9話 その少年は少女でもあり
ジェイのことで気を張っていたけど、肩の荷が下りて久々に熟睡できた。眩しい朝日も気にせず眠っていたなんて。服を着て部屋の外へ出る。この邸宅は派手さだけ見ると貴族屋敷よりは劣るものの、落ち着いた艶やかさがある。
多種多様なデザインの装飾品やらアフリカから取り入れたのかな、異国情緒溢れる工芸品やらが飾られている。家具の色は全体的に重厚感のある黒に近い茶色で、イザベラさんのところは明るい茶色なことを考えると、これもまた対照的で興味深い。
ローマ時代の遺物みたいなツボとかもある。
あっちこっち見て回ってるけどメイドさんと執事さんたちは誰も見えない。
時刻は八時を丁度過ぎている。
普段は六時に起きるから、二時間も寝坊したことになるのかな。
なんだか贅沢をしている気分。
今の時間だと朝の掃除を終えて食事の準備をしているところ。
ジェイとアランデールさんも見えない。何をしているのやら。
誰も止める人はいないので屋敷の鑑賞を続ける。別に見られて減るものじゃないもんね。放置している方が悪い、なんて開き直って。
絵画も貴族屋敷にあったら少し場違いな雰囲気のしそうな、船と海、草原と山を描いた風景画が壁にかけられている。
現代ならモダンアートなんか飾られていると思うけど。現代ではアメリカの富裕層が税金対策として高い絵画を買い集めるとかの話は聞いたことあるんだけど。
こんな風に。たくさんの収入を得ることで税金を取られるようになった時、画家を雇ってそれらしい絵を描かせ、その絵の価値を税金と同等な価格に設定してから博物館に寄付する。
画家を雇った費用は税金の百分の一でしかなかったりするので。
画家は仕事が出来て万々歳、富裕層は脱税が出来て万々歳、美術館には絵が増えて万々歳という…。皆いいこと尽くめ、ウィンウィンってやつですよ。
そんなわけないけどね…。そもそも価格が主観だからと勝手に絵画の値段を上げるなんてことをしたらどうなるか。評論家や鑑定士、流行りの記法や作品のテーマなど、関わっている人たちは一人じゃないのでそんなに都合よく運ぶわけが…。
現代の絵画がなぜか落書きレベルにまでなってるのは考えないようにして…。
それを純粋にこれは人間の心理を表現した抽象画で…、とか。
だとしても値段が可笑しいでしょう。
そんな後の世に比べたら、単純に一目でわかる美しい油絵は見てるだけで癒される。
産業革命期のイギリスの絵画は草原や森、海などの自然を描いたものが多かったんだけど、この屋敷に飾られているもののように。
単純に肖像画の需要が高かったので数だけ見ると肖像画の方が多いけど、それは写真があまり好まれなかったから。白黒だし、動いたら被写体がぶれて輪郭がぼやけたりするし。
特に子供なんて撮影が終わるまでの時間をじっとして待っていられないから、それはもうこれ程かとぶれるでしょう。
じゃあなんで大人しい子供の写真とか残っているのかと言う話だけど。
あれ死んでるんだよね。
幼児死亡率が高いので、家族写真にでも死んだ子供をまるで生きているかのように抱きしめて写真を撮るという…。悲しすぎない?
だから子供の肖像画が描かれる場合は、子供は生きている。
子供の写真が取られる場合は、子供はもう死んでいる。
そんな肖像画の類は多分だけど自分の部屋の近くに飾られているんだろう、廊下やリビングには見当たらない。
風景画だけ。
ただこの風景画、写実的と言うより、光の度合いがぼやけているのが多い。それか植物の緑が実物より鮮やか。
それが自然環境が持つ冷酷さや冷たさを表現していると見ている人もいるけど、私から言わせるならそれはむしろ自然から離れてしまって、戻れなくなった記憶を美化しているような気がするのである。
理性で本能と感情を抑圧し、世界は二つに分かたれる。まるで幼年期が過ぎてからそれを美化して懐かしむように、眩しくもぼやけた形で映るという。
自らを常に理性的な立場に立たせるしかないブルジョワジーの哀愁…。
その精神にこびりついた孤独はいかほどのものかと。
これ以上考えたらアランデールさんを情熱的に愛してしまいそうな気がしなくもなかったので、流れる一滴の涙を指でぬぐい取る。
絵画の前から離れて、アランデールさんの書斎に行ってみる。
邸宅にある部屋の位置は、実は前にも来たことがあるので把握はしている。のんびりいられるような状況ではなく、滞在時間も十分も満たなかったんだけどね。
書斎の扉は薄っすらと開かれていた。中から話声が聞こえてくる。執事さんと一緒なのかなと一瞬思って、ジェイもいないのでもしかして一緒なのかとノックをする前に覗いてみた。
するとそこにはちょっと信じられない光景が。
ジェイがアランデールさんの膝の上に座っていたのである。椅子の上に座って、後ろから抱きしめられている。特に嫌がっているようには見えない。
扉とソファの角度的にほぼ斜線状になっている。
正面を向けている二人からは気づかれそうになかったから、少し様子を見ることにした。ただの好奇心。
他意はないからね。
「猫は高いところへ上っては降りたくなって自分から落ちて傷つく。まさに君のことだな。」
アランデールさんはそう言ってジェイに笑みを向ける。何だろう、全部知っているような口ぶり。前々から知っていたのかな。
「傷ついてないから…。」
「なぜアンダーソン夫人のところから逃げた。誰かに言われたのか。君のようなものはここにいるべきではないとでも。」
話の内容から考えるに、アンダーソン夫人のところで娼婦をやっていた時にアランデールさんと会ったってことだよね。
「そんなところかも。」
「随分と素直になっている。ルミにあてられたのか。」
私は何もしてないぞ。人を素直にさせる技術なんて知らないし。
「多分。」
「彼女のことを愛しているのかい。」
え、そんなこと聞くの?本当に愛していると言われたらどうしよう…。いやまあ、嬉しいけどね、人に愛されて嫌な気はしないでしょう。
「ただの恩人だから。」
まあ…、うん。知ってた。
「情欲を向けるには純粋すぎるとでも思っているのか。彼女は君が思うよりずっと物事の仕組みを知っている。娼館でどんなことが起きているのかも自分の目で見てわかっているだろう。」
知ってるけど別に直接見ているわけじゃないから。前世の経験だから。言えないけど。
「じゃあなんで昨日は僕と同じベッドで寝ることを許可したんだ?」
するとアランデールさんは低く笑った。確かに考えてみれば…、全然そんな雰囲気じゃなかったんだけど。
「何が可笑しいんだ?」
本当だよ。何が可笑しいの。それどころじゃなかったのに、事情も知らず勝手に…。
「君のそれは並の男のようには機能しないだろう。」
ええ…、何で知ってるの…。
「う、うるさい…。そんなこと口にするな…。」
ジェイの反応も何気に可愛いし。
「なら選ぶ職業を間違えたな。」
私も同感かな。いやまあ、それはそれで需要がある気がするけど…。
「職業…、娼婦って職業なのか。」
職業だよ。メソポタミア文明からあった職業だよ。自然界にもある。
ボノボは食べ物とや毛づくろいの対価としてしてくれたりするんだよね。毛づくろいの対価って…。人間にしたらマッサージとか?だからマッサージ屋さんは…。これ以上はやめよう…、風評被害になりかねない。
「売る人がいて買う人がいる。本質的に同じだろう。」
そうそう。
「じゃあなんで警察は目の敵にしている…。」
「病気が社会全体に蔓延するのを防ぐには管理しないといけない。」
そうなんだよね…。
「僕は病気なんて持ってないぞ。」
「ああ、たとえ病気だとしても暴力を振るわれる理由にはならない。自分に任された管理能力が手に余ると、暴力を振るってまで自分を正当化する。嘆かわしいことだ。」
軍にいた経験で知っているのかな。
「知ってるなら…。僕のことだって…。」
「君一人を娼婦の立場から抜け出せるようにしたところで何になる?需要がある以上、供給は絶えない。アンダーソン夫人のところから逃げ出したのは君だよ。そこにいたら暴力からも身を守られただろう。」
「違う、そっちじゃない。そうなるのは仕方なかったんだから…、僕を勝手に落ちてるなんて言わないで…。」
今のちょっときゅんと来た。胸を押さえて悶える。
それはアランデールさんも同じだったみたいで、ジェイの首筋に口づけを…。ジェイも顔を赤くして艶っぽい声を出してる。
何だろう、この甘々な空気。果たしてこんなこと見ていていいものなのか。
けど目が離せない。だって面白いんだもん。映画でも見ているような感覚…。他人事だから…。
「ルミに見られたらどうする…。」
実は見てるんだよね…。
「子供はまだ寝てる時間だ。」
本業がメイドだよ。寝る時間じゃないって。
「もう朝だよ…。日が昇ってる。夜じゃないんだ。彼女を起こして、ご主人様のところへ帰すべきじゃないのか。」
最近じゃイザベラさんは私の帰宅時間のことで何か言うようなことはしないんだけどね。
アンナさんといちゃついているのに忙しいのかな。特にそう言った様子は見当たらないけど。
むしろ私が色々仕事を持ち込んでいるからと、配慮されてるような…。
「何がそんなに気になっている?昨晩寝かさなかったとでも言うのではないだろうな。」
うん?ちょっと雲行きが怪しくなってきたぞ。
「まだ子供だろ…。別に彼女をどうこうするつもりはないから。」
「彼女がただの子供に見えるのかい?」
いやいや、ただの子供でしょう。
「少し不思議ではあるけど、結構可愛いし…。」
ま、まあ、母が美人だからね。ちょっと可愛いかもしれない。
「愛しているだろう?」
息をのむ。さっきの質問と同じではあるけど、より濃密な空気の中ではずっと重い。ジェイはそれに少しためらってから答えた。
「友達として…。僕は彼女の兄みたいに思われているだろう。僕だってそのつもりだから…。」
その言い方だと私がジェイを兄のように思われることを前提にしてて…。まあ、可愛い弟か妹みたいな感じではあるんだけど。
「わかっているのかい?自分を男だと思いたいなら少女を友達として愛するのは説得力に欠ける。」
「彼女には世話になってるんだ。恩人をそんな目では見られるか。僕はそこまで落ちぶれちゃいない。」
「そういうところは好ましいと思っている。それは君とあう人間なら誰でも感じることだろう。君自身が持つ魅力が人を惹きつけたと思えばいい。」
「一体僕にどうしろと。」
「認めたらどうだ。君は男でいるより女の方が似合う。たかが髪を切ったくらいでその事実は変わらない。それとも初めての夜は忘れようとしているのかい。」
なるほど、そういう…。納得がいく。
「うるさい…。別に初めてだからと特別なことなんて何もないだろう…。何もかも知っている気になって…。」
「追い詰めたかったわけではない。だが、そう思われたなら謝ろう。」
優しいんだよね、アランデールさん。
「別に…。」
そしてアランデールさんが扉の隙間を見て、目が合った。そして満面の笑みを向けられる。
うん。
何となく二人が初対面ではない雰囲気はしてたから何かある気はしてたけど。
「失礼いたしました。」
扉を開いて覗いていたことを謝る。
「いや、違うんだ、ルミ。これは違うから…。」
ジェイは慌ててアランデールさんから離れて立ち上がる。
「大丈夫、気にしてないから。お邪魔しました、どうぞごゆっくり…。」
私が見ているだけではなかった。
アランデールさん、もしかして最初から気が付いていたのかな。見ている人は見られているということか…。
軍人を甘く見過ぎたかな。
いや、甘々な空気だったんだから、別に甘く見ても…。
そっちじゃないか。
何となく気まずい空気の中で朝食を取り、馬車でイザベラさんの屋敷へ。事情を説明するのでアランデールさんも一緒である。
ジェイは徒歩で帰って行った。
アランデールさんはこれでいいと言ったんだけど。
「何かあったんでしょうか。」
「ああ、彼女には彼女しかできない仕事がある。」
彼女、ね…。
それと娼婦の仕事を言っているような感じはしない。
「もしかしてジェイに何か危険な仕事をさせたわけではありませんか?」
「奴らは引き際を知っている。そうでないと今の地位にありつけなかったはず。」
奴らとはダービー兄弟のことを言っているのかな。
「ダービー兄弟のことでしょうか。」
「大金を手に入れた娼婦が手元にいたら見て見ぬふりが出来ると思うかい?」
敢えて泳がすと言うこと?
「本当にジェイが大丈夫と言う保障は…。」
「賭場で大きな金が動く分、警察も目を光らせている。勝手な真似は出来ないさ。」
うーん…。実はちょっと気掛かりがあるんだよね。
ジェイは言っていた。サイコパスに心当たりがあると。それは誰の事?ダービー兄弟のどっちかだとしたら、ジェイが無事だという保障なんて出来ないのでは…。
ひと段落ついたと思ったけど、まだまだ道半ばのようである。




