番外編 彼女は時をかける
ファンタジーよりSFが好きで…。
イザベラさんに横抱きされて階段を上がる。思ったより力強いことにびっくりである。まだ子供には見えるけど、背丈は同年代でも高い方なのに。
と言うかここまでしなくてもいいと思うけど…。
どこにも逃げませんって。
「風邪をひくかも知れないでしょう?」
経験上それはないことはわかってはいるんだけど、反抗して何になるわけでもなかったので従うことにする。
そのまま二階の、主人が使う浴室まで行って風呂に入れられる。座り込んでいるのを窓から見ていたんだってね…。
暖かい水を準備して、準備が終わった時点で私を呼んだんだと。なんでそんなややこしいことを…。メイドの仲間たちにも申し訳ない。
「ただ心配しただけだと伝えるのは罰にならないでしょう?」
そんな気持ちが私の中に芽生えることも見込んでのことなら確かに効果的な罰かもしれない。
それでメイド仲間ではなくイザベラさんに裸にひん剥かれた私は風呂に入れられ、イザベラさんは浴室の向かい側にある、化粧台前の椅子に座って聞いてきた。
「何があったのかしら。こんな時間まで主人を待たせるからにはそれ相応の理由があるんでしょうね。」
「ある少年と知り合いになったんですけど、彼と今日も逢うと約束したんです。」
「最近帰りが遅くなったのは逢引をしていたからなのね。」
訂正したら言い訳がましくなる気がしたのでそのままにした。その誤解を解けなかったことを死ぬほど後悔するようになるとは、この時には思えなかったのである。
「はい、勝手なことをしてすみません。」
「いいわ、あなたも一人の女だもの。いずれそうなる時期も来るとは思っていたけど大分早かったようね。それで、その惚れた相手に振られて傷心でもしているのかしら。」
割とすんなり受け入れられることにびっくりする。もっと反対されるかと思ったんだけど。
「彼に言ってはいけないことを言った気がして…。」
「何を言ったの?」
「カトリックは噓っぱちだと言いました。彼はアイリッシュで、カトリック信徒だったんですけど…。」
「らしくないわね。喧嘩でもしたのかしら。」
「話の流れでつい…。」
「そう…、宗教のことを直接言うのは避けた方がいいわ。あなたのような…、特殊な考えを持っているなら特に。それにしてもアイルランド貴族が来てるなんて話は聞いてないんだけど…、どこの子かしら。」
「私と同じ下層民出身ではないかと。」
そう言った瞬間、イザベラさんの目がすっと細められる。
「だったら忘れなさいな。どこにでも転がってる野良猫みたいなものに情が移るなんて、やはりあなたもまだまだ子供ね。」
確かに私の言い方は誤解を招くようなものだったかもしれないけど、その言い方はないと思う。
「彼には親兄弟もおりません。一人いる仲間も捕まって、私と出会わなかったらどうなっていたか…。」
「親兄弟のいない下層民なんてどこにでも転がっているものよ。自分をもっと大事にしなさい。あなたは野良猫なんかに人生を預けるような人間ではないの。わからないかしら。」
カッとなって立ち上がる。
「ふざけないでください…。あなたのような何もかも持って生まれた人間が私たちの気持ちの何がわかると言うんですか!」
しまったと思ったのも束の間、イザベラさんは一瞬悲しそうな眼をした後また凛とした顔に戻って言った。
「今のは聞かなかったことにするわ、少し疲れているようね。今夜はゆっくり休んで、何か必要なことがあったらテイラー夫人に言いなさいな。」
イザベラさんが浴室から出て行き、静寂が訪れた。
「何をやっているんだろう…、私。自分を大切にしてくれる人を傷つけて…。」
外から足音がして浴室のドアが静かに開けられた。アンナさんが心配そうな顔で立っている。
「何があったの?」
「いえ、あの…。イザベラさんに謝らないといけないんですけど…。」
「謝っても一度傷つけてしまったら元に戻すなんて出来ない、だから私は離婚までしてるのよ。あなたがそれをわかっていなかったとは思わなかったわ。」
あちゃ…、アンナさんに嫌われちゃったのかな。
「申し訳なく…。」
「主人のやさしさに付けこむのはどうかと思うわ。あなたはもっと思慮深い子だと思っていたんだけど…。」
何も言えない。自分でもどうかしていた。
それからのこと。
アイルランド内で麦と小麦の栽培は順調に増え、アイルランド飢饉は史実よりずっと小規模に収まった。
私が設計にかかわったカジノも繁盛して、幾分か健全な(?)賭博も作ったものだからそれで雰囲気も良くなり評判は上々。
お風呂場での一言からイザベラさんとはすっかり疎遠になってしまった。一応、レディースメイドのような扱いではあったんだけど、事務的な会話しかしなくなって、心のこもった言葉を交わすことはもうなくなっていた。
数年の年月が過ぎ、劇場で女優としてのデビューを果たした。自分が書いた脚本で主演を演じるなんて、とても新鮮な経験だったのである。新たに書いた脚本もまた大成功。純粋に客を楽しませることだけを考えたのが功を奏したようである。リチャードさんと初めての共同作業だったんだけど、一気に距離が近くなってしまった。成り行きで色々と、それはもう色々とあったのである。
当然の流れと言うべきか、リチャードさんに押し負けてしまい彼と結婚した。
するとイザベラさんの屋敷からは出るしかない。もう貴婦人の仲間入りである。
母には郊外に小さな農場が付いた屋敷を買ってあげた。母もいつ知り合ったのか学校の先生と結婚して幸せに暮らしている。弟も無事一人生まれた。
貴族の生活は思っていたよりずっと質素で、妬み嫉みなんてものよりタメになる話をする機会が多かった。
消費は激しいけど特別に何か派手なことをしながら生きているわけではない。
まあ、昔の人間なんてこんなものだよね…、銀幕があるわけでもない、豪華客船とかもない。
そして舞踏会でイザベラさんと再会した時のこと、初めて彼女が持つ威圧感を正面からぶつけられた。
今になって知る。
サドルトン家は代々司法高官を輩出していた。
検察官とかそういう…。イザベラさんもその辺の知識と知り合いが結構多いらしい。
「主人の友から夫を寝取った泥棒猫じゃないの。」
なんて言われる。
ちょっと笑ってしまった。いや、間違ってないけど、間違ってない分、自分が意図しないこととは言え自覚はあったのに直接言われたものだから。
周りはぎょっとしていたんだけど、私は嬉しかったのである。
「はい、泥棒猫のルミにございます。」
そう答えた時、イザベラさんは悲しそうな顔をしていた。
それを見た私も胸がチクリと痛む。
イザベラさんはまだ結婚しておらず、社交界では少し変人扱いされていて。影響力は過去よりずっと劣るみたいだったんだけど、それでも私には変わらないお嬢様で…。
「そんなに遜ると品位が疑われるわよ。堂々と言い返すくらいしなさいな。」
「ルミにはいつまでもお優しいご主人様ですから。」
「馬鹿な子…。」
苦笑するイザベラさんの手を握る。振りほどかれることなく握り返された。
昔の私はずっと小さかったのに、今は指の長さなんてほぼ同じ。
それから手紙を送りあう仲にまでは戻ったんだけど、昔のようにはいかないものだったけど、互いの傷はある程度癒えた気がするし…。うん、まあ…、悪くない…。
アンナさんとの関係はそれに反して途轍もなく悪化していた。
目が合ったら睨まれるほど。彼女は今度は正義感の強い貴族男性と再婚し、仲睦まじく暮らしているようで…。
私が前のDV夫であるリチャードさんと再婚までしちゃったわけだから、もはやただの敵扱いである。あの優しかったアンナさんはどこへ…。
他の貴婦人たちからは身分違いの恋であるとロマンス扱いをされてて、嫌がらせを受けるとか仲間外れにされることはなかったんだけど。品位のかける成金のように見えたらたまったものじゃないから、私は勝ち組ですよ、とか自慢するわけがない。
それとも『メイド少女ヴィオラ』のおかげ?
リチャードさんはアンナさんと言う前例があったためか、私には終始優しかった。
殴られそうになったら殴り返してやろうと思ってたんだけど、そうなることはなかく、甘々な言葉を耳元でささやかれて私も心もふにゃふにゃ状態である。
見た目もよくて楽器を扱う繊細な指を持ってて…。年の差はあるけど悪くないというか、私には勿体ない気がしなくもない。
アランデールさんとは良きビジネスパートナーとなった。成人してから彼と浮気しそうになったこともあったけど、我慢した。未だに再婚しない理由がわからない。
アランデールさんとの事業はリチャードさんの許可をもらっての形にはなってたけど、制限をされることはなかった。
同時に自分の名前で科学分野での論文をいくつも発表し、私は歴史に名を残すことになった。
そして十六歳になった時のこと、北側にあるアイリッシュが多く住む町で殺人事件が起きたことを知った。
犯人は捕まっておらず、死んだのは一人の娼婦。
名前はただジェインと書かれていて、イラストの顔には見覚えがあった。
娼婦で傷跡の場所なんてジェイと同じだったから、人違いと言う線はない。
そっか、ジェイって女の子だったんだね。
ならなぜ男の子みたいな恰好をしていたんだろう。わからない、わからないけど、無性にやるせない気持ちになっていた。
悪いことは立て続けに起きるものであると誰が言ったのか。
ジェイの死から数か月後、イザベラさんがヴィクトリア女王の暗殺を阻止しようとして、銃に撃たれ亡くなった。
それを知った時、私の目の前は真っ白になった。
食欲もなくして、泣いてばかり過ごした。リチャードさんに慰めてもらっても気持ちは晴れない。
一体どこから間違っていたんだろう。
こんなはずじゃなかった。もっと私がしっかりしていれば…。
お腹には子供もいる。安静にしなくちゃ。
そう思っても沈んだ気持ちはどうしようもできない。
ある日の昼下がり、体調がすぐれず昼寝をしていた時のこと。
夢を見たのである。ある若い女性の夢。
彼女は将来有望な科学者で、量子のもつれと言う現象を研究していた。
量子のもつれとは素粒子同士が繋がった場合、それがどこまで離れた場所にあるものだとしてもリンクする現象のことを言う。
そして彼女はその量子のもつれがただ空間だけではなく時間までも遡って繋がれることを知る。具体的に証明をしようと論文を書いている途中のこと、彼氏に振られてしまった。研究三昧で恋人との時間を使ってなかったから?わからない。
ただ彼女は、きっとマッドサイエンティストの類に入っていたのであろう、自分自身を対象に実験をすることにも迷いがなかった。
量子のもつれを利用して過去に意識だけ飛ばすなんて出来るのかなんて、荒唐無稽なことを考えて、実際に量子のもつれを利用してリンクを作る。
無限に広がる空間には粒子がため込む情報にあふれている。
ピンポイントで人間の意識を特定の時間に飛ばすなんて出来やしないと思いながらも、別に失敗しても死ぬことで終わるからそれでいいと。
しかもこれに留まらず、せっかくだからとジャンク遺伝子まで量子の場でリンクして全部活性化するようにしたら超人になるんじゃない?なんて荒唐無稽なことまで考えていた。
ジャンク遺伝子と言うのは持ってるだけでどこに使えるものでも活性化できるものでもない遺伝子の束のことを言う。玉ねぎなんて人間より12倍も遺伝子を持ってるのに殆どジャンクなのでただの玉ねぎになってる。人が持つジャンク遺伝子もそれなりの量で、それを活性化するには量子単位での刺激が必要だった。
意識を過去に飛ばす時のエネルギーによりジャンク遺伝子の活性化を図る。
それから酔っぱらって線路に落ちて…、多分それで死んだのだろう。それがトリガーになって過去に意識だけ飛ばすことに成功した。
ただ意識が飛んだのは何と自分自身ではなかった。前世の自分?果たしてそうなんだろうか。
彼女の曾祖父はイギリス人だった。
東ロンドン出身。私が子供のころまで生きていたので話したこともある。
彼から母方の祖母の名前を聞いたこともうっすらと記憶に残っている。口数の少ない、穏やかで美しい人だったと。
確か、苗字はなく、下層民で、アンナと言う…。
私?
ずっと忘れていた。私が覚えていたのは時岡瑠海と言う名前と29歳と言う年齢、親を含む家族構成、過去の日常生活と教養としての知識。職業、専攻のことはすっかりと抜け落ちていた。今になって思い出したのである。
転生ではなくタイムスリップしちゃって、しかも祖先の意識を乗っ取った形で…。
ただトリガーになるよう設定した私自身の死のことだけど、自分のジャンク遺伝子を活性化したせいで、別のことまで起きてしまった。それは何か。量子のフィールドに接続できることである。
人の神経だって素粒子で出来ていて、それの最深部には量子と繋がる領域がある。だからタイムスリップなんてことが成立しちゃったわけなんだけど。
量子のフィールドと意識を直接つなげる、なんて簡単に言うけど、言うなればアカシックレコードに接続するのと同じである。
これだけじゃない。量子のフィールドに任意に繋がりを作れば意識だって飛ばせる。
遠い未来にも、今より遠い過去にも。
回数に制限なんてものはないんだけど、多大な集中力を要する。覚醒状態に任意にできるものでもない。今のように明晰夢を見ている状態で、強く願いを込めないと難しいだろう。
そう、私は、過去を変えたい。
イザベラさんに訪れた死と、少女なのか少年なのかもわからないジェイの死の運命を変える。
ごめんなさい、リチャードさん。
あなたとの結婚生活、悪くはなかったんだけど…。自分に特別な力があると知ったから、悲劇になってしまった現実をありのままにするなんて出来ない。
もしかしたら次もまた結婚することになるかもしれないけど…、そうでないかもしれない。今の生活を失うのは痛い。またメイド時代に戻ってしまう。それでもいい。私はイザベラさんも、ジェイのことも失いたくない。
だから念じた。強く、強く念じた。
あの日、ジェイに余計なことを喋ってしまったあの日に時間を巻き戻す。
今の私なら、ジャンク遺伝子から量子のフィールドに接続できるようになった今の私なら正確な日時を指定して飛ぶことも可能だから。
そして起きた時、私は間違いなく丁度六年前のあの日に戻っていたのである。
ここでイザベラさんと再会した記念にと情熱的な口づけを…、なんて馬鹿なことを考えながら十歳の体になじむために軽く体の隅々まで感覚を行きわたらせ確認。
どこにも問題はない。
ベッドから降りる。長かった足は子供のそれに替わってる。
今の私は発明家で科学者の若き貴婦人のルミ・A・グリーンウッドではない。
ただのメイドのルミである。




