漫画家『おめしゃんGUY』
この物語に出てくる漫画家のペンネームに関しては、漫画家「まんしゅうきつこ」氏を尊重しています。
1
「もう一度言います。『おめしゃんGUY』です」
顔色ひとつ変えずに、雷蔵は繰り返した。
どうやら、女四人が聞き取れなかったと思ったらしい。
実際は大いに違っていた。
目の前に座る四人の美しい妻たちが皆が皆、顔を真っ赤っかにして、各々が恥ずかしそうに視線を各方向に反らしていたからだ。それは、雷蔵の隣に座っている響子も同じで、耳まで顔中を赤く染め上げていた。
隣の彼氏は構うことなく続けていく。
理由は、業務だからであった。
「ペンネームの由来をグーグルや市内の図書館や佐世保の県立図書館まで行って調べてみたんですよ。一件もヒットしなかったです。多分これ、なにかの貝の形が似ていたから由来になって長崎地元の内輪的な名前で呼ばれていたんだと私は思います」
「あのー……、榊さん。そ、そういうのは調べなくてもよろしいんではないかと……。その……」
「え? なんでです? 私たちは探偵も副業で兼ねているので、背景の調査は業務上は必要と思っていますけれど」
赤らめた顔で恥ずかしそうに言葉を遮ってきた海淵海馬に対して、雷蔵は不思議そうに眉を寄せた顔つきで返したのちに、無情にも続けていった。
「こういった名前を使うことで、一種のカモフラージュというか擬態ができて、理不尽な攻撃を避けることができているはずです。しかし、いったいどんな貝だったんでしょうね」
言い切ったところを、隣の響子から軽く肘でゴツかれた。
真っ赤な顔で歯を剥き出して小声で注意していく。
「馬鹿! “その貝”のアダ名を聞いて赤面しない長崎の女なんてひとりもいないのよ! 見てよ。目の前の綺麗どころたちが真っ赤っかじゃないの! アンタ、恥じという物がないの!」
「ああ。そりゃ悪かった。すまん」
謝罪した雷蔵から目線を反らせて、うつむき気味に小声で。
「そんなに見たかったら、今夜アタシの見せたげるから……」
このような相思相愛な二人のやり取りに、目の前の四人のママさんたちはキャーっとなった顔をして、浜辺銀と潮干リエと黄肌潮は頬に両手をやって、海淵海馬だけ指で口元を塞ぐ感じの反応であった。少し恥ずかしげに咳き込む仕草をした雷蔵が、話を続けようとしたところ、リエから申し訳なさそうに割り込まれる。
「え、ええと。その有馬鱗子さんですがーーーーー」
「ちょっと待ってください。悪いけれど、私たち、先ほどから聞いていたら榊さんの喋り方に堅苦しさを感じてしまいまして。いつもの君の喋り方で対応してくれてほしいんです。その変わり君のこと、これから雷蔵君って呼ばせてほしい。私たちのことを名前で呼んでくれても構いません。ーーー肩の力、抜きましょ」
二人がイチャイチャしていた間に、リエたち四人は話し合っていたようだ。数秒間ほど正面を見て考えて、次は響子とアイコンタクトしたのちに、雷蔵は笑みを浮かべた。
「そうですね。俺も響子もその方が良いと思いました。じゃあ、よろしくお願いします」
「はい、よろしくね。雷蔵君」
なんだか堅苦しい空気が和らいで、病んでいたリエたち四人の表情も柔らかくなり、このまま話が弾んでいくのかなと思っていたが。予想だにしなかった雷蔵の切り出しにより、美しい妻たち四人は凍りついた。
「では、改めて確認します。この資料に書かれている皆さんの年齢と照らし合わせていきたいので、浜辺銀さんからお願いします」
「え…………? ちち、ちょっとタンマ。ちょっとタンマ」
「雷蔵くん、のっけからキツくない? それキツくない?」
「今それ確認する必要あるの? ねえ、あるの?」
「君それ、ヤバいこと聞いているって自覚ある?」
女四人、各々が護衛人の好青年に突っ込みを入れていった。
これに一切動じない榊雷蔵。伊達に十六歳からはじめている仕事ではなかった。四人の反応を表情ひとつ変えず見ている。隣で面白そうに様子を見ていた瀬川響子に、リエは声をかけてきた。
「ねえねえ、隣のポニテちゃん」
「瀬川響子です。よろしくお願いします」
「そうそう、響子ちゃん響子ちゃん。隣の彼に注意してあげてよ。女の子に面と向かって年齢聞かないでって」
「だってさ。どうする? 雷蔵」
響子から見られて、雷蔵も見て返した。
またアイコンタクトである。
そして再び目の前の四人のママさんたちに向き直り。
「リエさんたち四人は、これに書かれている年齢と見た目が釣り合わないんですよ。資料には百歳超えているのに、実際に会って見たら、その、若すぎるというか。陰洲鱒町の人たちって、どうなっているんです?」
「あ、あら……やだ……。雷蔵君ってお上手ね……」
「そんなこと言われたら、町のことも教えたくなっちゃう」
「やだもう……。そんなにオバサンの歳が知りたい?」
「ああ、もう。雷蔵君、どこでそんな口説き文句を覚えたの?」
一転攻勢。なのか?
「ということで。改めて浜辺銀さんからお願いします」
「リエと同じ、百三五歳でーっす」
「次、潮干リエさん」
「銀と同じ、百三五歳でーす」
「続いて、黄肌潮さん」
「百四〇歳。よろしくね」
「最後、海淵海馬さん」
「百四五歳。よろしくね」
女四人とも嘘は言っていない感じだった。
資料と証言を照らし合わせていた雷蔵が、数秒間沈黙する。
そして、軽い溜め息とともに。
「凄いな……。もう一度言いますけど、陰洲鱒町の人たちってどうなっているんです?」
「あー。それね」
リエが受け答えしていく。
「町長の摩周安兵衛さんが、昔海岸の砂浜に打ち上げられていた純金製の蛇轟像を拾ったのがきっかけだったのかな。獲れる魚が増えたのが一番最初の異変で、次は金鉱脈が突然出てきてね。採掘していたんだけれど、島の男手じゃ足りなくなってきたときに、海から魚の顔立ちをした人たち『深き者』って言うんだけどね。島のご先祖たちと深き者たちが好意を寄せたものどうし、交配しちゃって。その子孫が私たちになるの。ーーーそんな合の子は、大きな事故や怪我にあわない限りはとくに死ぬことも老化することもないのよ。不思議でしょ」
「不思議ですね」
「長生きできるぶん、良いことも悪いこともあったのよ」
「皆さん、いろいろ見てきたんですね」
「そう。ここにいる友達も、いろいろと見てきたわ」
なんだかしんみりと湿っぽくなりそうだったところ。
雷蔵は資料をめくって言葉を続けていく。
「あるていどのことは分かりました。ありがとうございます。ーーーそんなわけで、話しの続きですが。海原摩魚さんの実母の有馬鱗子さんこと、漫画家おめしゃんGUYの描いた漫画がどんなものか知るために購入してみたんです」
「えっ? か、買ったの? 雷蔵くん買ったの?」
驚愕する浜辺銀。
ごく普通の態度で答えていく雷蔵。
「ええ、そうです。俺はデジタルで最新巻まで購入して読んでみました。綺麗な絵柄ですが、俺には刺さらなかったですね」
「え? 嘘! あんた無反応だったの?」
響子は借りて読んだのだろう。驚いて雷蔵の顔をみた。
「絵は綺麗だけど、俺の好みと違うんだ」
「あんなエッチな漫画なのに? 無反応?」
「青年誌連載の漫画だから“そういう展開”もある。けれど俺には違ったかな。あくまで依頼人がどんな人かを知るための参考資料ていどだからなあ。個人で所持したいとまでは思っていないよ」
「…………。あんたの好みってのが、ちょっと想像つかないんだけど。でもそれ、レディコミの絵柄みたいで綺麗じゃん、鱗子さんの」
「確かに綺麗ではある」
「今度、雷蔵が持っている漫画教えてよ」
「良いよ」
微笑んで響子に返したが、全年齢向け漫画か成人向け漫画か、どちらがくるのか。響子とのやり取りに一段落着けたのちに、雷蔵はリエたち四人にダークシルバーのスマホを差し向けていった。
「どんなのか、見てみます? 有馬鱗子さんの漫画」
「見たい見たい」
「見せてくれるの? ありがとう」
「気がきくじゃない」
「私も見たいな」
ワクワクしてきた美人妻たち。
2
「良かったら、どうぞ。しばらく俺のスマホ貸しておきます」
そう言うと、リエにスマホを手渡した。
受け取ったリエは嬉しそうに微笑んで返す。
「わあ! ありがとう。お言葉に甘えて借りるわね」
「どうぞどうぞ」
雷蔵から快諾を得て、四人の美人妻たちがデジタル漫画を読み回していく。そのような目の前の女たちを見ていた響子は、ついつい顔を緩ませた。
「ふふ。可愛い人たちね」
「そうかあ?ーーーまあ、そうかもしれないな」
以下、潮干リエと浜辺銀と黄肌潮と海淵海馬らの歓談。
「うわあ、綺麗! 鱗子ちゃん凄いなー」
「あの子、こんなに絵が上手だなんて知らなかった」
「……ん? これ紅子じゃない?」
「あ。本当だ。このおっぱいの大きさ、間違いなく紅子だわ」
「ヒメもけっこう大きいけれど、私たちの中であの子が一番おっぱい大きいからね……。まさか、じぶんがモデルにされているって、知らないんじゃあ……」
「ねえねえ、そんなこと言っていたらヒメっぽいのが出てきたよ」
「あらやだ。この二人、漫画の中ではコンビ組んでんのね」
「スゲー。巨乳カップルじゃんーーーてかこれ、ベッドに縛り付けられてんの、志田ちゃんでしょ」
「あー。本当だ。目は人間に描かれているけど、この顔は志田ちゃんじゃん。うわあ……。総受けにされてる。なすがままじゃないの。エッチだなあ」
「次次! 次行こ次。面白いわね、これ」
「私も次見たい次…………ん? これって……」
「この子はリエだね。どう見てもリエだねえ」
「あんただけなんで絵柄が違うのよ」
「こ れ は……!」
「なになに? 私、鱗子ちゃんからこんな目で見られていたの? ねえ? ねえ、なんで私だけガラスの仮面タッチなのよ。ねえ、これ酷くない? ねえ酷くない?」
「あはは。待って待って、お腹痛いお腹痛い」
「あはは。これは酷い」
「あはは。ちょっと待って。漫画の中のあんた、誰かと絡みだしたよ。あら、この髪型と白衣ってさ?」
「これは福子」
「これは福子だよね」
「これ福子でしょ」
「リエ柱に縛られて、メスで服切られているよ」
「あら、あんた漫画でもペタンコじゃない」
「ペタンコ言うな」
「漫画の福子は攻めかあ……。意外だなあ」
「安心して、リエ。絡みがはじまったらあんたの絵柄が戻ったみたいよ。さすがにリエだけガラスの仮面タッチのままじゃ無理と判断したか……、鱗子ちゃん」
「確かに、こんな絵柄のままじゃ抜けないわね」
「うん。抜けないわねえ」
「抜けない言うな。私で抜けないってあり得ないでしょ」
「リエ、漫画では二形態あるんだ」
「やっぱり第一形態と第二形態だよね」
「あたしは第二形態が好き」
「なによそれ。私はへドラですか?」
「うわあ……! これエッロい。漫画の福子、ねちっこい攻めしてんね。ドスケベだなあ、福子。しかし、鱗子ちゃんの頭の中どうなってんの?」
「これはドスケベ女医」
「間違いなくドスケベ女医」
「素敵ね。ドスケベ女医」
「次の巻は……。これ、海馬さんだよね? 女教師になっているよ。色気凄いなあ」
「エロ女教師って最高じゃない」
「私、酒蔵なんですけど」
「まあまあ、エロ女教師も最高ですよ」
「海馬さん、美人生徒から攻められているよ」
「次の話では、美人教頭が海馬さん攻めているね」
「えっ? 漫画の私、受け?」
「そうみたいですよ」
「待って待って。このエロ女教師、結婚指輪してる」
「ええ? 人妻教師? ますますエロいわあ」
「ホントだ。私エロい……」
「ちょっと、この美人教頭先生よく見たら潮さんに似てない? 眼鏡かけて分からなかったけど」
「え、嘘。あたし美人に描いてもらっている……」
「もとから美人じゃん。てか、漫画の潮さん線細いね」
「本当だ。潮さん華奢になってる。けど、胸盛られてない?」
「リエもあたしもペタンコなのよ。これは嬉しい」
「眼鏡の美人教頭先生か。潮さん使えるかも」
「…………!」
「ねえ、これ誰? 誰がモデルなの?」
「これ……。第二形態のリエと似ているけど、別人ね」
「色っぽいなあ……」
「ひょっとしてこの子たち、ミドリちゃんとタヱちゃん?」
「ねえ、リエのよりオトナっぽく描かれていない?」
「こっちの子なんか、面影残っているしこの猫っ毛は間違いなくタヱちゃんでしょ」
「ええ……。やだ……もう……。私の娘たちこんな感じに見られていたの? 鱗子ちゃんのエッチ」
「その鱗子ちゃんなんだけどさ。あの子『私にはときどき、この町の女の子たちの将来の姿が見えるときがあるんですよ』って前にニコニコ笑って言っていたよ」
「それ、凄いじゃない。ーーーじゃあ、この漫画のタヱちゃん第二形態くらいかな」
「あたしは第三形態くらいだと思う」
「ちょっと、私の娘なんですけど」
「銀、亜沙里ちゃんと一緒に出てきたよ。このソバージュはどうみても、あなたでしょ? 親子で攻められてんの?」
「親子丼かあ……。鱗子ちゃんエッチだよ」
「あたしと亜沙里、漫画ではそんなポジションなの? ねえ、そんなポジションってあり? 親子丼て酷くない?」
「酷くないよ。エッチだよ」
「親子丼エッチだよね」
「美形の親子丼て最高じゃないの」
それから。
「あー! 面白かった。ありがとう、君のスマホ返すね」
「どういたしまして。楽しんでもらって良かったですよ」
ニッコニコな黄肌潮からダークシルバーのスマホを返却してもらい、雷蔵も嬉しそうに受け取った。後ろのポケットにし舞い込んだのちに、雷蔵は今度は書類を手にしてめくっていき、話しを切り出しいく。
「有馬鱗子さんの娘さんも漫画家デビューして、母親のアシスタント兼独立作家として活躍中ですよ」
「は……? ちょっと待って。鱗子ちゃんの娘さんて摩魚ちゃんひとりでしょ? もうひとりいたの?」
海馬の驚きに、雷蔵が答える。
「いいえ。名前を有馬虹子さんと言って、成人向け漫画描いて売れています。歳は、隣の響子と同じ二二歳。鱗子さんの絵柄とは別物だったです」
「へ? 成人向け? 虹子って言うの?」
「ねえ! 虹子って名前、まさか!」
二重に驚きをしめす海馬に、リエが続く。
「安兵衛さんの姪っ子じゃない。ひょっとして、あの子のことだから、ご先祖を調べてつけたのかしら?ーーーていうかさ。いったいいつごろ二人目がお腹にいたのよ? 有馬さん、抜け目なさすぎない?」
「えーと。確か、生贄を脱出した時点ですでに二ヶ月目だったと言っていましたけど」
リエの疑問を拾った雷蔵は、有馬鱗子からリモートで聞いたことを伝えた。「え……っ?!」と一様に驚愕する四人の美人妻たち。浜辺銀が「あらまあ」といった感じで口元を指先で押さえて、ひと言洩らす。
「あの時点で、もう仕込んでたのね」
「言い方ぁ!」
海馬から指をさされて突っ込まれた。
黄肌潮は雷蔵に質問する。
「ねえ、その虹子さんてお母さんと違う絵柄ってどんな感じ?」
「レディースコミック風でしたよ」
「は? いや。いやいやいや。違いってなんなの? それだけじゃオバサン分かんないよ」
「俺も違いが分からないですね」
「俺も違いが分からないですねってさ。君……。ーーー雷蔵君さ、さっき鱗子ちゃんと絵柄が別物っつったじゃん。別物の判断ってなにさ? もう! オバサン怒っちゃうよ」
怒る気さらさら無い黄肌潮からの突っ込みを受けた。
微笑みを向けて、雷蔵は言葉を返す。
「鱗子さんと虹子さんご本人がそう言っていたから、間違いないんじゃないですか。実際見たんで、微妙な違いなら分かるていどでしたけど。端から見たら分からないでしょうね」
「微妙な違いかあ……。だったら、あたしも分からないや」
黄肌潮は納得していった。
浜辺銀も鱗子の二人目の娘が気になったので。
「ねえねえ、雷蔵くん。虹子ちゃんて、どんな子だった? リモートで見たんでしょ」
「響子ともども見ました。そっくりでしたよ。コピーというか、クローンというか。吊り目といい、真ん中分けといい。まるで複製品みたいでした」
「言い方言い方ぁ! もっと他に言い方あるでしょ!」
鈍色の尖った歯を剥いて、力強く雷蔵を指さしていく。
隣の彼を、困ったこと言う奴だなとした顔で見ていた響子が、四人の美人妻たちにニコッとした笑顔を向けて。
「虹子さん、とっても可愛かったですよ」
「でしょでしょ! オバサンそういうこと聞きたかったのよ。響子ちゃんナイス!」
「ありがとうございます、銀さん」
礼を返して、響子は続けていく。
「虹子さん、都内の高校卒業してすぐ鱗子さんのアシスタントをはじめたと仰っていました。彼女、高校は高校で大変だったとも言っていまして。男子生徒から、近くの大学生の男の子から、あとは素行の悪い生徒たちのナンパやセクハラが“しつこく”て悩んでいたそうです。なので、唯一の拠り所が女の子たちだけの漫画研究部だったと。そういえば、先生の中にも虹子さんに執拗に迫ってきた人もいて、泣いていたそうですよ。中には、芸能活動をしている生徒たちもいたから大変だったと。ーーーだけど今は、女の子ばかりの職場で楽しいと仰っていました。本当に明るくて綺麗で可愛い娘でしたよ」
「うわあ……。最っっっ低。東京って昔も今も変わらないのね」
浜辺銀が、しかめっ面で鈍色の尖った歯を剥いた。
少しばかり、怒っているのか。
そして、その表情をなおして隣の潮干リエに稲穂色の瞳を流す。
「ミドリちゃん、よくそんなところに行く気になったよね」
対するリエは、困った笑顔を浮かべて隣の女を見る。
「私も分からないわ。あの子が暗くて黒い芸能界に行った本当の理由なんて、最後まで分からなかった。母親の私にも、そこは頑なだったなー」
そう懐かしみながら、黄金色の髪の毛に乗せたダークグリーンのヘアバンドを取り外して、指先で愛おしく撫でていく。二つに割れたのを修復して、セロテープで巻いているのが強く印象に残るヘアバンドだった。それから、涙声が交ざった呟きを洩らす。
「消えた今は、もう分からずじまいだなー」
消えた。とは?
「ねえミドリ。お母さん、こんなに悩んだこと初めてだったよ。あなた、いったいどこに行っちゃったの……」
これは、まずい!
と、思ったメンツはたちまち目を見開いて口元を手で押さえた。とくに、話しをふった浜辺銀は「あ、ああ……。ごめん、リエ。ごめん……」と涙目に変わった。ただひとり、榊雷蔵だけは違っていた。
「その、消えた、とはなんですか? 行方不明とはまた別なんでしょうか? あと、そのヘアバンドはーーーー」
「こら! 馬鹿ね! 今聞くことじゃないでしょ!」
「響子ちゃんナイス!」
今度は、黄肌潮から力強く指をさされた。
ありがとうみんなと返したリエは、雷蔵に顔を向けて答えていく。そして、雷蔵と響子へとヘアバンドを手渡した。すると、他の三人の女たちは「あ!」という顔になる。海淵海馬が恐る恐るリエに聞いた。
「リエ……。いいの? あなた、今まで“それ”私たちにですら触らせてくれなかったじゃない。大丈夫なの……?」
「もう、いいかなって。一年も経ったし。あなたたちならミドリを傷付けることしないから、大丈夫かなーって。いい加減、私も気を持ち直さないと娘たちに笑われてしまうじゃない」
「そうね……。私も真海から、いい加減しなさいと蹴ったくられるかもね」
「あたしも……。あたしも、有子から、もう五年も経つのにいつまでも引きずるなって殴られそうだわ」
あとに続いた海馬と潮は、照れくさそうに恥ずかしそうに後ろ頭を掻いていった。隣の銀が、リエの手を優しく握っていった。
「潮干ミドリさんが消えたというのは、本当ですか?」
「私は、ミドリが生贄に捧げられる姿なんて見たくなかったから見ていなかったわ。けれど、海に飛び込んだ娘を助けに向かった紅子は近距離で、ミドリが消えるところを見たというの。あとは、岩山から磯野フナと司祭の摩周ホタルちゃんも私の娘が消えるのを見たと言っていたわ」
榊雷蔵の疑問に、潮干リエは答えていく。
「どのような消えかただったんです?」
「なんか……こう……。直接見た紅子の話しだと、ミドリは海の中の景色に溶け込んでいくような感じで透明化していったそうよ。消えるときに、娘の瞳が虹色の光りを放ったらしいわ」
「あなたたち、リエさんたちのような陰洲鱒の人は瞳を光らせることができるのでしょうか? そして、そのときになにか特殊な能力が発動することなどはあるのですか」
「目撃者がいない技なら、私たち陰洲鱒の女たちはほぼ全員が使えるわね。見た瞬間“はい、さようなら”。今だと、初見殺しの技になるのかしらね。ただし、脅しや威嚇ていどで使うのは駄目。強い殺意をもって使わないと、他の人たちに知れ渡ることになって、隠し球の意味がなくなるからよ」
「その隠し球とは、ここにいる皆さんが使えるということですか」
「そうよ。銀、私、潮さん、海馬さん。ここに座るみんなが使える。何度も言うように、相手に殺意を抱かないと“これ”は使えないし、使わないほうがマシよ。生半可な意識じゃ一瞬で葬り去れない」
「殺意を持たないと駄目ですか?」
「野蛮だと思うでしょうけれど、とくに殺意なしで使ってしまった場合はじぶんの命が危険よ」
「確かに。隠し球が知られたら、それは敗北に繋がりますね」
「そうねえー。死ぬしかないわね。ーーーでも、初見殺しの技を見られても、私たちは強い」
「そうですね。それは分かります」
リエたち四人の陰洲鱒の女が静かに頷いた。
そして、雷蔵も納得した。
一区切りが着こうとしていた。そんなとき。
響子が申し訳なさそうな笑顔で手刀を上げた。
「あのー。水を差すようで悪いのですが。その陰洲鱒の女の技を、みまもとニーナさんとタヱちゃんの前で、銀さんの娘さんが使ってしまいまして……。なんか、亜沙里さんの髪の毛が凄いことになっていたと」
「は? え? ええ? 亜沙里が? まったく……、あの子ったら……!」
片手で頭を抱え込む浜辺銀の背中を、リエは優しく撫でていく。
3
「ごめんなさい。タヱちゃんたち三人はただ、亜沙里さんに話しを聞くだけだったのに、娘さんが摩魚さんの妹の“みなも”を押し倒したところから戦闘が始まったと三人から話しを聞いています」
「そ、そうなの? 誰も怪我しなかった?」
我がひとり娘が人様を傷付けたかどうか。
浜辺銀はそれが心配であった。
「三人とも肉を切られたけれど大事には至らなかったと。あたしも気になったんで見せてもらったんですが、深手ではなかったですけど痕は残りそうですね」
途端に真顔に含まれる怒りの顔で、響子は返した。
この娘、武器を抜いたなら殺れ。考えを持っているようで。
それがソバージュの美女にも通じたのか、上体をあげてポニテの娘を真っ直ぐ見つめた。そして、クリアーオレンジのリップを引いた唇を開いていく。
「そうよね。人様に一生残る傷をつけるくらいなら、最初から殺る気でいったほうがマシよ。亜沙里のヤツ、近ごろは鍛練をサボっているみたいだったのよね。でも、それが本当だったみたいだわ。ーーーまったく……! あの子ったら……」
歯を剥いて吐いたのちに、今度は笑顔に変わり響子に向けて手を合わせた。
「ごめね、響子ちゃん。今度会ったら、あたしの馬鹿娘にキツく言っとくから」
なんだか、この女の怖さを垣間見た感じがした響子。
「い、いいえ。あたしは直接会ったわけではないですし」
「いいのよ、響子ちゃん。甘い判断で技を使った亜沙里が悪いんだから。それにあなた、あたしたちの技通じなさそうだもの。ーーーなんだか、“ガードが硬そう”じゃない?」
「…………! い、いやぁ。あたし単に、雷蔵以外の男たちにガードが固いってだけですよ……」
動揺して、後ろ頭を掻いて答えなくていいとこまで答える響子。
その反応に、浜辺銀は笑みを浮かべて。
「あら? あたしも同じよ。あたしたちみーんな、旦那以外の男たちに対してはガードは固いんだから。仲間だね。一途な者どうし仲良くしましょ」
鈍色の尖った歯を見せた笑顔で、響子と握手をする。
リエと潮と海馬が赤面して、一斉に銀に目線を向けた。人前で言われてしまうのは、恥ずかしい。
雷蔵はというと。
リエから預かった片身のヘアバンドを親指の腹で触りながら見ていた。見たところ、割れたあとはキレイに接着されているようで、完全に修復されてからこの巻いたセロテープには必要性を感じなかった。そう思っていた護衛人の好青年は、この疑問をリエにぶつけてみた。
「リエさん。このヘアバンドの割れたところはキレイに修復されていますね。しかしというか、だからこの、セロテープの意味が俺には察しがつかないんです」
「ああ、これね」
と、リエは微笑んで言葉を続けていく。
「町の高校に入ったときに、私がプレゼントしたんだけど、生贄のときにミドリから『私は消えてしまうから、その前に母さんから買ってもらったこのヘアバンド返しておくね』と言われて。それがそのまま片身になったの。ーーーそれとこのヘアバンド。一度割られたのよ。娘が東京で芸能活動を続けていたころに、嫌がらせで差し向けられた三〇人以上の男たちから強姦されそうになったときにね、目の前で踏みつけて割られたそうよ」
「三〇人以上……だって?!」
これにはさすがに驚きを見せた雷蔵。
たったひとりの若い女性に、総勢三〇人以上の暴漢である。
しかも、強姦も辞さない。
望まぬ妊娠をさせるつもりだったのか。
「女ひとりに三〇人以上の男だと? 馬鹿じゃないのか」
「そうよね。それは馬鹿のやることだわ。でもね、私の娘、その三〇数人を全員再起不能にしたんだって。一昨年の週刊誌に載ったから、知られているんじゃない?」
「は……? え……? さ、再起不能に?」
「雷蔵くん、読んでないの?」
「はい。それは知らなかったです」
「正直だね、君は。ーーー警察の到着まで待機してたいミドリはね、背骨を折ってのけ反って倒れた大男の腹に腰を下ろしていたそうよ。事情聴取のときにね、ミドリったら『たった三〇数名の不良を相手に汗かくなんて、鍛練を怠けていたことを実感しました』だなんて言っていたそうよ。あの子、親の私に隠れて武道をしていたみたいね。私は今も、娘の師匠が知りたいわ」
「俺も知りたいです」
「ふふっ。ありがとう」
4
「そういえば、この『おめしゃんGUY』さんの漫画を、前にーーーー」
「雷蔵君、普通そこは有馬鱗子さんって言うでしょ」
雰囲気を戻した直後に切り出してきた雷蔵に、修復したヘアバンドを着け直しながら頬を赤く染めたリエが歯を剥いて注意した。この護衛人の青年、わざとなのか自然になのか判断するのが難しかった。では、仕切り直して。
「有馬鱗子さんの漫画を五ヶ月前に福子さんに話しを聞くついでに見てもらったんです」
「え……っ? ふ、福子に? 福子に見せたの? マジ?」
「おいおい、雷蔵君。なにしてくれるの」
「マジか。君さ、じぶんがなにしたか分かってる?」
「雷蔵くん、彼女がどんな“人”か分かってんの?」
途端に、地雷を踏んだみたいな反応を見せていく四人のママさんたち。毒のスペシャリスト、人魚の虎縞福子に五ヶ月前にアポ取って会ってもらったついでに、例の漫画を読んでもらったらしい。ちなみに、福子と雷蔵と響子は初対面ではない。そんな四人の突っ込みのあとに雷蔵は響子と顔を見合せて、再びリエたちに向き直った。
「はい。福子さんとは、三年前に依頼人として来てくれた人で、今は響子ともども知り合いですよ。確か、磯野マキさんも同席していたかな。相棒になりたてだった響子の初仕事だったから、印象が強いですね」
「意外」
「まあ、今回のとはまったく別の件でしたし。響子のことをけっこう気に入ってくれています」
「福子の依頼内容ってなんだろう。でも、響子ちゃんを気に入るって福子らしいよね。あの子、男性嫌悪が凄くて女の子が好きだから。雷蔵君、大変だったんじゃない?」
「んー? とくにそこはなかったです。今回も久しぶりにお互い顔を見れたときは、響子は抱きしめられて俺は頭を撫でられましたから」
「意外すぎない? なにしてんの福子」
友達の知らない一面に、驚きをしめすリエ。
「てか、マキちゃんなにしにきたの?」
「人魚の肝臓というか肝が連続して狙われていた事件が起こっていたので、あたしと雷蔵のもとに護衛してほしい依頼を代表して持ってきてくれたのが、福子さん。人と人魚の合の子ということでマキさん」
「へえ、そうなんだ。響子ちゃん大変だったんだじゃない? 結果はどうだったの?」
「大変だったけれど、やり遂げましたよ。依頼人も全員無事でしたし。犯人も生かして警察に突き出したし。彼女、今は服役中じゃないかな」
初仕事の思い出を楽しそうに語る響子の姿を、微笑ましく見ていた雷蔵。これを聞いていたリエたち四人は、愛しさに目じりが下がっていた。響子は話しを続けていく。
「そうそう。その鱗子さんの漫画を福子さんに見せてみたんですが。彼女、もう今のところの全巻を持っていると言って、本棚の写真を見せてくれましたよ。ずらりと並んで、壮観でした」
「福子、漫画持ってんの?」
「はい。私の愛読書ですよと、あたしに嬉しそうに言ってました。お世話になっているとも。福子さん、これを描いた人は、買ったときからなんとなく分かっていたらしいです」
「あ、愛読書? お世話になっているって、オカズにしてますって言っているも同然じゃん。本当に、なにしてんの福子」
いろいろと驚きを隠せないリエが、さらに聞いていった。
「ところで響子ちゃん。福子、じぶんが漫画のモデルにされているってこと知っているの? もし知っていたら、どんな反応だったの?」
「作中の初登場のときからモデルにされていたことを分かっていたそうで、あたし、どんな気持ちだったかと福子さんに聞いたんですよ。そしたら、逆に興奮します、と嬉しそうに言ってました」
「はあ?! やっぱり福子ドスケベじゃないの」
赤い顔で歯を剥いたリエ。
そして、気になることがあとひとり。
「紅子とは会ったの?」
「はい、六月くらいに。綺麗な人ですよね」
「そうでしょ。紅子、綺麗でしょ」
嬉しそうに乗ってきたリエ。
「で、で。あの子に鱗子ちゃんの漫画見せたの?」
「はい。同じように、読んでもらいました」
「どうだった? どうだった?」
「紅子さんも単行本を全巻揃えていると。愛読書で、お世話になっていますって楽しそうでしたよ」
「愛読書って、紅子もか。ご丁寧に、お世話になっていますまで言わなくていいのに。福子といい、紅子といい、なんで人様の前でオカズにしてます宣言するのさ」
「あはは。ーーーあたし、福子さんと同じように、紅子さんにも、作品にモデルにされて出されていますが、どう思っていますか?と聞きました」
「わざわざ……。紅子はなんて言っていたの?」
「彼女、頬を赤くされて、逆に興奮する、と言ってました。可愛かったですよ」
「バイク弄りだけだと思っていたけれど、紅子もドスケベだったか」
「あたし、他にも聞いてきましたよ。志田ちゃんとヒメさんたちに」
「あ、あのね、響子ちゃん。そこまで聞かなくていいのよ」
「せっかく作品にご出演されているので、まずはリモートでアポ取れたヒメさんから聞いたんです。ああ、そういえば、摩周ヒメさんってとっても綺麗で色っぽい人ですね。あたし、ちょっと、その……。ドキドキしました」
「ああ、もう。響子ちゃん可愛い。ーーーで。ヒメはなんて言っていたの?」
瀬川響子、おもむろにメモ帳を取り出して。
「ええと。単行本は全部持っているほど好きで、お世話になっています。あとは、まあ、福子さんと紅子さんと同じ感想を仰っていました」
「逆に興奮する、と?」
「はい」
「そんなのばっかりじゃん。私の友達そんなのばっかりじゃん」
少しばかり半べそ気味に文句を垂れるリエ。
ドスケベの連チャンは羞恥にくるらしい。
そのような黄金色の髪の毛の女の頭を黄肌潮は“よしよし”と撫でたのちに、最後の人物についてたずねてみた。
「ねえ、響子ちゃん。志田ちゃんにも漫画のこと聞いてみたんでしょう? あの子、なんて言っていたの?」
「あー……」
と、虚空を見つめたのちに黄肌潮を再び見て。
「ただひと言『間に合っています』と」
「え? いったいなにが間に合っていますなんだよ?」
「あたしにも分からないです」
「なら、オバサンも分からないや」
鈍色の尖った歯を見せて、照れくさく後ろ頭を掻いた。
「あ。そういや、志田ちゃんは漫画の志田ちゃんのこと知っているの? というか、分かったの?」
「ええと。モデルにされた私が、どこに出ているのか分からないですと。皆さん漫画の中でも綺麗ですよと、以上のことを仰っていました」
「はあ? いやいや。分かるでしょ。志田ちゃんモデルにされていても分かるでしょ。分からないてあり得なくない?」
「あり得ないですね」
「ねえ、あり得ないでしょ?」
ガテン系人魚の志田杏子の思考に疑問を抱きつつ、近況報告と依頼人についての事情はあらかた終わりに着きかけた。友達のそんな様子を面白そうに見ていた海淵海馬が、先ほどの話しを思い出したようにたずねてきた。
「そういえば、虹子ちゃん成人指定の漫画を描いているって言っていたよね? もしペンネームがあったなら知りたいな」
再び書類を手に取った雷蔵が、それに答えてゆく。
「有馬虹子さんは、『白子鮑之助』と名乗って描いています」
「はああ? なによ、それ。また貝かよ。まったく、母娘そろってなに考えてんのよ」
「生まれが、陰洲鱒町だからじゃないですか」
「それが理由になるの?」
「なるんじゃないですかね」
「まあ、まあいいや。今度私、鱗子ちゃんと虹子ちゃんの漫画を試しに買ってみようかな……」
ちょっと頬を赤くした海馬は、こう呟いた。




