12
アッシュはまた僕の部屋に来なくなった。結局、何度か打ち合いをしただけだったけど、あれはアッシュのためになったんだろうか? 僕は剣を振っているだけで勝手に上達するので、他の人のやり方をよく知らない。
「レイ」
ある日、久しぶりに開いた扉から師範が現れた。
「倒してほしい魔物がいる」
師範の表情は罪悪感に塗れていた。そしてそれを僕に伝わらないよう抑えているように見えた。前に、執務室で見た時よりも更にその顔は老け込んでいる。
師範は偶に、女であることにこだわっていた。長らく道場で過ごし、長らく剣にのみに触れてきた師範は、そうではない世界に憧れを抱いているのではないかと思ったことがある。僕にとっては天国のような日々も、師範にとっては複雑な人生なのだろう。
その師範が、もうどうしようもないくらい汚れた姿で僕の前に立っていた。僕なんかにこんなふうに思われるのは嫌だろうけど、正直、見ていられない。
「アッシュはどうしたんですか?」
この数ヶ月、僕は一度も魔物の処理に駆り出されたことがなかった。恐らくアッシュがいれば問題なかったのだろう。実際、僕も魔物と戦っている最中、これならアッシュでも倒せるんじゃないかって思ったことは少なくない。
わざわざ僕に魔物を討伐させたいのは、アッシュが忙しいからだろうか? そう思っていたけど、師範の顔色を見たところ、どうやらそうではなさそうだった。
「奮闘した。だがどうしても倒せなかった。どうしてもな」
師範が「移動しながら話す」と言ったので、僕は頷いて部屋を出るしかなかった。部屋を出たのは四ヶ月ぶりだった。
その魔物は、馬車を二つ乗り継いで東に向かった先にいると師範は語り出す。魔物はかつて栄えていた街を一夜で滅ぼし、今はその廃墟を根城にしているとのことだった。魔物は素人にとって恐ろしい生き物だけど、それにしたって単体で街を丸ごと滅ぼせるのは珍しい。よほど凶悪な魔物なのだろう。
道場を出たところでアッシュが立っていた。その姿を見て僕は驚く。アッシュは身体のあらゆる部位に包帯を巻いていた。右腕と左足を折っていて、頭部の傷も深そうだ。こんなに痛々しい姿のアッシュは初めて見た。いつものキラキラしている雰囲気が今のアッシュからは感じられない。
「俺も同行していいか?」
どこか後ろめたそうに、アッシュが訊く。隣に立つ師範が、無言で僕の顔を見つめた。今の質問は師範にではなく僕に対してのものだったらしい。僕が「うん」と頷くと、アッシュは「ありがとう」と弱々しい声で告げた。
三人で馬車の荷台に乗り、目的地まで向かった。誰も喋らなくて空気が重たかったので、僕は頭の中で剣を振っていた。剣を振れない場所ではこうすればいいんだと最近になって知った。
日を跨いでも全員が無言だった。剣を振る妄想を中断して一息ついた僕は、今回の仕事が普段とは色々違うことに今更気づく。僕たち蒼天一刀流の義務は、街を襲ってくる魔物の処理だったはずだ。街から離れた廃墟を根城にしている魔物なんて、本来なら倒す義理はない。
「あれだ」
疑問が解消するよりも早く、目的地に着いた。師範が「あれ」と指さしたのは、遠くからでも分かる巨大な蛇だった。鱗が鋼のような色と質で、陽光を眩く反射している。
馬車を降りた僕たちは、三人で魔物のもとへ向かった。蛇が僕らに気づいて鎌首をもたげると、師範とアッシュが血の気の引いた顔で立ち止まった。まるでこの世の終わりを見たかのようだ。まだ距離もあるし、そんなに緊張する必要はないと思うけど。
ギチギチと硬い鱗の擦れ合う音が、離れている僕らの耳にも届いた。師範とアッシュは動かない、というより恐怖のあまり動けなさそうだ。ここから先は僕がやっていいのかな? 剣の柄に手を添える。
「レイ」
アッシュが震えた声で僕を呼んだ。
「頼む……倒してくれ」
言われなくても、最初からそのために僕はここにいる。そう思ったけど口にはしなかった。アッシュの目がとても複雑な感情を表しているように見えて、僕は一瞬その真意を考えようとした。でも、どうせ僕には分かんないし、すぐに剣を抜く。
あれ? と僕は思った。よく見れば蛇の全身にたくさんの傷跡がある。
剣を振ることしか能がない僕だからこそ分かった。その傷跡はアッシュの剣筋と一致している。刀身が肉に入る角度、抉る深さ、軌道、どれもアッシュの特徴とそっくりだ。他の人には分からないだろうけど、僕には見抜くことができた。
アッシュはこの魔物と何度も戦っている。そう気づいた直後、僕の鈍い頭が点と点を繋ぎ出した。
「あのさ」
僕は一つに繋がった線を口にする。
「あれって、アッシュの仇なんじゃないの?」
僕は蛇を指さしながらアッシュに尋ねた。
形見を壊してしまった僕は、もう二度とアッシュにとって大事なものを奪わないよう気を遣っていた。アッシュが何度も挑戦している魔物とは、きっとあの蛇のことだろう。なら僕が倒してしまうのは、アッシュの目標を奪うことになるんじゃないか。
今度こそ正しい気遣いができたと僕は思っていた。でもアッシュは僕の言葉を聞いて、泣きそうな顔で震えた。
「なんで」
アッシュはとても苦しそうに言う。
「なんで、今に限って……そんなマトモなことを言うんだよ」
やっぱり僕の脳味噌は鈍かった。今になってようやくアッシュの気持ちを理解した。
アッシュは僕を爆弾と認識していた。仇討ちをどうしても果たせなくて、けれど自分以外の誰かに果たしてもらうのはあまりにも複雑で、それでアッシュが最終的に選んだのは災害だったわけだ。人には頼めないけれど、災害が勝手に倒してくれるなら、まあ許せる。そういうことだろう。
アッシュは僕を人として見ていなかった。僕の人間でない部分を利用したかった。だから僕が人間みたいなことを口にするとアッシュが困ってしまうわけだ。
アッシュは僕のマトモじゃない部分を信頼している。そのことを今になって反省しているのか、アッシュの顔は恐怖と悔恨でグチャグチャになっていた。
大丈夫だよ、アッシュ。
僕はその方が嬉しいんだ。
君はとても優しいから、僕を人間扱いしなくちゃいけないってまだ思ってるんだろうけど、僕は人間じゃなくていいんだ。だって僕は剣のなり損ないだから。人としての期待には応えられないけど、僕はそういう期待には応えられると思う。
力強く剣の柄を握る。人間であることに強い違和感を覚えている僕は、人外に対する期待を注がれたことに驚くほど歓喜していた。僕は今、初めて僕という存在が認められたような気がする。この期待だけは必ず応えられそうな気がする。
蛇が変な声で鳴いた。元々、蛇ってそんなに鳴き声は大きくないけど、目の前の蛇は図体がでかいため空気の振動が伝わってくるほどの大きな声だった。
次の瞬間には、僕は蛇の頭に乗っていた。そのまま少しだけ胴体側に移動し、剣を振るう。
刀身が弾かれた。
びっくりした。生まれて初めてのことだ。
何これ? 鱗に刃が通らない。
剣……というか、切断そのものに耐性があるのかな?
よく分からないから空間ごと斬ることにした。斬るのは魔物じゃなくて、魔物がいる空間。だから鱗の耐性なんて関係ない。
蛇の頭が綺麗に落ちた。断面は我ながら美しく、抵抗なく切断されたことがよく分かる平らさだ。空間を斬った影響か、周囲の空間が陽炎みたいに歪んでいるのでちょっと怖い。前やった時はしばらくすると戻ったし、今回も放置でいいや。
「終わりました」
すぐに二人のもとへ戻り、仕事の完了を報告した。アッシュはまだ話しかけちゃ駄目そうだったから、師範にだけ声をかける。
僕の背後では血の雨が降っていた。雨はかつて栄えていたという街の残骸を等しく濡らしている。血を噴き出している蛇の胴体は、瓦礫の上に力なくもたれかかっていて、ピクリとも動かなかった。
アッシュが長年、戦い続けてきた魔物。アッシュの故郷を滅ぼした仇。
僕はそれを大体二秒で倒した。
アッシュが頭を抱えて苦しみ出す。
「あ、あぁぁ、ぁあぁああああぁぁ…………っ」
アッシュはどこかおかしくなってしまったかのように、呻き声を発し続けた。流石に無視できなくなって、僕が「アッシュ」と声をかけようとすると、師範が割り込んできて「レイ」と首を横に振った。
「頼む、そっとしてやってくれ」
アッシュの様子を見ていると、僕はまたしても彼にとって大切なものを奪ってしまったんじゃないかと思うようになった。師範もこれでよかったのか自信を持っていないように見える。
「なあ、レイ」
泣き叫ぶアッシュの傍で、師範も泣きそうな顔をした。
「どうしてお前は、そんなに強いんだろうな」
どうしてだろう。
……これしかなかったからじゃないかな。




