4話 笑えないコラテラルダメージ
無垢な少年をヤンデレにするような罪深いフラグを立てながら、作戦は同時進行で順調に進んでいた。
ヴィクトリア時代のロンドンは世界で最も科学が進んだ場所、と言うのは少し誇張があるかもしれないけど、アイザック・ニュートン以降ロンドンの学会はどこの国より活発に動いていて、様々な学説が行き交い、大衆にも様々な影響を及ぼした。
例えば学会で微生物の存在を発表してから大衆は微生物と言う目に見えないものを気にし始めた。まるで現代の量子力学の多世界解釈が並行世界を行き来する物語をたくさん生み出したように、微生物の存在は目に見えない小さな世界があるとか、妖精の正体が実は微生物だったりと…、ぶっ飛んだ話が多かったのである。
腸内フローラが人間の感情に多大な影響を与えることを考えると妖精と言えなくもない気が…。鬱になってる人の腸内フローラを採取してネズミに移植したら意欲と活動の低下を見せたという研究結果とかあるんだよね。
当時の新聞紙などにも微生物のイラストが描かれている。公衆衛生の概念はともかく、目に見えないものに対しての恐怖はちゃんとあったんだよね。
と言うわけでやってきました、ロンドン大学。
早朝だけど行きかう生徒の数でにぎわっていた。
1836年に設立されたので、まだ建てられてから十年も経ってないにもかかわらず多くの学生が通っている。
付属の研究機関や学科によって違う建物を使ってて、20世紀以降になると18もの大学・研究機関がロンドン大学に含まれ、合計16万人もの学生が所属する、ただのロンドンの国立教育制度の一つになってるけど、今はまだいくつかの建物が並んでいるだけである。
女性の入学はお断りなんてくだらないことを言っているけど、別に部外者じゃなければ女性が訪問するくらいなら出来るのである。レディ以前に子供と言う括りに入ることは考えないようにする。
アランデールさんと手をつないだまま歩いた。ただの父と娘みたいになってるんじゃないかと、思わずにはいられない。
ある研究室の前に足を止めて中に入る。堅実そうな印象の若い学生が一人。机の前に座って何かを書いていた手を止めて顔を上げて挨拶をした。
「こんにちは、サイモンさん。それと、小さな…、子供…。レディであってるのかな。」
あまり目を合わせてくれない。子供苦手なのかな。
「ああ、彼女が前言っていた少女、ルミだよ。ルミ、彼がジョン・スノウ博士だ。」
ジョン・スノウ…、クロロフォルムの麻酔を発明したことで知られている。くる病の原因も究明している。
私はそれより彼に思い入れがあるんだけど、なぜかって、彼は皆瘴気を信じていた時代に下水の混ざった水の危険性を早くも学会で発表したから。
つまり瘴気を信じない、正気を保ったこの時代でも先進的な思考をしていたまさに先駆者的な人物である。そんなすごい人物と知り合えるだなんてまるで夢みたい…、アランデールさんには感謝しないと。
「お初にお目にかかります、スノウ博士。ルミと申します。」
つむじ辺りに視線を向けられる。
「ああ…、ジョン・スノウだ。ただの学生だよ。それより…、興味深い話があるようだが。」
ジョン・スノウさんは座ったまま彼の前に立っているアランデールさんに視線を向けて話す。
「冬に卒業するだろう?そうだな、俺から聞くより彼女から直接聞いてくれ。」
「彼女に…。」
こっちをちらっと見るけど、やはり目を合わせようとしない。
「そろそろ君の女性に対する距離感を直さないと一生結婚出来ないぞ。世の中の半分は女性だ。未だにそれでどうする。」
アランデールさんが言うと彼は恥ずかしそうに顔をそらした。実際にこの人、死ぬまで結婚してないんだよね。
「わかった、わかったから。それで、何だったかな。」
やっと目を合わせてくれたジョン・スノウさん。
「はい、アルコール成分が有毒な微生物を駆除する効果についてですが。」
「微生物?有毒な微生物があるというのか?」
「そうですね、病を起こしたり毒性のある成分を作ったりと、人に有害な影響を与える微生物は数多く存在します。アルコールはそれらの微生物を死滅させることが出来ますが、私一人ではそれを証明することが難しく…。」
「根拠は?」
「動物で実験をしてみましょう。」
訝しげに、と言うより、かなり怪しげに私を見てから困惑した顔でアランデールさんを見上げるジョン・スノウさん。
「彼女だよ、ヒ素の危険性を早くも察知したのは。」
「だが…、生物実験は非倫理的だ。」
「科学の発展に必要な犠牲だと思わないかい。人類に貢献できる。多くの人々を救えるかもしれない。それは君にとって望ましいことではないのかい?」
アランデールさんは肯定的だった。最初に喫茶店での打ち合わせでこの話をした時から肯定的な反応を示したんだよね。
「それは…、ならその動物は何にする?」
「ネズミでよろしいかと。」
私がそういうと反射的にジョン・スノウさんが少し大きな声で叫んだ。
「ネズミは汚いだろう!」
「ふむ。」
アランデールさんもその反応は予想外だったのか顎に手を当てて考え込む。
「すまない…、ネズミは苦手なんだ…。」
なら仕方ない。
「では鶏はどうでしょう?」
「それなら…。だがせめて綺麗に洗って欲しい。」
と言うわけで話が進み、農家から雛を調達してきて成長させ…。なんてことをすると時間がかかりすぎるので成長した鶏を二羽、市場で購入し、上水道の水を使って鶏を綺麗に洗った。
それで大学の庭に放つと庭に二羽…。
それで一羽には腐った肉で培養した菌を、少し傷をつけてから付着させ、もう一羽にはアルコールを腐った肉にぶっかけ、また傷をつけて付着させる。
前者はちょっと元気がない、後者はぴんぴんしていた。傷は本当に小さい。暴れないようにエーテルを使って麻酔もしてる。と言うかこの時期から知ってたんだね、エーテル麻酔。
と言うことで、実験終了である。
三日ほどかかった。
その三日かかる間にジェイの信仰心を揺るがす話をしたのである。
「論文にするような確実なことはこの実験程度では言えるものではないが、注意喚起をするためのパンフレットくらいは書けそうだな。」
「それで十分だ。新聞に載せてもいいかな。」
「構わないさ。」
実験の細かな準備はほぼ全部私がしたけどまだ目を少ししか合わせてくれないジョン・スノウさんに私の心は少し傷ついた。ジェイと抱き合ってちょっと気分は晴れたけど。
そしてその次の日、何時もの時間に逢いに行ってもジェイは現れなかったのである。
昨日の話で衝撃を受けて自殺とか、さすがにないよね…。
だけど断定はできない…。
宗教が人一人にどれだけ多くに影響を与えるかに対しての見通しが甘かったのかも。
ちょっと遅くなるかもしれないけど、いや、もう遅くなるというか、外泊になるかもしれないけど。
仕方ない。私が原因だから、私がジェイによからぬことを吹き込んだから…。
焦る気持ちを抑えながら娼婦たちがいると教えられた路地裏に入って、建物の中で娼婦たちを捕まえて話を聞いた。
「ジェイのこと、知りませんか。赤毛の、背の高い少年なんですけど。」
なんて聞いて回ったんだけど芳しい答はもらえず。なので方向を変えてみた。
「ダービー兄弟のことを知りませんか。」
これは徐々に調べる予定だった。ジョナサンさんとか、ローズさんにでも聞いて…、アランデールさんに聞くことも最終手段としてあったんだけど。
彼は友達を欲していて、実のところ毎回毎回お金もあげていたのである、軽食を買って食べたり。
まだ出会って一週間くらいしか経ってないのに、連絡もなしに消えるなんて考えられなかった。
もっと注意するべきだったのかな。自分の寂しさを紛らわすより彼が抱えているものが何かを聞き出すべきだったのかもしれない。
後悔しても後戻りはできないんだから、今の自分が出来ることをやらないと。
それで少年ギャングとかに絡まれ、彼らをボコボコにして聞き出すなんてこともして、いくつかの路地裏を回ってみたんだけどダービー兄弟が誰なのか知っている人は誰もいなかった。
なんでこうなったの。私は別に…、知識と啓蒙は精神をより高い次元にまで引き上げると思って…。誰だって知識を喜ぶわけじゃない、それは知っている。イザベラさんも言っていた。
時に知識はただ持っているだけでも毒となって精神をむしばむ。知ってる、啓蒙を拒んで狂った優生学に走り全体主義思想を作り上げたのも人類が背負うべき業である。自由より枷を選ぶことだってある。
彼がそうじゃないとなぜ確信できる?そもそも私は、そんなにジェイとそんなに長い間を過ごしたわけではない。
死ぬまで友達でいて欲しいなんて、そんな寂しいことを言っていた彼に、私は…。
雨が降り始めた。走って、走って…。それらしい路地裏は彼に教えられたことではなくても走って探して…。
ガス灯の明かりに揺らめく影、冷たい月明かり。
隠したものは何だったのか。私もジェイに言ってなかった。自分の生い立ちとか、自分がどんな人間なのかを彼に積極的に伝えようとはしなかった。
屋敷に戻る時間はとっくに過ぎている。
まだ私の作戦は終わってないから、今戻らないといけないのはわかっているんだけど。
アルコールの、エタノールの洗浄と殺菌効果を大衆に知らせる。
エタノールを使っての消毒、洗浄が一般化するとどうなるか。この時代のクリーニング用品は本当に高い。製作工程が複雑で手が込んでるから。
だからそれらはかなりの高額で、ほとんどは生活の知恵みたいに酢や新聞紙、一度入れてもう味のしないお茶の葉っぱを使っていた。
エタノールならば焦げた跡も綺麗にできる。
そして酢は酸性に耐えらえる菌が死なずに残るのである。
エタノールの効果が微生物と言う見えないことに対する恐怖にどのように作用するかなんて想像に難くない。爆発的に需要が増えるだろう。
そしてこの時代でエタノールを簡単に作れるのって、穀物による発酵である。
するとどうなるか。アイルランド経済はイギリスに依存しているから。
イギリス内でアルコールの需要が高まるとジャガイモより比較的アルコールにしやすい麦に作物を変えるだろう。
ただこうなると需要に対しての供給になるだけで、実際に穀物の輸出は防げないかもしれない。
実際にアイルランドは飢饉の中でも穀物を継続的に輸出していた。ジャガイモが腐って食べられなくなってるのに、穀物は余ってるのに、不況が始まって物価を安定させたいイギリスの思惑に乗って、穀物を国内で餓死している人がたくさん現れているのにもかかわらずそれを農民たちに配ることはしなかったのである。
だけど一時的に需要が予想を遥かに上回るようになったらどうなるか。
大量にエタノールを精製する工場インフラの整備まではまだ時間がかかる。つまるところ、需要に追いつくまで供給量が一時期的に過剰に膨れ上がる時期が存在するということで、収穫が増えすぎたせいで穀物が農民の手に渡るしかなくなる。
さすがに捨てることはしないでしょう。
これは19世紀の、まだ経済システムが発達していないために需要に対して供給が追い付くまでの時間がかかることを考慮し、私が一人で建てた作戦である。誰にもその全貌は言えない。
言っても信じてもらえるかわからない、信じてもらえたらそれはそれで預言者になるわけだから困る。
最初の石は投げられた。
けど、この後どうなるかわからないから、臨機応変に対応しないとアイルランド内での穀物生産量増加にまでこぎ着けない可能性があるわけで。
じゃあその大のために、小を捨てるのか。ジェイは、まだあって間もないけど、悪い子じゃない。いや、たとえ悪い子だとしても、国を失って、親も失って…。
彼には何もない。何もないのに私に危害を加えてお金を盗もうとしたり、そんなこともせずに、ただ友達が欲しかっただけの寂しい少年が、一体どこまで悪くなるというのか。
けどどうやって見つければいいのかわからなくて、結局屋敷へ戻ってしまった。
明かりも消えてる。
当然だけど鍵もかけられていた。ドアを叩いたら皆起きてしまうかも。そんな迷惑極まりないことは出来る気がしなかった。
玄関の前に座る。少し冷えるけど、大丈夫。私の体は丈夫なので。
けど、なんだか。
無性に寂しく、心細い。
ずぶ濡れ状態で追い出されたマーガレットさんの気持ちが少しわかるかも。
「ジェイ…。」
彼の名前を口にしてみたら後ろから気配がした。
「随分と遅くなったわね。」
イザベラさん…。
「申し訳ございません…。」
「何があったか、聞かせてくれないかしら。中に入っていらっしゃいな。いつまで野良犬みたいにそんなところで雨宿りをしているつもり?」
苦笑いが漏れる。
イザベラさんは、きっと色々言いたいはずなのに、いつもと変わらず凛としていて。
そんな彼女にはジェイと私の間に今まであったことを言ってもいい気がした。
いつも誤字報告ありがとうございます。なるべく少なくしようと頑張ってますけど、思考と文字が噛み合わない場合があったりなかったり…。




