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宣言通りアッシュはまた来た。しかも日を空けず。
ぐっすり寝たと思ったら、扉がノックされてアッシュが現れる。アッシュは昨日と同じように打ち合いを頼んできた。寝起きの僕は朝食が運ばれてくるまでの間、ひたすらアッシュの剣を捌いた。
アッシュはほとんど本気で剣を振っていた。試合というより死合いに近い雰囲気だ。でも僕にとっては文字通り朝飯前の打ち合いで、朝食が運ばれてくる頃、アッシュが玉のような汗を流す一方で、僕は息一つ乱れていなかった。
朝食を運んできた門下生は、僕の部屋にアッシュがいることに驚いていた。アッシュが門下生に「俺の食事も持ってきてくれないか?」と図々しい頼み事をする。その門下生は何故か嬉しそうな顔で、すぐにアッシュの分の朝食を持ってきた。
僕とアッシュは、蒼天一刀流の席次は近いけど、性質はやっぱり真逆だった。僕はどんな気遣いをしても皆に不愉快だと思われる。でもアッシュはどれだけ図々しいことをしても、皆にとってはファンサービスになる。
食事中、アッシュは一切喋らなかった。肉を食べながら、虎視眈々と僕を倒すための戦略を練っている。今日はアッシュの全身からずっと闘志みたいなものを感じる。僕は静かに吐息を零した。
「僕を殺したい?」
無意識にそんなことを訊いた。
アッシュは少しの間、食事の手を止めたけど、すぐに再開する。
「そう思った時もある」
意外だった。あの素晴らしい人格者であるアッシュも、同門の人間を殺したいと思う瞬間があるらしい。
「形は、大事じゃなかったんだ」
パンを咀嚼しながら、アッシュは言う。
「剣が折れたところで、形見であることは変わらない。俺は今でもあの剣に触れていると、家族のことや、やらなくちゃいけないことを思い出す。たとえ折れようと、砕けようと、あの剣は俺の中でずっと形見なんだ」
アッシュは大切な詩を読むかのように告げた。掛け替えのない、大事なものを見つけたかのようだった。自分に言い聞かせて怒りを鎮めているわけではなさそうだ。
「レイは、故意で俺の形見を壊したわけじゃないんだろ?」
「うん」
首肯すると、アッシュは頼りなく笑った。
「そうだよな。レイが故意だったことなんて、一度もないもんな」
何故か、無性に虚しくなった。
僕はアッシュに殺されたかったのかもしれない。一生、批難されたかったのかもしれない。でもアッシュはやっぱり人格者なのでそうはならなかった。僕らが分かり合える日は来ないのだと、今、理解した。
「レイには言ってなかったが、実は第二席になってから何度も挑んでいる魔物がいるんだ。この間で八回目になるが、未だに勝機が見えなくてな」
アッシュは「でも」と続ける。
「もう終わりにしたいんだ。戦う度に、皆も巻き込んでしまってるし」
アッシュは付け足すように「レイも巻き込んじゃったな」と笑う。巻き込まれたんだ、と僕は思った。アッシュが僕に教えを乞うたのは、その魔物を倒すためだったようだ。
アッシュは僕ほど剣が上手いわけじゃないけれど、蒼天一刀流の第二席である。そのアッシュが何度も敗走を繰り返している以上、標的はなかなか強いのだろう。
「悪いけど、こいつだけは俺の獲物だ。手は出させないぞ」
「別にいいよ、そういうの興味ないし」
アッシュは「レイは無欲だな」と苦笑した。僕の無欲は剣の上に成り立っている。一つの部屋に引き籠もって、ひたすら剣を振るだけの日々は幸せだった。これさえあれば問題ないし、逆にこれだけは欲しい。
強いて言うなら、もう一つだけ欲しいものがある。
「凱旋は、ちょっとしたいけど」
アッシュが目をまん丸にした。
「レイ! お前、そういうのにもちゃんと興味があったんだな!」
アッシュが急に目を輝かせた。まるで、ずっとこういう会話を求めていたとでも言いたげに。
「多分、アッシュが思ってるのじゃないよ」
「いやいや、そんなことないだろ。皆に認めてほしいって気持ちだろ? 誰だって持ってる感情だ」
分かったふうな態度でアッシュは頷いた。
でもそれは人間の話であって、僕は剣のなり損ないだから、適用されない常識だった。師範と同じように、アッシュもそろそろ気づいてほしい。誰だって持っている感情だからこそ、僕だけは持っていないのだ。凱旋で皆に褒められるのは確かに嬉しいけれど、その嬉しさは本当に些細なことだ。
アッシュは多分、僕と距離を詰めたがっている。この話題を入り口にして、僕という存在の核を覗きたいんだろう。昔は道場の皆もこんなふうに僕を覗こうとした。でも皆、最後は必ず僕から離れていった。
僕の心を覗いた人たちは、覗かなかった人たちよりも僕を拒絶する。門下生と街の住民の違いがいい例だ。街の住民が僕を英雄視していたのは、僕を知らないからである。僕を知っている門下生たちは、僕のことをただの厄介者と見ている。
偶に、粘り強く僕のことを理解しようと努める人が現れる。かつての師範のように、今のアッシュのように。でも師範の時に確信したけど、そういう一方的な期待には揺り戻しが付き物だ。根気強く、ギリギリまで耐え凌いだ人ほど、限界を迎えた後は徹底的に僕を拒絶する。今の師範のように。
ならもう、最初から近づかないでほしい。
僕が純粋な剣だったら何も感じなかったはずだ。でも僕はなり損ないだった。拒絶される度に、僕を包み込んでいる人間の肉が悲鳴を上げる。削ぎ落としても削ぎ落としても蛆虫みたいに湧いてくるこの肉が、僕に人の苦しみを強制する。
アッシュの歩み寄りが怖い。
近づかれて嫌な思いをするのは、いつだって僕だ。
「本当に、違うから」
冷たく言い放つと、楽しそうに笑っていたアッシュが真顔になる。見てられなくなって僕は視線を逸らした。どうせ分かってくれないだろうけど、これが一番穏便なやり方なんだ。
アッシュが「ごめん」と謝った。
僕は謝らなかった。謝ったらまた近づかれそうだから。
食事が終わった後、僕らは無言で時が経つのを待った。腹に入れた食べ物を消化するまでの間、この静寂に耐え続けるのはお互い厳しかった。音がないだけの五月蠅い時間だった。しばらくするとアッシュが立ち上がり、剣を握る。僕も剣を握り、アッシュと対峙した。
凱旋をしたい理由は、家族にあった。
父は、僕がまだ喋れない歳だった頃に失踪した。父がいないことを不思議に思った僕に、母はよく「パパは頭がおかしいのよ」と言っていた。父のことを語っている時の母の目は、まるで岩陰に潜む虫を見つけてしまった時みたいに、不快と無関心が綯い交ぜになっていた。僕はその目が嫌いだったので、次第に父の話を避けるようになった。
でも、僕が大きくなるにつれて、母はその目で僕を見るようになった。不快かつ無関心。実の母から、視線を通してそういう感情をぶつけられて、僕は剣に逃げた。そうでもしなければ頭がおかしくなりそうだった。最初からおかしかったのかもしれないけど。
母が一人で何かを抱えていることには気づいていたけど、その目で見られるのが怖くて僕は近寄れなかった。代わりに剣ばかり振っていた。母はどんどんおかしくなっていき、僕はどんどん剣を振った。
ある日、母が僕を蒼天一刀流の道場に連れてきた。一通り剣を振り、褒め称えられ、いい気になった僕は母の方を振り返る。僕は剣の才能があるらしい。もしかしたら母はそれを喜んでいるかもしれない。そんな期待を込めて母を探した。
母はいなかった。
母は何時間も前に道場を出ていた。僕をこの道場に預けるための必要な手続きを既に済ませていた。
師範は僕がこのことを了承済みであると母から聞かされていた。状況をなんとなく理解した僕は、道場の世話になることを大人しく受け入れることにした。剣を振るのは楽しい。別にこのままでいいと思った。母を探したのは、心のどこかで母を探さなきゃいけないと思っていたからに過ぎない。だから僕はその時、母親に対する子供の責任みたいなものから解放された。
けれど、この時を境に僕は、何かが変わってしまったんだと思う。家族の思い出が脳裏を過ぎる度に、僕は剣を握り、無我夢中で素振りするようになった。頭の中にある母親の顔を黒く塗り潰す作業だった。凱旋で親子の姿を見る度に、僕の胸中はどす黒く染まった。その黒色で母親を塗り潰した。
歓声が届けばいいなって思った。凱旋をする時は、皆が僕の名前を叫んでくれる。レイ様、英雄様、って声が街中に響く。この声が母親の耳まで届けばいいのにって僕はずっと思っていた。
いつか、歓声を聞いた母が僕を迎えに来てくれるかもしれない。そしたら僕は、久々に会った母の顔を見て、こう言ってやるのだ。「誰ですか?」と。
さぞや気分がいいだろうな、と思った。




