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6話 真実に近づくために必要な姿勢

 私は今いつもの紫色のドレス姿でラボ、実験室にいる。昼過ぎ、ロンドンの空は珍しく快晴である。

 大学ではなく、大学近くにアランデールさんが個人的に用意した実験室。

 この時代の実験室と言うとガラスだけではなく金属の容器も多く使っていて、それらが並ぶ光景は錬金術師の工房を連想させる。

 ヴィクトリア時代は発明の時代でもあった。主に工学的な面での新たな発明が行われいて、今になってはイギリス人があまり使ってないジャガイモを潰す単純な道具から農作業に使われるものまで、工学での発明が相次いだのである。

 実際に住んでみると、複雑な仕掛け装置も多いことからスチームパンク時代を生きているように思えてくるのである。

 20世紀初頭までは古典的な動力源も広く使われていて、農村には牛の代わりに足の太い農業用に改良された馬が畑を耕していたり、水車の動力で鎌などの農機具を鋭く維持したり。

 イギリス全域が工学に彩られて行く。産業革命の本質はこれにある気がする。

 じゃあ実験室では何をするのかと言うと、主に化学である。

 化学者と言えばラボアジエが有名だけど、彼は18世紀の人物。それより時間が経った19世紀には化学分野での発展もかなり進み、実験も頻繁に行われるようになった。

 科学実験と化学実験が同一視されるのもこの時代の産物と言える。

 フラスコとビーカーが並ぶ科学研究室でぼさぼさな髪をした科学者が怪しい液体を配合する、なんて。

 実際はそんな得体の知れない配合よりは計測の方が主に行われていて、特定の状況下での結果を引き出し式を確立させることこそ科学発展に繋がるという考えを持っていた。

 ここで何が発見されたのかと言うと、主に分子と今まで知らなかった元素の存在、そしてそれにまつわる法則性である。

 お砂糖がグルコースであることとか、ナトリウムやカリウムと言う金属の存在も19世紀に発見された。

 科学分野にかかわる人は化学にもかかわるのは当たり前。

 だからジョン・スノウさんからしたらこれは意外にも意外と言うことだったんだと思う。

 「微生物には微生物が持つ独自の法則がある、実験結果から考えるにそうとしか思えないのだが…。」

 ジョン・スノウさんは良く通る落ち着いた声で淡々と語る人で、表情は誰を相手にしても殆ど変わらない。特に私だけに無表情なわけではないみたい。

 彼の視線は顕微鏡に固定していた。私は彼の隣にある椅子に座っている。

 アランデールさんは本棚の前にある椅子に座って化学の本を読んでいる。ちょっと遠い。

 最初はあまり直接私と語ろうとしなかったジョン・スノウさん。嫌われているとか、遠ざかってほしいなんてことは感じない。名前では呼んでくれないけど。

 「はい、中には毒物を生み出す微生物も存在すると思います。法則性がないと特定の物質を作り出すこともしないでしょう。」

 「それはつまり、微生物そのものが直接働きかけるような形ではなく、毒を分泌することによると?」

 「直接働きかけた結果、毒を作ることになるのかもしれません。」

 実際の感染症も細胞の中に浸透したり、体内にコロニーを作ることから始まる。細胞の機能を一部乗っ取り、栄養を取り入れて毒を生成する。

 つまり感染が先で、毒の生成はいわば最終段階。

 「その根拠は何かな。」

 「チーズと発酵中のお酒からも多くの微生物があるのは確認できましたよね。そこには同じ毒物は発生しませんでした。ただ実際に働きかける類の微生物も存在すると思います。」

 チーズとお酒の発酵を観察している。発酵食品が危険だと思われるのは避けないといけないから。下手に微生物の危険性だけを広めて発酵食品を食べなくなったら大変だし。

 「単純に微生物の種類が違うことも考えられる。」

 まあ、間違ってはいないと言うか…。さすがの有能な科学者が持つ鋭さと言うか…。

 ただ現時点でその差を明確に証明するのは難しい。単純に見た目…、そんな見た目が特徴的なわけではない。

 真ん丸な形をしているのは皆同じ括りにされるとか。

 同じ微生物でも環境によっては色や形が違う場合がある。顕微鏡の倍率もそこまで高くないんだから確実性に欠ける。

 じゃあ新しく倍率の高い顕微鏡を開発して…。それで生物の仕組みまで究明する…。いやいや、そこまでするには時間がかかりすぎる。

 十年や二十年で出来るものでもなければ、微生物学にリソースを割くような雰囲気でもない。

 蒸気機関による輸送網を充実させたことは工業の拡大につながった。分業化が進み、工学的設計が広く使われるようになって。工学の発展に方向性を示すのが化学である。どんな物質をどう加工すればいいのかに関しての知識を提供してくれるから。

 つまり産業革命期に自然科学は微生物学などではなく化学に向かうのが当たり前。

 それ以外の可能性なんて、それこそ世界中から石炭が採集できなくなるとか、そんな意味不明な状況じゃなければ実現できないと思う。

 私は何も言えないままこれらのことをしばらく考えていた。

 「君の考えをただ否定したいわけではない。すべての可能性を考えないと真実にはたどり着けない、そう信じているんだ。だが…、君は特殊だな。今まで出会った女性や子供は君のように冷静に事象を分析することはしなかった。」

 顕微鏡から私へと視線を移し、目を合わせて語るジョン・スノウさん。

 女性は感情的な存在とでも言いたいのかな。

 「教育の機会が均等に与えられなかった弊害かと。」

 「なら君はどうやって合理的で科学的思考を持つようになったのかな。今までの実験に対する提案はすべて理にかなっているものだった。実験結果を無理やり書き換えるようなこともしない。」

 確かに科学的思考は学ばないと出来ないものである。

 人間はコミュニケーション能力に多くのリソースを割いていて、それでも相手が誤解をするのではないかと言う不安に苛まれる。

 女性は男性よりコミュニケーションの部分でリソースを使うようになりがちなのである。そう社会のルールで決めているから。男性が物事を決めることを邪魔しないように決めているから、コミュニケーション能力の向上にリソースを使うという。

 その事実に気が付いてから意識的に自分の在り方を変えようとしたって限界がある。

 実際にそういう環境で育った経験がないと、科学者で研究者の女性を尊重する環境にいた経験がないと難しいことなのかもしれない。

 イザベラさんは結構冷静に物事を見ているような気がするけど…。今更だけど彼女も結構特殊な人な気が…。

 「いいご主人様に出会えたので。」

 だからかそんな言葉がぽろっと出る。

 「若い女伯爵だと聞いたが…、いや、何でもない。知らない人のことを勝手に言うのは礼儀に反する。君は…、ルミと言ったかな。」

 「はい。」

 ジョン・スノウさんは恐る恐る手を伸ばして私の頭を撫でた。何だろう…、なぜこんなことになっているのかな…。

 ニッコリ笑って見せる。顔をそらされた。ちょっと赤くなってる。手はしばらくそのまま撫で続けていたんだけど…。

 それからは危険な微生物に対してのジョン・スノウさんの考察を聞いて、彼の思考を出来るだけ生産性のある方向へ誘導することの繰り返しだった。

 そろそろ夕方になろうとしているころジョン・スノウさんと別れ、アランデールさんと帰りの馬車に向かい合って座る。

 「ルミ、彼との会話は有意義だったかい。」

 「はい、とても。関係ないことを聞いてもよろしいでしょうか。」

 「何でもとは言えないが、俺に答えらえるものなら。」

 「ありがとうございます。カムデン・タウンの犯罪組織を捜査するようにレディ・イザベラに頼まれて、それを受け入れたんでしょうか。」

 「どう思うかい?」

 「もしかしてアランデールさんの方から先にお嬢様にご提案なされたんでしょうか。」

 「そうだな、南の住宅街を開発するにあたり、ギャングとの接触は幾度かあった。土地にはそこを仕切る表立った有力者がいない場合、大抵は半ば犯罪紛いなことも平然としている人間が現れ支配者となる。表立ったものと後ろにいるものが共存する場合も稀にあるが…。」

 アランデールさんはそう言い背もたれから私の方へ体を傾けて指を軽く組んで続ける。

 「アイリッシュの組織犯罪は常に警察からの監視の対象だった。北に拠点を置いて、南まで広まっている。連中を仕切る親玉がいるのはカムデン・タウンだとわかってはいる。だが彼はなかなか尻尾を出さない。表向きは事業主だ。警察が動くことも出来ない。」

 まあ、ヴィクトリア時代は薄給で巨大な警察組織を作って動かしていたんだよね。

 自由放任主義体制をよく夜警国家として語られるけど、実際にこん棒とベルを所持した多くの警察が町のいたるところに配置されパトロールしていた。

 治安維持の名目で捜査の権限や範囲は生活の深いところまで踏み込んでいた。特に下層民と移民は隅々まで把握していて、それで病気にかかった娼婦を、それが性病だと確証があるわけでもないの牢屋に入れたり、それなりの役割を果たしていたのである。

 「アイルランド人も保護対象に入るのでしょうか。」

 「場合による。労働者は疑わしいと通報するだけで警察が動くが、事業主ならどの国の人間でも守るだろう。それがたとえろくでもない人間であろうと。」

 アランデールさんの目は鋭く虚空を睨んでいた。

 「彼と接触をするおつもりでしょうか。」

 ただアイリッシュのギャングが南にどれほど広まっているか知りたいだけ、なんて理由ではなさそうだけど。普通に警察にもコネがありそうだし。

 「できれば排除しておきたいと思っている。」

 そんな物騒な…。

 「何か不都合なことでもあるんでしょうか…。」

 「彼はいくつも賭場を所有しているんだ。」

 ライバルと言うこと?

 「どんなことをしているんですか?」

 「君に聞かせるようなものではない。」

 「犬を使って他の動物を殺すことなら知ってます。」

 そういうとアランデールさんはくくっと笑った。

 あたりかな。

 「そういえば君は東ロンドンで住んでいたね。文明が血に飢えるのはあまり良くない傾向だ。ローマは滅びに向かう現実から目をそらすために剣闘士の血を流すことを是とした。賭博にも品位がある。そのような野蛮なものをいつまでも続かせるわけにはいかないだろう。」

 単純に正義を求める心で動いているわけではないけど…、何だろう、社会全体の健全な繁栄を考えているのかな。格好いい。

 「具体的にどのようにするのでしょう?」

 「できれば警察が動くような証拠や手がかりを見つけたいところだが…。」

 それが出来なかったら…、アランデールさん、強いんだよね…。いやいや、さすがに殺すことはしないと思うけど。

 「彼の名前は何と言うんでしょう?」

 「ウィリアム・ダフィー。」

 聞いたことない名前である。

 「何か通り名のようなものはあるんでしょうか。」

 「小さい方のダービーと呼ばれている。」

 本名がダービーではなくダフィーだったんかい。

 「ダービー兄弟?」

 「聞いたことあるのかい。」

 つまり、ジェイってギャングの中でもかなり上の方の人間に使われるってこと。

 「はい、大きい方のダービーはどのようなことをしているんでしょう?」

 「宿屋を経営している。」

 うん、娼館ね。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 再開が嬉しすぎて一人小踊り [一言] 応援しています。 でも、無理はなさらないでください。
[一言] 更新お疲れ様です。 共同研究者の追及もイザベルさんに丸投げ(^^;; ジェイの周辺事情もだんだん分かり・・・・ 次回も楽しみにしています。
[一言] >ヴィクトリア時代は発明の時代でもあった サイエンス・フィクションが確立したのもヴィクトリア時代だったかな、と宇宙戦争(のコミック版)を読んでて思いました
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