がエレインの唇に向いてしまう。エレインの冷たくも柔らかな唇の感触を思い出して、慌てて頭を振る。
(何考えてんだ!アレはただの蘇生処置だ。他意はねぇ!)
ホムラは雑念を振り払うように勢いよく立ち上がった。驚いてホムラを見上げるエレインに、ホムラは指示を出す。
「今日は戻って身体を温めるぞ。場所の記録をしておけ」
「あ!はい!」
エレインはリュックの中から《転移門》の魔石を取り出してこの場所を記録した。アグニも横から顔を出して魔法陣が書かれた布を取り出して地面に転写した。
「戻るぞ」
こうして3人は、何とか無事に70階層へと帰還した。
この後エレインが風邪をひいて数日寝込んだことは、言うまでもない。




