8話 涙の物語
ちょっと分量が思ったより増えてしまったので連続投稿です。
それから二週間は何事もなくレッスンが続いた。週四回、水曜日休んで月曜から金曜まで。発声練習が終わってからは歌の勉強。ドイツ語の歌を…。カトリーヌさんの教え方がすごく上手で、結構楽しく進んだ。
何か言いたげなリチャードさんの視線が突き刺さっていたけど。そんな見られても何も言えませんって。
何が言いたいのかはわかってる。
どうやってあのパブで彼女たちと接触することになったのか、何を話していたのか…。そして、私が今何を考えているのか。
アランデールさんの眼力が怖いのかレッスン中はずっと何も言えずにいて。時々カトリーヌさんだけが来る日もあって。
まあ、フォローの準備はちゃんとしていた。それもかなり順調に進んだ。
けど、せっかくだからと私は考えたのである。
うまくいけば教会に支払うお金もどうにかできるかもしれない。
マーガレットさんともそれからも何回か会いに行ってて、イザベラさんの推論が当たっていることも確認できたし。
それからは文章を仕上げて、歌を仕上げて…。
戯曲の脚本を書くなんて初めての挑戦だけど、そこはまあ、ローズさんとかに見てもらったり、イザベラさんの教養を頼ったり。
それで一か月かけて完成した戯曲を、マーガレットさんが主役で演じさせる。
あらすじはこう。
ある少女と少年が恋に落ちる。
少女はメイド、少年は貴族。
少女の母は貴族の情婦。
うん、マーガレットとリチャードさんの再現だね。
そうそう、マーガレットは幼いころには屋敷でメイドとして働いていたようなのだ。
リチャードさんの姉たちに母親と一緒に相当いびられたんだと。なんか…。うん。情婦が勝手に貴族と結婚してから家を乗っ取って、その娘は好き勝手するとか、そういう話はたくさんあるけど。普通は逆だよね。
人間の脳は、一度支配の快楽を当たり前とするようになったらそこから突き進むだけなんだよね。
支配階級の方がずっとサディスティックなのもそういう風に脳が出来ているから。
もちろんある程度の割合がそうなるということで、全員が全員そうと言うわけではないけど。スタンフォード監獄実験の事例では状況を受け入れれなかったのはごく少数でしかなく。人間なんて自分が置かれた立場によって心理状態まで決まっちゃうと言っても過言ではない。だから身分制度は徐々に否定され、消えてゆくしかないのである。
そして逆に身分が低い人間なんて支配されるのを当たり前のように受け入れて、卑屈になってからストレス耐性が上がるんだってね。
ちょっと面白い研究結果があるんだけど、アメリカの黒人は奴隷だった時代からそれはもう酷いことをされまくってきたんだけど、遺伝子単位で変化があって、白人よりストレス耐性が高くなっているという。
数百年も抑圧されるとね、そこまでになってしまう。
なのに支配される側だった人間がいきなりわがままになる?
人間の脳も遺伝子もそんな風には出来てないんだけど、なんで逆に書いちゃうのかな…。そんな身分が低い人間がいきり始めるとか、非現実的すぎる。
ただ、まあ、理由はわかっている。
中産階級の人間って労働の価値を低く見積もったりするから、いざ自分が厳しい労働環境へおかれると、価値が低いと思っていたものが自分の中に勝手に入り込んで大きくなってそれを不快に思っちゃう。
それを身分の低い人間が貴族家に入って令嬢をいじめるなんてメタファーを作って書いたらそうなるよね…。
そして自分の中で働くという行為に対して折り合いをつけることを物語の終わりにして、みんなと共有していると。これぞ文化…。
けど労働環境が改善して欲しいのはわかるかな。余程のことじゃないと物語を書くまではしないはずで。
辛い時に物語を書くと心が大分楽になるのである。
それを知っていると。
辛ければ辛いほど物語が書きたくなるのも納得の話。
私も辛い。何が辛いって、マーガレットさんとリチャードさんの恋物語を彼女の口から直接生々しく聞いてしまうと。
「いつからだったかは覚えてないけどね、彼の手が綺麗だなって、つい見てしまった時が増えてて。顔?あまり見てないかな。格好いいとか、そういうのをただのメイドが考えるなんて許されないって…。ご主人様の家族を直接見るなんて、出来ないでしょう?ルミちゃんは違うの?」
まあ、普通に見ちゃうけど。
そんなお腹見せて服従とかしてないし。
「やっぱりレディースメイドは違うんだよね。結構いいご主人様なんだ。愛されているんだね。羨ましいなぁ…。お嬢様方はみんな綺麗で美しくて、ドレス姿とか、キラキラしてて。私もそんなお嬢様方に愛されたかった…。うん?何か悪いこと?色々されたかな…。水をかけられるのはもう日常茶飯事で…。メイド服って二着あるんだけど、汚れて洗濯したら、乾かすまでは一着で過ごすしかないでしょう?ルミちゃんは私服もあるものね。それもね?自分の持ち物じゃなくて借りた形になっていたんだけど、汚れとかついたら大変だから、一生懸命拭かないといけなくて。それでびしょ濡れなままで過ごすものだからそれで寒いのなんの。カーペットとか濡らしたら大変だから、家の外で乾くまで待つしかなくて。冬だと…。ああ、あの時は本当に辛かったかな…。リチャード様に助けてもらわなかったらそのまま風邪を引いて死んでいたかも。自分の服を私の肩にかけてくれて。うん、格好良かった。それで自覚したの。彼のこと、好きなんだなって。私って単純だよね。」
ちょっと泣きそう。マーガレットさんはただ苦笑いを浮かべているだけだけど、私は目をそらして泣かないようにするので精いっぱいだったのである。
「ごめんね、こんな話聞かされると嫌になるよね。」
嫌じゃない。マーガレットさんは悲しくなかったのかと。別れて辛くなかったのかと。
「まあ、お母さんは違うけど、兄妹で身分も違うし…。その時のあたしの年齢?十歳くらい?丁度ルミちゃんと同じくらいの年齢だったかな。リチャード様は、十五歳?だったかな。それで、目とか合うと恥ずかしくなって。自分でもどうすることも出来なくて。リチャード様に、愛しているって、言われて。嬉しかったんだけど。お母さんに言ったら、実は私は私生児なんだって。リチャード様も知らなかったみたいで。メイドもお母さんからやめさせられたの。女優としての収入もあるし、そろそろ学校へも行けるって話だったから。寄宿学校だから、寝泊まりは寮でするし、だから卒業するまではリチャード様と会えなくて。卒業してからは劇団に入ることが決まってたんだけど、お母さんからも歌のレッスンとか受けてたし。それからリチャード様ともまた出会えて。嬉しかった。背も前よりずっと伸びて、格好良くなってて。もうすぐ結婚するんだって聞かされて…。」
うん。ここではもう二人とも我慢できなくなってちょっと泣いちゃったので休憩。
「ああ、すっきりした。まだこんなこと思っているなんて思わなかったなぁ…。ずっと前に終わったことなんだから、もう忘れた過去だと思ってたんだけど。」
記憶には時間の経過なんて関係ないんだよね。思いが残っているなら記憶もずっと続くものだし。
「じゃあ、その思いがなくなってしまったら、記憶も消えてなくなっちゃうのかな。そんなの…、ちょっと嫌だなぁ…。うん?劇団に残っていた理由?お母さんにずっと教えられたし、それ以外に特にやりたいことがあるわけでもなかったし。親の職業を受け継ぐのって普通でしょう?だから、何となく続けたら、主役にまでなったんだけど…。リチャード様が私を見る目が昔と変わらないって…。うん?あはは…。うん。やったよ。避妊?してたよ。けどそれが最後。兄妹でそういうのいけないって思ったから。やめて別の劇団にでも行こうかなって思ってたんだけど、最近不況で、劇場とか潰れちゃってるところ多いんだけど、知ってた?うん。それで…、どうすることもできないって迷ってた時期に、先代のグリーンウッド様が亡くなって、遺産が…。あ、これは言っちゃいけないことだった。今の忘れて。わかってるって…、なんでそんなに大人っぽいの?私がルミちゃんの時には恋に浮かれたただの馬鹿な小娘だったのに。」
「あんたは今も馬鹿な小娘だよ。」
ここで少し離れたところで話を聞いていたローズさんが茶々を入れる。
大丈夫。今のままでも十分、人として魅力的だから。
「もしかして口説いてる?お姉ちゃんといいことする?」
「やめなさい、子供に何を吹き込もうとしてるの。」
「怒られちゃった。」
そんな会話があって、それを思い出しながら脚本を書いたのである。
メイドと少年の恋。健気なメイド少女はいじめに屈せず懸命に明るく振る舞って、誰も心配させまいと心を強く持つ。
そんなある寒い冬の日、お嬢様に水をかけられ、外に放り出される。
その時丁度学校から戻った少年が少女を助け…。
ここを聞いたまんまにしたのは、知ってますよってアピール…、と言うのはただの言い訳かもしれない…。短い期間に仕上げないといけないので急いだらそうなってしまった…。
それで話の続きはと言うと。
しかし二人は結局身分違いを理由に引き裂かれてしまった。
寄宿学校へ送られた少女は卒業してから再会、また恋に落ちるも貴族の男はすでに結婚している。
そして少女は病を患っていた。ここから現実と違ってくる。
二人はやがて新大陸まで逃避行をするけど、船が沈没。最終的には助かるけど、少女は私を忘れてください、奥様を幸せにしてくださいと言って冷たい水の中へと消える。
ここで大事なこと、主人公は二人じゃない、三人である。
少女と少年、そして、ある貴族家の令嬢。彼女は元気で明るいメイドの少女と違って物静かで優しい。
家族と楽しくピアノを演奏していて、小さな子犬が大好き。
結婚をするとどうなるのかな、相手はどんな人になるのかな、誰であろうと、彼と幸せになるために頑張って見せると意気込む。
最初は順調で、子供も二人生まれた時期。男は浮気を始めて、冷たく当たる。
当然傷つく。泣いて、苦しい今の心境を長く独白で語るのである。
そして男はついに浮気相手と新大陸へ逃げるという手紙を一つだけ残して消えて。
だけどメイド少女はもう亡くなっている。
一人で戻った男は、泣きながら彼女に許しを請う。
彼女はその謝罪を受け入れ、二人でメイド少女の墓の前で歌を歌いながらエンディング。
かの有名な船が沈没する映画のパクリとか、色々自分でも自分が書いた脚本に突っ込みたいという気持ちはあったけど、なにせ初めてのものだったから有名な作品とか、現実をそのまま書いちゃうとか、そういうことしか考えられなくて…。
作者の名前は、私にするのは出来ないので、アランデールさんに頼んだら自分でよければってことになって。
そしていよいよ、リチャードさんに脚本を渡す。
イザベラさんから太鼓判をもらったけど、果たして劇場の主にはどう映るのか。
ちょっとドキドキする。
アランデールさんはカトリーヌさんとお茶を飲みながら何か小さな声で話し合ってる。え、まさか口説いてる?
カトリーヌさん綺麗だし…。
ま、まあ、私が考えるものじゃない。今重要なのはリチャードさんの反応。
最初は少し流し読みだったんだけど、進むにつれて顔色がコロコロと変わる。赤くなったり白くなったり青くなったり…。
そして…。
え、泣いてる…。
これはちょっと想定外。
さて、どうしよう。
誤字報告ありがとうございます。




