7話 階級社会に縛られないもの
二日が過ぎて、また集まって、化粧品を調合した。
一昨日の夕方までのこと、ただ顕微鏡を見ながら微生物の話をするのが目的だったわけではない。
化粧品の配合を試そうって話になってから、アランデールさんが実験室を用意して。
それで打ち合わせをする話になったんだけど、材料の一部が研究室に届く日時に記入間違いがあって、そのまま雑談をする流れになっていたのである。
どうせ暇なんでしょうなんて言われたら、確かにその通りかもしれない。
私なんて午前中しか仕事をしない。レッスンも休みたいと思えば休ませてくれる。お金もたくさん稼いだけど、それとは別に一階にそれなりに豪華な家具まで揃えられた一人部屋まで用意されてて。
もはやただのメイドとは言えない立場となっている気がしてならない。
入って半年しか経ってない新人メイドがここまでになるというのは、やはり異例中の異例なんだろう、メイド仲間たちから色々聞かされる。
特によそよそしいこともなく、妬まれることもなく。
普通に会話しているのである。
イギリスの階級社会は、生まれて死ぬまで守らないといけない秩序のような感じはしない。
階級社会の不文律は守らないといけないことではあるんだけど。
守らなかった場合は罰するのもまた人である。
階級社会のルールに服従する己の心などと言う抽象的なものから勝手に罪悪感を覚えるわけではない。
イギリスは古くから様々な勢力が行き来して、力関係が変わることなんて珍しいものでも何でもなかった。
比較的に最近だと清教徒革命、英語ではWars of the Three Kingdomsと言うんだけど、戦争自体は1653年に終わっているが、18世紀になってまで王位継承順をめぐっての政治的な争いが続いた。
政治的に全然安定してない。ナポレオン戦争が終わって数十年、それ以前はアメリカ独立戦争とかあったし。
だから立場なんてきっかけさえあればひっくり返されるものであると、皆して周知している。王様ですら例外じゃないんだから。
ただ立場が違うと責任が違う。
上のものは大きな責任を背負い、下のものはそれらを背負わなくてもいい。
重さを知らない立場から知っている人間に干渉するのは、単純に社会を動かす目的を達成するのに邪魔なのである。
邪魔をするなら容赦しない、社会を動かす力も自分にあるわけだから、それに反抗するなんて出来るわけがない。
動かされる側の人間も同じ。文句を言ったところであまり意味をなさないことを自分でも知っている。
それは秩序と言うより生態系に近い。
自然環境での動物が種族によって生き方が違うように。
だから近づけることが許されるという判断が先にあると、隔たりを感じることもなく接することが出来る。
ただ少しだけ、私を邪魔してはいけないと思われる感じはする。いじめとは違う。
前は集まって仕事をしましょうと言うことになったら、気軽に声をかけて私もそれに答えたんだけど。
今は仕事をしようとしてるんだけど、大丈夫なのかと一言尋ねられるようになって。少し寂しい気がしなくもない。だから新しく友達が出来たことに舞い上がってしまったのかな。
とまれここ最近、時間は有り余っているわけで。
上流階級の人間なんて、普段から何もせず思考に没頭するかただ遊んでいるか。
遥か昔、それこそ人類の黎明期から支配階級の立場の人間は、働く人間に比べて仕事量が比べ物にならないほど少ないのが当たり前。
それとも遊ぶのも仕事のうちなのかな。
忙しそうに書類仕事をしているなんて、事業を引き起こした段階や何かしらの大きな案件がある場合でないと…。それと戦争に動員されるとか。
学者なら論文の執筆などに使う時間とか、大学の教授なら生徒たちのレポートを読む時間とか、普通に論文や本を読むとか?
そもそも学者は支配階級でも何でもないんだけど。支配階級が学者をやるのが少なくないだけで。
それもずっとやってるわけじゃない。
研究に集中したい人なら忙しくてたまらないかもしれないけど。
ジョン・スノウさんは冬に予定されている卒業までは結構暇なようで。好きな研究をしていたんだとか。
それらの忙しいことがない時間を他人と共有することは、そんなに珍しいものでも何でもない。
しかもスケジュールが空けておいたから、やることもなくて。
それで座ってだべってるだけだったんだよね。
ヒッピーじゃないんだから…。
ギターでフォークソングを演奏して、そしてせっかく男と女だからとラブ&ピース的な感覚でセ…。
しかし今日こそ化粧品の調合である。
化粧品の調合と言うと恐ろしく複雑そうな気がするけど、そうでもない。
香辛料を少し多めに使うだけ。
クローブパウダー、シナモンパウダー、小麦粉。これでファンデーションを調合できる。
冗談じゃなく、実際にこの粉の入った容器をいくつか用意し、圧着する道具を持ち歩いた時代もあった。それでファンデーションが崩れるとその時その時ハンドバッグから取り出して、圧着してファンデーションを塗るという。
その前に、植物油と蜜蝋、羊が分泌するラノリンと言う油を配合してクリームを作って。
それより前に、蜂蜜とお酢と水で化粧水を作る。
さらに前に…、いや、さすがにこれで終わり。
娼館にいた頃は香辛料なんて高いからとほぼ小麦粉だけにして、クリームも植物油だけ使ってたんだけど。
せっかく色んな材料が使える環境になったんだから、使わないと。
実際に20世紀も半ばぐらいまではこの手の化粧品が多く使われていたんだよね。化学合成で作れる物質のレシピとか実験した回数とか、何もかも足りなかったので。
最初にアルコールを使って顔を綺麗にして、化粧水とクリームを塗って、調合したファンデーションを続けて塗る。
口紅はビーツの粉末と植物油とラノリン、蜜蠟を混ぜて作る。
すると鮮明な赤が出来上がる。
アイライナーには口紅に使う材料と同じで、ビーツの代わりにココアパウダーを使う。
比率を繊細に調整して、一番いい出来になるように。
三人で熱心に化粧品を調合した。毎回出来上がるたびにキャンバスに塗って出来を確認して。結構楽しい。
それから一週間後、デモンストレーションを行うことになったんだけど。
化粧品産業に関わる専門家や企業家たちを集めて。
モデルが必要だったので。
ジェイが働く娼館をまた訪問したわけである。午後の紅茶が終わった時間に、今度は外でアランデールさんも待ってる。警察まで連れてきて…、とにかく何かされる心配はない。
それで今度はジェイのいる部屋にノックをする。
「誰だ。」
いたんだね。
「私だよ。」
返事を待たずにドアを開ける。ちょっと礼儀に反するけど、仕方ない。
「こんにちは。」
笑顔で挨拶するけど返事がない。ジェイは立ち上がって固まっている。今日は男のものの服を着ている。
聞こえなかったわけでもないと思うけど。
しばらく無言で見つめ合う。私は笑顔のまま、ジェイは目を丸くしてから笑顔を作ろうとして失敗して…、ああちょっと変顔になっている気が。笑っちゃいそう。
「ああ…、こんにちは…。」
最終的に呆れた顔で見つめられる。
「久しぶり。元気だった?目標金額まで近づいている?天引きされてない?嫌な客とかいなかった?刺されてない?」
考える暇を与えないように勢いを載せて矢継ぎ早に質問をする。
「見ての通り元気だよ。ルミよりは元気じゃないかもしれないが…。天引きとかはない。客なんてほぼ話すだけだから。それに刺されるって、誰にだ。」
訝しげな表情のジェイ。眉をへの字に曲げたままなのが可愛い。
「サイコパスとか?」
「なんだそれは。」
「共感能力が低く、人を自分が使う道具としか見れない人間をそう言うんだけど。思い当たる人とかいない?」
別にサイコパスだからと必ず刺しまくるとかはないんだけど。
「いるけど、その人に刺されるようなことはしてないぞ。」
いるんかい。
「その人から離れた方がいいよ。絶対刺されるって。」
「根拠はあるのか…。それより、こんなところに来てはいけないって言っただろう。それともなんだ、僕にお金でも渡しに来たのか。」
「ある意味正解かな。」
金になる仕事を持ってきたので。別の候補とかもいたんだけど、彼女たちはまた他にも色々あるんだから、カジノ事業とか。
メイド仲間は、普通に高い給料もらって生活しているんだからそんなにお金に困っているようには見えなくて。
「気持ちはありがたいが、僕はお前に依存したいわけではない。ペットが欲しいわけじゃないんだろう?」
「違うから。人間をペットに出来るわけないじゃん。仕事を提案しに来たの。」
人間をペットにする性的趣向が一瞬だけ思い浮かんだけど、考えないようにする。私はしないから。
「仕事?」
「うん、ただ座ってるだけでいいの仕事。」
「なんだそれは、店番でもするのか。」
少し乗り気のように見える。店番だったら喜んでするのかな。
「モデルって聞いたことある?」
「は…、裸になれと?」
うん?裸?
「そうじゃなくて。いや、なんでモデルイコール裸なの。」
「裸にして絵を描くだろう。」
ああ…、画家とかが訪問したことがあるのかな。
「それは裸婦画のモデル。そっちじゃなくて、化粧品のモデルだから。」
「化粧品?」
「うん、今使ってる化粧品、あまり体に良くないものなんだよ。だから天然素材で、食べてもいい化粧品。」
だからと食べるとちょっと勿体ないけど。香辛料だし。香辛料のためだけに植民地を増やしたと言っても過言ではない。そのくせそれを食べるのはほぼ上流階級だけってどうかしてる気がするけど。
農家とかは豚の頭とか塩と生姜を入れて食べるんだよね。豚!の頭!コラーゲンがたっぷりです。
「食べるのか。」
「食べるためじゃなくて、化粧品に食べてもいい材料を使うだけなの。それで化粧をして、座ってるだけでいい。」
「誰に見せるんだ?絵を描くのか?」
化粧して絵を描く、それもいいかもしれないけど、この時代って写真あるし。
ずっと一つの姿勢でいないといけないんだけどね。まだ初期段階の技術なので、値段も高く画質も悪いはず。だからまだこの時代までは肖像画が主流だったという。
「化粧品を作る人たちとかに見せるの。」
「それなら僕じゃなくてもいいだろう。」
「いやなの?」
ジェイは振り向いて自分の後ろにある窓ガラスを見つめて、自信なさげに視線を落とした。窓ガラスに映った自分の顔を見ていたのかな。
「見せるのがお前だけなら考えなくもない。」
そう言われると嬉しくはあるんだけど。
「たくさんお金がもらえるよ?」
「金額は重要じゃない…。たくさんの人に見られて…、見世物にされろって?」
別にサーカスじゃないんだけど。
「大丈夫だよ。ジェイは綺麗だから。」
「嘘つけ。」
ふふっと笑うとジェイも釣られて笑った。
「嘘じゃないんだって。ジェイは今まで見てきた人たちの中でも綺麗な方なの。」
「じゃあどれくらい綺麗なのか言ってみて。」
「ギリシャの彫刻みたいに綺麗。」
「見たことない。」
「ギリシャでは一番綺麗な部位を持つモデルをたくさん集めて、その部位を反映させた彫刻を作ってたの。ふくらはぎは誰が綺麗、鎖骨は誰が綺麗とか、そんな感じで。理想的な美を詰め込んだってこと。ジェイもそんな感じするよ。」
「褒めすぎだから…。」
赤くなってる。
「だからね?そんな綺麗なジェイだからする提案なの。同情でも施しでもないんだから。」
「わかった…。どこへ行けばいい?それと僕は何か喋らないといけないわけではないんだよな?」
「何も喋らなくてもいい。ついてきて。」
階段を降りるとアランデールさんがロビーで待っていた。
この前私を威嚇してきた大柄の男性が苦虫を嚙み潰したような顔でこっちを凝視している。
「無事説得できたようだな。」
アランデールさんの言葉に頷いて答える。
「はい、彼がジェイです。」
ジェイは一瞬アランデールを見てから呆けた顔をして、堂々と挨拶をした。
「ジェイと言う。よろしく。」
アランデールさんは軽く頷いてからジェイの顎に手を伸ばしてくいっとした。アランデールさんは革製の手袋をしている。
何をするのかな…。品定め?
すると傷跡を確認するように動かしながらあっちこっちを見たのである。
「何が原因でこんなことになっているか聞かせてくれるか。」
「関係ないだろう。」
「それを決めるのはお前ではない。」
ジェイはあまりいい気分ではなかったようでしかめっ面。
まあ…、階級社会だもんね…。
「警察に…。」
「奴らは薄給で使われてるのが殆どだ。気を付けた方がいい。」
「言われなくとも…。」
馬車に乗ってジェイと並んで座る。
出発してからもアランデールさんがジェイに話しかけた。
「その恰好で男性の客を受けるのはやめた方がいい。イギリスで男性同士の性交渉は処刑にまでつながる案件だ。」
「余計なお世話…。」
ジェイはそれに小さくつぶやく。
ここで私が、さっきからなんでジェイにそんなにきつく当たるんですか、なんて抗議をするのも、逆にジェイにアランデールさんにもっと礼儀正しくするようにと言い聞かせるのも、賢明な判断には思えなかった。
自分の方が例外で、一般的にはこれも相当ましな方だろう、アランデールさんはジェイに理性的な態度で話をしているし、殴ってもないんだから。
それでもフォローくらいはしたいと思ったので。
「ごめんね、嫌な思いをさせて…。」
ジェイの手を握ってそういったら。
「お前が謝るようなことじゃない。」
ジェイは顔は私と反対側の窓の方へ向けたまま、手を握り返してくれた。
アランデールさんを見ると興味深そうに見ている。
「ルミ、ウィリアム・ブレイクが自分の詩で天使をどう語っていたのか知っているかい。」
「対価を求めず、自分の期待と要求で他人を縛らない純粋な愛を体現する…。」
そう返事をしたらアランデールさんは満足げな笑顔で私を見て頷いた。
ジェイまでこっちを見て納得しているような顔をしてる。
なんだなんだ、私は天使なんかじゃないぞ。功利主義なだけだから。終わり良ければ総て良しとかそれくらいの価値観で生きているだけだから。




