9話 貴族とブルジョアジー
リチャードさんの反応を見ていくつか思い当たることがある。ローズさんから聞いた話だけど、リチャードさんはローズさんを母親のように慕ってはいたけど、その理由の根底には自分が生まれたことによって母が死んでしまったことに対する罪悪感に苛まれていたという。
21世紀には専門家たちによる自閉症や発達障害のスペクトラムの研究はたくさん行われていた。まだ記憶も自我も確立していない幼児だったころの記憶すらも原因の一つになっているという。
例え自閉症になっておらずとも、何かしらの障害を抱えている可能性はあると思う。例えば色情症は母性に対する無意識レベルの過度な執着とか。
しかも鬱になりやすく、情緒不安定だったり。
貴族だって人間である。
一皮むいたらただの種族名ホモサピエンスと言う動物でしかない。
放っておくことは出来なくて。痛みを知っている人間に残酷になることなんて、私は出来ない。そう、だから、だから私はイザベラさんと共に彼を排除するなんて考えに至ることはなかった。
イザベラさんと脚本を書くという話をした時、なぜそのようなややこしいことをするのだと言われた。確かにその通りだと思う。
また仕事を増やしている。娼館の時から変わらない。けど、私は別に人のために自分の身を削っているなどと言う高潔な精神でこんなことをやっているわけではない。
現代社会を知っていると、社会学的見地から色んなことが言えるんだけど。
人は自分が生きている社会と言う構造に濃密に影響を受ける。たかが天気が悪いという理由で自殺率が増えるのが人間と言う動物である。要は割れ窓理論である。割れた窓ガラスが増えていると地域全体の管理意識が低くなって、犯罪率の増加を招く。
自分が生きている環境を改善しないと結局いつか自分がそのとばっちりを受けて何かしらの被害を受けることになるわけだ。壊れた心を持つ貴族はいわば割れた窓ガラスのようなもの。
彼らは支配階級で、上流社会の人間なため社会に与える影響なんて計り知れない。
それを無視して行けるものかと。別に母性の塊とかではないから。
ただ、そう。
私だって父を失っている。
彼にそっと近づいて少し背伸びをして肩をさする。何も言わず、人のぬくもりが伝わるように。背丈が同じなら抱きしめることくらいはしたかもしれないけど、まだ小さくて。彼は振りほどくことなくしばらくそうしていた。涙は床に落ちる前に袖で拭っている。
一二分ほどそうしていたらリチャードさんは落ち着いたのか深呼吸をして、袖で涙を拭いた。少年のようでちょっと可愛い。
それからずっと隣にいた私を見て苦笑いを浮かべた。その表情からは以前の不安定さがすっかり抜けている。
まるで抱え込んでいた負の感情と別れを告げ、それでいてまるで悲劇の主人公のように自分の運命を受け入れていているようで。
今すぐにでも自暴自棄になりかねない気さえする。違うから。別に自殺して欲しくてこんなことをしたわけじゃないから。
「彼女たちと逢っていたようだな。」
ここでリチャードさんが言う彼女たちとは言うまでもなくローズさんとマーガレットちゃんのことである。
「はい。勝手なことをして申し訳ございません。」
「それも彼から言われたんだろう。」
そう言ってぞっとするような冷たい目でさっきから無言でこっちを見ているアランデールさんを見つめ返すリチャードさん。何かよからぬ方向へ進んでいるような…。
「彼女たちを縛っていたようだ。さよならを言うべきなのだろう。だが、そうだな。これほどの侮辱を受けたのは初めてだ。」
私から離れてアランデールさんの方へ歩いていくリチャードさん。
「気は晴れましたかな。」
アランデールさんはソファーから立ち上がって正面からリチャードさんと向かい合っていた。
「ああ、全く、玩具にされるなんて貴重な経験をさせてくれたことに感謝しよう、ミスターアランデール。剣は握れるか。」
「嗜むくらいなら。」
え、剣?
「なら明日の正午、我が家まで来い。否とは言わせない。」
「それがお望みであれば。」
いやいや、なんでそこで断らないの。
紳士同士の話に女性が割って入るなんて出来ない。今はそういう社会なのである。
リチャードさんが腕を差し伸べると何が何やら混乱していたカトリーヌさんが反射的に立ち上がってそれに自分の手を載せて出て行ってしまった。
「ごめんなさい…、私のせいで。」
アランデールさんに謝る。自分が彼の名前を借りようとしなかったらこんなことにはならなかったはず。いくら軍に入った経験があるとは言え、物騒なことには変わらない。
「心配することはない。貴族同士での決闘ならともかく一般人相手に決闘を行うのは法律で禁止されている。」
「私が自分の名前を脚本に書いていれば…。」
「忘れたのかい。そうするように勧めたのは俺だよ。」
そう、彼は言っていた。
今まで何の経歴もない幼い子供がいきなり大それた演劇の脚本を書いて世間に公表したら笑いものにされるだけで、逆に少女の名を借りて脚本を書いた不届き者がいるはずだと勘ぐられるだけ。
しかも貴族家の出身でも資産家でもないとなると、風当たりが強くなるのは明白。日本で言う世間と言ったものとは少し違う。産業革命期のプロテスタンティズム社会の常識と言う基準があって、その基準に合致しない出来事は痛烈な批判の対象となるのである。
別に彼は権利や名誉が欲しかったわけではないと言っていた。むしろ…。
「貴婦人に愛されるような物語を書いたとなると貴族男性から俺への当たりが強くなるだろう。情夫になることを求められるかもしれない。」
アランデールさんは何事でもないかのように窓際に立って言う。
「それでも…、そうした理由って、元から言えばそれが後見人として果たさなければならない役割だからだったんですよね?」
「だがレディ・イザベラを間接的に通じなくとも貴族の社交界と繋がりが出来るのは俺にとってもそう悪いことではない。彼らはジャーナリズムから身を守る術を知っているからね。」
つまり彼らの動向を知るには何かしらの繋がりを持つほかに手段は存在しないということ。そういう損得勘定をしてからの決断であったと。
なんて冷静で合理的なんだろう。しかも私に全部教えちゃってるし。
「私が知ってもいいことなのでしょうか。」
「君は後見人より法的な繋がりなんて雇用主と契約関係でしかないレディ・イザベラの方を信用するのかい?」
その言い方はちょっとずるい気が…。
「今のは冗談だ。彼女は貴族の中でも良識のある方だからね。田舎の貴族は未だにギリシャの古典を暗唱している。嘆かわしいことだ。彼らの手には多くの利権が握られていて、市場に誘うのにも限界がある。頑なに身分制度が守られている状況が改善しないといずれ他の国に追い越されることになるだろう。」
私を弟子にでもしているつもりなのかな。まあ、実際にドイツとアメリカに追い越されることになるんだから間違ってはないんだけど。
「先見の明があるんですね。」
「君はどう思っている?」
「そうですね、古臭いしきたりに支配される貴族はいずれ資産家にとってかわられる…。それが自然な流れかもしれませんけど。」
何か見落としている気がする。貴族は、結構活動的で情熱的なのだ。古典をこよなく愛して、自らの国に命をささげる。ただ上の身分と言う立場から、社会全体で辛い思いをするなんてことは間違っているけど、そう言った生き方までも否定したいとは思わない。
私が生きていた21世紀の初頭の世界はそのような生き方をしている人間は、いなくはなかったけど、どうしても一歩離れて倫理的に生きることを強制されるような息苦しさがあった。
世界中の経済が濃密につながることによって愛国心を前面に押し出すのはネットにこそこそ隠れてするものか非常識な輩のやることでしかなくて。
愛国心なんてただ誰もがひっそりと心の中に持つだけの感情だから、そう言った抑圧に反発する心は誰しもが少なからず持っていたんだと思う。
それに比べて貴族とはなんと清々しくも情熱的なのかと思わずにはいられない。
今更身分制度を復活させるなんて出来やしないだろう、実際に身分制度のある国ですら貴族は芸能人と同じ括りのセレブリティとして扱われていた。
そして社会に最も影響力のある人間は億万長者の事業家。彼らに国境はない、好き勝手に何でもできちゃう。嫌なら別の国へ行くことだってできる。実際に某南アフリカ共和国出身の世界的な億万長者の事業家はアメリカで会社を作ったり買い取ったり、その会社で社員を酷使させてたくさんの利益をあげたりとやりたい放題。
彼の信奉者も多いのはわかっている。企業を立ち上げるまではそれなりに頑張っていたのも知っている。しかし企業を買い取ってからは研究者たちの実績を世間に広めるだけで、自分自身が開発に携わることはしていない。つまり上に立っているだけ。
支配階級が変わった今も昔とあまり変わらないとまでは言わないけど、自分だって一定時期を超えた時点からは遊んでるだけじゃないのかと。天文学的なお金を稼いでいる割には研究者たちを働かせるだけってどうなの。
貴族が積極的に経済活動をするなんてせず毎日遊んでいるだけだったのと大差ない気が…。いくらか働くには働いてはいるけど、五着も服を着替える時間があって、汗だくになるまでスポーツで遊んでて…。
そして戦争になると真っ先に従軍して死ぬという。ブルジョアジーは戦争を引き起こす側になってたし。
それに比べたら貴族は何とも清々しい生き方なんだろう。
だから私はこう言った。
「ブルジョアジーによって主導される経済の発展は、やがて世界をより深いところまで繋げることになりましょう。貴族の役割は忘れ去られ、大衆からは貴族が失敗した姿しか残らなくなって。そうやって貴族や彼らの影響力がなくなれば、彼らが守っていた文化を守ることが難しくなるはずです。貴族の情熱は他の誰かが真似ることなんて出来ない。自分の国を研究した一部の学者や職人だけが自国の文化を守ろうとするでしょう。一部の人にしか見られない、関わることもしない…。そうやって文化が消えてなくなってしまったら、アイデンティティまで失ってしまう。私はそれがどうしてもいいものとは思えなくて。文化は消費の原動力にもなります。消費なしでは産業だって成り立たなくなるはず。そうなったら共倒れじゃないですか。」
アランデールさんに頭を撫でられた。
「まだそういう時期になるまでは程遠いが、そうだな。そうなったら、きっと、神の怒りに触れることになるだろう。」
「バベルの塔みたいにですか。」
「さてな。永遠より無限を求めよう。それが企業家としてあるべき姿だと俺は思っている。」
やっぱりアランデールさん格好いいな…。もう少し年齢が近かったならよかったのに。いやまあ、私に色気があるのかはよくわからないけどね。人によって趣味が違ったりするから、誰にでも愛されるはずなんておこがましいことは思わない。マーガレットちゃんとか誰からでも愛されそうな雰囲気だったけど。見習うべきか。
そして次の日。
律儀にも屋敷に現れたアランデールさんは、私とイザベラさんを連れてグリーンウッド家の屋敷へと向かった。ヴィクトリアンな雰囲気のイザベラさんの屋敷とは違って、グリーンウッド家のそれは年季の入った古めかしい建物である。
手入れはしっかりされてるし、多分、外骨格以外はほぼ取り換えているんじゃないだろうか。テセウスの船かな?
アンナさんに手紙を伝える時に幾度か訪問したことがあるんだけど、多分16世紀当たりのものだと思う。その時代の屋敷には廊下がない。
廊下がないならどうやって部屋を通るのか。部屋と部屋の間にドアがあるので、それを通る。
そしてそのドア越しにリチャードさんがピーピングをしていたと。なんか風情があるよね。考えてみれば廊下なんて家ではただの無駄な空間でしかない…。絵画とか壁にたくさん飾れるけど。
今回はその古めかしい屋敷に入ることなく外の手入れされた庭の芝生の上で、決闘紛いなことをするわけだけど。
やはりと言うか、フェンシングだった。
この時代のフェンシングにも防護服はある。1822年に一般化して、白い服の下に少し厚みのある鎧みたいなものを着て、分厚い手袋をして、顔には仮面みたいなのを装着する。軽い動きが出来るサンダルを履いて。仮面は顔を守るためのものではあるけど何かしらの儀式にでも使えそうである。
切っ先に丸いものがついてはいるけど、鉄の棒だし、当たったら結構痛いんじゃないかな。
今の季節は夏で、みんな薄着である。正式にあの白いフェンシング服に着替えることなく、ただ上着を脱いでから上に分厚いベストを装着する。
アランデールさんも夏になってからは結構薄着で、胸毛が生えたたくましい胸元が見えるのでついつい目が行く。女性の胸元も見ちゃうけど、男性の胸元も見ちゃう。
女性は薄着をしてもコルセットを装着するので、見える肌の面積はどんな季節でもあまり変わらないんだよね。
まあ、私なんてまだコルセットを付ける年齢ではないので、いつもの一着だけある紫色のドレス姿だけど。
この時代のロンドンの夏は温暖化が進んだ現代よりそんなに暑苦しくはないんだけど、なんというか。それでもみんな薄着になって燥いでる感じがする。それで島の中でずっと燥いでいればいいものを、なぜ植民地へ向かって破壊と殺戮の限りを尽くしているのかと。
破壊と殺戮がしたくて行っているのではなく搾取しに行ったら結果的にそうなっているだけなんだけどね…。どっちもどっちな気もするし…。
これ以上を深く考えるのはやめよう…。
私とイザベラさんは木影の下にある木製の椅子に座って二人が準備するのを眺めている。審判をするのは若い執事さん。主人のことより劇場のオーケストラを管理することしか頭の中にはない人だとアンナさんに聞いている。
実際にいつもくたびれているし。もう一人雇用するのは出来なかったのかな…。オーケストラって大人数だから色々と大変なんだろうに。屋敷の管理はアンナさんがやっていたんだよね。
「本当に大丈夫なんでしょうか。」
今日は使用人の立場じゃないので少し口調を崩している。ただの使用人が主人の試合を主人の隣に座って観覧するなんておこがましいことこの上ないから、逆に使用人のようにへりくだったら失礼に値すると思ったので。
「何を心配しているの?あなたが招いた結果なのでしょう?」
イザベラさんも特に気にするなく答えてくる。
「悪いことをしてしまった気がして。」
「ことは起こるべくして起こるもの。気に悩む必要はないわ。」
「そうかもしれませんが、アランデールさんは事情を説明しようともせず受け入れてしまってて。」
「なら今からでも説明しに行ってみるのはどうかしら。」
それはちょっと…。と言うか、それじゃまるで、私のために争わないで!みたいな構図にならない?
「レディ・イザベラは私が困るのを楽しんでいますね。いつも思うことなのですが。」
「だって、あなたの反応がいちいち可愛いんだもの。」
「その、レディ・イザベラもいつも大変美しいですよ。」
「あら…。」
思わぬ反撃だったのか少し顔が赤くなるイザベラさん。
そんな感じで主人とイチャコラしてたらいつの間にか二人は準備を終えて向かい合っていた。




