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8話 運命の重さ


 19世紀になる前にも新たな商品に対して、若しくは技術に対しての説明は多く行われていたけど、やはり19世紀になってからはその規模も違ってくる。

 例えばギネス認定で有名なギネスビールが、本社のあるアイルランドのダブリンで新技術を投入して生産量を拡大したのも19世紀になって間もないころ。

 投資家向けの説明会が行われるのである。

 多くの参加者たちが集まっては質疑応答が行われる。

 大した事業ではなくとも商品の説明は欠かせない。

 ただ説明するだけにとどまらず、観客を魅せるエンターテインメントとしての側面もあったんだけど。

 「だからと劇場まで借りられるのか…。それもこんなに大きなところを…。」

 ジェイからは思っていた以上のスケールだった模様。

 「知り合いのところなの。私がレッスンを受けてる場所。」

 私たちは舞台裏で幾人かの劇場のスタッフさんと共に準備をしている。メイクアップも私一人ではなく、特別にリチャードさんと兄妹関係を取り戻したマーガレットちゃんと一緒。

 相変わらずロンドンに似合わないのんびりしていて、どこか抜けた感じのする明るさを持つマーガレットちゃんだけど。印象と違って隠し事もちゃんと出来る都会人ではある。

 「そう、彼女は脚本も書けるし、歌も歌えるすごい子なんだよ。大事にしてあげてね。」

 ジェイの肩に手を載せて鏡越しに目を合わせて言うマーガレットちゃん。

 「お、おう…。」

 何を恥ずかしがってるんだか…。

 「緊張してる?」

 「少し。」

 「舞台に上がると言っても特にやることはないからね。」

 「うん、黙って座っていればいいんだろう?」

 「俳優になった気持ちが味わえるかもしれないよ。今から慣れておくのもいいかも。」

 「そんな都合のいい話がありえるとは思えないが。」

 「全然格好良くていいと思うけどね。」

 「アクセントのことが気掛かりなら練習して直せばいいんじゃない?」

 「直す…。」

 「別に間違っているということじゃないんだけど…。」

 「わかってる。気にするな。」

 そこから会話は途切れ、着々と準備が進んだ。

 劇場が商品のデモンストレーションをするには適した場所なのかと言うと…、全然いいのではないかな。

 何せ観客席と舞台との距離が結構近いのだ。最前列ならもう息遣いすら聞こえるくらい。

 この時代の劇場はそこまで見晴らしがいいわけではないんだけど。特に座席と座席の間にある斜面の傾斜角度が現代に比べたらかなり低くて。

 ロンドンとロンドン付近にはどの町へ行っても小さな劇場が必ずあって、階級に関係なく誰もが楽しむものだった。

 現代のテレビドラマとは比べ物にならない。

 劇が始まる前にジャグリングやらアクロバティックな動きをするなどの芸も行われていたし。

 劇が提供する話題についていくには見ないといけないという…、もはや義務に近い。

 文化の仕組みにおいてある意味最も重要と言えるのがあって。

 文化はコミュニケーションを可能とする手段であるという点。

 言葉は放っておくと勝手に発展して変形する。

 集落段位で生活していた時期はそれを気にしなくてもいいんだけど、大都会になってしまうと、知らない初対面の人間と話すのが当たり前となってくるんだから、どうしても通用する話し方を固定する必要が出てくる。

 そうなると娯楽がただの娯楽を越えて、言葉がどのように伝わるものかを実演して見せる場所を必要とするわけで。

 だから劇とは遊びの延長線上にあるものなんて軽く考えていたら、そもそも特定の状況で言葉をどうやって喋るのかもわからなくなるという状態に陥ってしまうという…。

 だから舞台と観客の距離はかなり近い状態で、少し角度を変えれば見えるようにして。

 人口密度がまだ低かった時代はそれでもよかった。

 それが徐々に劇場の規模が大きくなって、劇場に入る観客の数も増えて…。

 それなのにずっと学校の入学式みたいに前の人の頭と頭の間にある隙間から舞台を見上げるという形をしていたらどうなるかと。

 特に庶民向けの劇場は傾斜がほぼ存在しない場合が殆どで、それはエリザベス女王時代から19世紀初頭のジョージ王時代まで続いていたんだよね。

 これが深刻なまでの問題となったのは1809年にはコベントガーデンと言う名の劇場でのこと。

 需要が増えているからと安易にチケットの価格を上げたら、後ろの席では前が全然見えないと暴動が起きたのである。

 どの言葉とどの感覚がコミュニケーションに使われるのかを知るなんて、市民の義務に等しいということから、劇場はパブリックサービスでもあるという見解も多かったのである。

 しかもこの暴動を鎮圧するために劇場側はプロのボクシング選手まで雇ったんだよね。市民を殴り殺す気かと…。

 市民の燃え盛る怒りに油を注いだらどうなるか。

 最後は火をつけられて、そのまま全焼したのである。

 我々の怒りも赤く燃えてる、劇場も赤く燃えてる。

 ちなみにこのコベントガーデン、別に庶民向けと言うわけでもなかった。特等席がちゃんとあって。

 ちゃんとあったんだけど、劇場近くを娼婦がうろついていたと批判して特等席を利用し、劇場の価格上昇には目を瞑るという上流階級の態度はもはや見るに堪えない…。

 これを反省して、劇場が燃えた跡に新たな劇場を作る時はどこぞの公爵も莫大な金額を寄付したほど。

 そして新たに古代ギリシャのを模倣した傾斜のある劇場を作るようになったと。

 これで納得できる傾斜が出来るようにはなったかと言うと…、まあ…、少しね。

 全座席が上流階級向けの劇場でも傾斜はあったんだけど。

 どうしても傾斜を導入すると工事費用がかさむから。

 燃やされるよりはましでしょう、時代のトレンドですって。

 それでもまだ燃えることなくしぶとく残っていた劇場も多数。

 時代的な雰囲気と言うか、様式の違いもある。

 19世紀初頭は新古典主義、ヴィクトリア時代は、そのままヴィクトリアン様式。

 しかし丁度この時期では不況も相まって倒産する劇場が多く出ている。主に傾斜を採用してない前時代的な劇場。

 新たに劇場文化が栄える1850年代後半にはすべての劇場で設計の見直しが行われ、座席の配置だけ見ると現代と近い状態になったのである。

 現代では音響学による設計や照明器具の入る場所などもあるので、全く同じとは言えないんだけど。

 まだ古い劇場と言えるここは前の席と舞台との距離は少しあるにはあるけど、オーケストラが演奏する空間ね。

 だけど近いことに変わりはない。

 まあ…、私の出番はなかったけどね。

 材料の説明などは全部アランデールさんがやってて、舞台上でのフォローはマーガレットさんがやってて。商品の説明に子供がいると説得力が落ちそうだから、私は遠くで見守るだけ。

 そんな感じでデモンストレーションはトラブルなく無事終えることが出来た。

 ただ座ってるだけとは言ったけど、表情を変えた時や水に濡れた時などにどのようになるのかを見せる必要があったので、それで少しジェイの顔が…。

 だめだ、思い出したら笑っちゃいそう…。

 説明会だけに終わらず投資家からとの晩餐会も続けて行われた。

 当然と言うかリチャードさんも参加してるけど。未だにアランデールさんを苦手に思う模様。おかげで絡まれずに済んだ。顔を見るとちょっと気まずいんだよね。

 と言うわけで少し時間が遅くなったので、娼館に戻ろうとするジェイを引き留める。

 危険だから。

 何が危険って、こんな時間にうろついてたら警察に捕まって刑務所送りになってもおかしくない。普通は警察が守る側だけど…、ヴィクトリア時代のイギリスを生きるアイリッシュからしたら…。

 「そうは言うけど、じゃあどこで寝ればいいんだ。」

 アランデールさんを見ると。

 「俺の家でよければ。」

 「私も行きます。」

 そう言うと苦笑するアランデールさん。

 「レディ・イザベラにどう言い訳をするか考えないといけないな。」

 それで馬車に乗り揺られた。ジェイはモデルなのにアイリッシュが混ざると良くないと自分で言って、晩餐会にも片隅に座っていて、あまり疲れてないみたい。私も先に帰ることも出来たんだけど、残ってマーガレットちゃんと同席して…。

 建てられてからそんなに経ってないヴィクトリアン様式の邸宅。

 ガス灯より月明かりが似合うと思う。

 歩いていくと端正な顔の若い執事に出迎えられてリビングで夜のティータイム。

 ジェイは少し居心地悪そうにしている中、私はアランデールさんに質問をした。

 「使用人は何人いるんですか?」

 「メイドが四人、執事は二人。」

 優雅に紅茶を飲みながら答えるアランデールさん。

 「もう一人ここで雇っていただけませんか?」

 「それはルミ、君のことを言ってるのか。それとも…。」

 アランデールさんはジェイを見る。

 ジェイはため息をついた。

 「言っただろう、そこまでは望まない。今日も口座まで作ってもらって…。」

 それは私じゃなくアランデールさんがやったことだけど。

 「信用にたる人間だからと必ず信頼してもいい人間を好むということはないが。信頼し合う関係を見せつけられたら、その人物を詳しく知らなくても信頼しても問題ないと思える。」

 上流階級特有の長ったらしい言い回し…。簡単に要約すると、ジェイと信頼し合ってる私を信じてるということだよね。

 「じゃあ…。」

 期待を込めてアランデールさんの目を見てもその目は冷淡なままだった。

 「それはあくまで信頼に限っての話だ。仕事においてはどうなのかは仕事をしているところを信じるに足りる人間に監視させないとわからないものだ。それとも俺自身が見続けるか。」

 まあ…、インターンシップが必要だってことよね。

 「いや、僕はいい。」

 「じゃあ娼婦を続けるの?」

 「悪いか。」

 「悪いというか、誰もジェイを守ってくれないじゃん。何か起きたらどうなるの?客に殴られたらどうするの?天引きされてるのに全然わからなかったとか、考えたことない?」

 「じゃあどうすればいい?僕にはそれしかない、それしかわからない。それしかできない…。」

 「事情は知らないが、二人で話し合ってから俺に提案すべきだと思うが。今夜はゆっくり休んだらどうだ。疲れているだろう。」

 アランデールさんの言う通りかも…。ちょっと急ぎすぎたかな。

 体を洗ってからベッドで横になった。ジェイも隣にいる。ジェイは使用人部屋でいいと言ったけど、ジェイが使用人部屋なら私も使用人部屋と言って。

 するとそもそも客を使用人部屋で寝かせるわけがないと客室を使うことに。

 向かい合ってる。目が合って。特にドキドキすることはなく、笑うこともなく。ただ静かに心がざわめいていた。

 「ルミは、何がしたいんだ…。僕なんか気にして…。」

 「私もね、苦しい時があったの。辛くて、なんでこんな時代にあんなところで生まれたのか、何度も心が壊れそうになって。誰かが私を救ってくれないかなって、ずっと思ってたの。今はこんなに立派な邸宅に住む上流階級の人とも知り合えて。知り合ったというか、後見人になってもらってるんだけど。ジェイも同じでしょう、一人取り残されて、辛かったんでしょう?」

 「どうだろう…。僕はルミのように物知りではない。」

 「そんなの関係ない。大事なのは…。何だろう。運?」

 「なんだそれは。答えになってないだろう。」

 そう言ってジェイはクスクスと笑って、私もつられて笑う。

 「ジェイはどこで生まれたの?」

 「アイルランド。知ってるだろう。」

 「そうじゃなく、街の名前。」

 「ゴールウェイ。聞いたことある?」

 結構遠いところじゃない。さすがにアメリカの方が近いとまでは行かないけど、完全に西側の海岸部で、首都のダブリンと反対側にある街。

 「西側にある街なんだよね。」

 「ああ。あまり大きい町ではない。ロンドンに比べたら…、ただの田舎町さ。」

 「親は?」

 「父は建築をする職人で、母は役人の娘。」

 「結構いいところで生まれたんだね。」

 意外、と言うことはないかな。ジェイは割と教養があるので、ただの小作農や下層民の子供ではないとは思っていた。

 「ああ、だから十歳になるまで、僕は何もなくこれからも変わることのない人生が続くものだと思ってたよ。」

 「何があったの?」

 「母が病で亡くなってから母方の家からの支援がなくなって。母は手芸をする工房で会計の仕事もしていたんだ。入ってくるのが半減どころじゃない。身分が違うからと母の実家からは…、まあ…。」

 「身分が違うと色々あるよね。」

 「ああ。色々あったさ。父が稼ぐだけでは家族全員を養うなんて出来ない、学費もかかる。だから兄弟姉妹揃って働かないと行けなくなったんだ。」

 「学校へは行ってたんだよね。」

 「少し。神父の奴からも学んだ。」

 「神父さんと何かあったの?」

 「お前は…、ここでは聖堂に行く人間なんていないか…。触られることがある。色々…。」

 カトリック教会の少年に対する性犯罪ね…。世界中にあるんだよね。

 あれかな、ローマが北の蛮族を性犯罪みたいに彼らの精神を犯したんだから、それを神父が個人単位で無意識に再現しているとかかな。

 「何か言われた?」

 「より深い罪を背負って生まれた、神の失敗作だってさ。」

 なんて惨いことを…。

 「今もそう思ってるの?」

 「ルミから聞いた話が事実なら…、それほど珍しいものでもないんだろう?皆僕みたいに苦労しているのか。」

 まあ、なんと人口全体から見ると赤毛が生まれる確率の方が低いんだよね。

 「中にも色々あると思うけどね。近親相姦で確率が上がるんだけど、するとただの病気になってて。ジェイはそう言うのじゃないと思う。そうなると頭蓋骨がちょっと変わった形になるんだけど、ジェイはそうじゃないから。」

 そしてその場合は遺伝子疾患でもある。

 「なんでお前はそんなことを知ってるんだ…。天使にでも会って知識を授かったんじゃないんだろうな。」

 「会ったことない。それより兄弟たちはそのあとどうなったの?」

 変に追及されると交わしづらいので話を変える。

 「僕が学校を卒業して間もないころ、父も倒れて動けなくなった。体が動かない病。聖堂で見てあげていたんだけど、半年も経ったらもう…。」

 「学校はいつ卒業したの?」

 「十四歳のころだったかな。」

 「ジェイは、長女?」

 「一応、男として育ったんだけど。」

 だから男口調なのか。

 「じゃあ長男?」

 「上に兄がいる。生きているかどうかもわからないが…。」

 「孤児院には?入ってない?」

 「ああ、家があるから。叔父夫婦が管理してくれたんだ。それも兄が成人してからはしなくなったんだけど…、僕は父からも母からも特に何も貰ってない。兄は父の仕事を受け継いだけど、僕も、妹も弟たちも、何も貰ってないんだ。それでもどうにかしないといけない。あまり…、いい生活が出来ない。食うものには困らないけど、未来がない。ずっと働かないといけない。最初に一番大きな弟が家を出たんだ。運が良ければアメリカ行きの船に乗って、運が悪かったらオーストラリア行きの船に乗って。一人、また一人消えてゆく…。」

 なるほど、そんな事情が…。

 「全員一緒じゃなかったの?」

 「兄が一緒に行くのを許してくれないから、逃げるように出て行くしかない。家から出たら孤児院にすらいけない。もう孤児と言う年齢でもないからと。」

 この時代では21歳になると法的に自分で自分のことを決められるけど。一般的に十六歳で成人扱いである。

 「なんてジェイはイギリスに来たの?」

 「この体で、長い航海なんて出来ないから。誰に見られたらどうなるか。どう言われるか、どう思われるか…。」

 「ジェイは神の失敗作なんかじゃないよ。」

 「もっと早くそれが聞けたら…。」

 ジェイは静かに涙を流してて、私はそんなジェイをそっと抱きしめた。

 カーテン越しにうっすらと月明かりの入る部屋で、私たちは何かを言うこともなく運命と時代の重さを肌で感じていた。



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[一言] 更新お疲れ様です。 なかなか興味深い劇場の『傾斜』問題。 ルミと彼女を支援する人々によって次第に凍えた心が溶かされてゆくような感じのジェイ^^ 次回も楽しみにしています。
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