7話 不憫なロシア、ロマンのローマ
リチャードさんの事情を知ってから、少し同情的な気持ちが芽生えた。
母親を幼いころに亡くし、代わりに情婦が彼の母親代わりをしてくれて。
父からはどんな態度を取られていたんだろう、家に情婦を連れてくる時点であまりいい育て方をしているようには思えないけど。
もしかして暴力を振るわれた可能性もある。
けどそれは十歳までのはず。
この時代に上流階級の男の子はロンドンの西の果てと北西にある学校へ行っていたんだけど、ここは寄宿学校である。
十歳になると寄宿学校へ行って、十歳になる前までは家庭教師から学ぶ。
朝六時から夕方の二十時までなんだけど。別にずっと勉強をするわけじゃなく、乗馬を含むスポーツ、ダンス、詩の朗読などもする。
学ぶのは数学、法律、歴史、自然科学、哲学、ギリシャとローマ時代の文学。
ただこの学校、いじめ問題がそれなりにあったのである。
服に火をつけられたり、集まってスポーツをしている時間にわざと負傷させたり。中には割とこれ死ぬんじゃないのと言うレベルのものまであったようで。
リチャードさんがそんないじめ被害者とかの可能性も考えなくもないけど、逆に加害者の可能性もあるのでは…。
それにこの上流階級の少年たちが通う学校の体制に対しても反抗的になったりすることも割と多く、教科書をテムズ川にまとめて捨てたり、街に出かけてお酒を飲んで騒いだり…。
貴族って、なんで昔からこう…。
じゃあ上流階級の女性はと言うと。
学校へは行かない。少し収入のある上位の下層民から中ほどの中産階級までが通うプライベートスクール以外に女性が行くための学校は存在せず、家庭教師から結婚するまで花嫁修業を受けていた。別にこのプライベートスクールで教える内容が大したことじゃなかったとか、そんなことはないんだけど。ただ親が行かせようなんて思わなかったんだろう、下層民までもが通っているんだから、アクセントでも移ったら大変である。
そしてこの上流階級の女性が学校へ行かなかった時期、20世紀初頭になるまで存在しなかったわけだから近代になってからも割と長いのである。
アメリカなどでは男女平等運動の結果それなりに高い教育を施す寄宿学校がいくつも建てられたんだけど、イギリスにはなかった。
代わりに家庭教師を使うのが一般的で。
共学すらもないことに驚愕…。
なので残念なことに貴族が通う学校での婚約破棄とか、歴史的に見ると到底無理な話である。
ただ女性が受ける教育の質が低かったわけではない。
花嫁修業と言ってはいるけど、刺繡とか料理を学ばされるわけではない。これはむしろ20世紀になってからのもの。
よくファンタジーではそんな刺繡をしているようなことが描かれているけど、それは中世のことで、ルネサンス時代から近代までの時代にそう言った風景は少し現実とかけ離れている。貴族女性なんてイザベラさんみたいにのんびり構えていればメイドたちが全部やってくれるので。
じゃあ中世はどうだったかと言うと。
西洋の中世は平安時代のようなもので、貴族女性は暇で暇で仕方がないからと刺繡をするなんてことは別に珍しくもなんともない。
そして中世では学校は存在せず、聖職者が貴族の勉強を教えていた。
男女関係ない、女性も同じく聖職者から勉強を教わる。
聖書はもちろんのこと、歴史や地理、法律、哲学などを学ばされる。男性は兵法も勉強する。女性は男性が兵法を勉強する時間に刺繡をしてたりね。
大学はあったんだけど、中世の大学は教育を施す機関と言うより、知識と言う道具を扱う職人を養成する機関と言った方が正しい。
そして中世の大学に女性は入れない。
なので中世の女性が何かしら学問の領域で成果を残したのはごくわずか。
ルネサンス時代以降になってからは啓蒙思想が上流階級の間に広まって、女性に様々な教育を施す貴族の親が増えたのである。
そんな親の元で生まれているなら、男性とあまり変わらない量の知識を身に着けることも難しくなかった。
学校へ行かないだけだから、家庭教師の質が高かったり親から学ばされたり、本人が勉強熱心だったり、やりようはいくらでもあるわけで。
花嫁修業で家事を想像することになったのは20世紀アメリカ文化の影響なんだよね…。
第二次世界大戦の後、アメリカでの賃金は今と比べるまでもなく高かった。
男性が一人働いても問題なく家族を養える。女性は男性に養ってもらいながら家事をし育児をするというのが当たり前。だから女性は花嫁修業と言って家事を学ばされる。日本もアメリカの影響を受けて似たようなことをしていたわけだけど。
実際に男女の賃金の格差が生まれたのも20世紀になってからで、江戸時代などは同じ仕事であるなら性別に関係なく同程度の賃金をもらっていたんだよね。
男性に家族を養えるほどの賃金を支払うのが当たり前というアメリカのシステムを取り入れたせいで、20世紀になる前の方がずっと平等な社会だったという何ともはた迷惑な話…。
それで花嫁修業とはただそう呼んでいるだけで、実際に女性が学ぶのはただの教養。実用的な、男性を喜ばせる秘訣などは普通に貴族女性たちが共有していて、別に家庭教師から教わるものではなかった。
そして教養とは言ってるけど貴族の教養なわけだから、ある程度のレベルを超えないといけない。
ほぼ文化のことなんだけどね。
数学なども学ばされるけど、主に文化。
時代が進むにつれ欧州の文化は学問と共に躍進してきた。
すると当然、手芸など中世で学んでいた技術なんて貴族が学ぶ必要なんてなくなる。
そんな技術を持っている人間を見抜く審美眼を育てる方がずっと役に立つわけだから。
ただ国によって違った形の芸術分野が発展を遂げているので、教育に重点を置く場所は違っていたりするんだけど。
どこへ行っても学ばされる内容自体が多いことに変わりはない。
例外はロシアくらい。
ロシアが田舎者扱いされていたのはそのせい。ロシアは文化の面でもずっと不憫だったのである。
そもそも文化を学ばないと貴族社会の話題についていけないし、主な消費者なわけで。貴族が芸術を買わないと誰が買うのかと。
なので学ばないという選択肢なんて存在しないのである。
ドイツとオーストリアの音楽、フランスの絵画、イギリスの演劇、イタリアのオペラ…。
それ以外の国も自国で多くの芸術家を育ててきた。
ただ主要な文化の産地ではない場合、どうしても見たかったら、欧州はそんなに広い地域じゃないので、行って鑑賞すればいい。
よく日本を極東の小さな島国、なんて言ってるけど…。いやいや。
欧州と地図上でサイズを比較してみると日本の最北端をスカンジナビア半島の最南端にしたら北フランス、ドイツの半分、オランダ、ベルギーが全部中に含まれるほど、日本は欧州と比べてもかなり広いのである。
日本より平地がずっと多いので体感では欧州の方が何倍も大きいと感じちゃうかもだけど…。
なので同じ欧州に住んでいるのなら旅行へ行くのはそんなに難しいものではない。
それに、実際に旅行に行くことをしなくとも音楽家なら招いてコンサートだって開けるし。絵画なんて買えばいいだけだし。
だからロシアではちょっと稼ぎがよかった時代にはたくさん欧州から絵画を買っている。それに反発も受けたけど。
田舎の連中が我らの絵画を集めるなんて、そんなの許せない!とか。
ロシアに住んでる貴族からしたらたまったものじゃないんだけど。田舎だからと馬鹿にされるからと絵画を買い取って鑑賞するようにしてたら、田舎が出しゃばるんじゃねぇよ、なんて。いったいロシアに何の恨みがあるのかと。フランスに侵略までされちゃうし。いじめかな。
そしてロシア以外の国で旅行へ行くとなるとそれはイタリアへ行くこととほぼ同意だったと言っても過言ではない。
殆ど臭くてたまらなくなっていた他の国の主要都市に比べ、イタリアはローマ時代からの上下水道が綺麗に整備されていたため人気だったのである。
イタリア以外の国に住んでいる貴族が海外旅行へ行くとなるとその殆どがイタリアだったほど。
貴族の少年たちが通う学校などで。
「卒業したら海外旅行に行くんだ。」
なんて話が出るとこのように聞かれるほど。
「ベネチア?それともローマ?」
それ以外にもあるでしょうに…。
しかしそうなってしまうのも仕方ない。
何が悲しくてうんこ塗れの他の大都市へわざわざ行かないとならんねん。
自分たちのところもうんこ塗れで大変だというのに。
匂いは町の規模によって少ないところもたくさんあったんだけど。
下水道だけではない、イタリアにはただの庶民でも川の水だけではなく上水道もちゃんとあるので体も毎日洗える。
下層民ですらも自国民の貴族と同等かそれ以上に臭くないのである。
ロマニーと言う例外もいるけど。匂いで差別されちゃうなんて…。ロマニーより臭い地域から来た臭い貴族は素通りさせて…。
何やってるんだか。
ただイタリアへ行くというのは欧州の起源とつながることでもあるので、貴族にとってはある意味聖地巡礼のような儀式的目的もあったわけで。
じゃあイタリア以外の国へは行かないのかって、匂いがそれぞれ違うからそれをかぎ分けるための旅行とか…。
うむ、やはりフランス人は野菜の消費が激しい分、うんこからも腐敗した植物の匂いがするぞ、とか。
ドイツは豚肉をたくさん食べてるから、うんこから腐った豚肉の匂いが…。
そんなわけあるか。
くそ役に立たない情報…。くそだけに…。
そもそもかぎ分けることなんて出来るものなのかな…。くそのフレグランス。
関係ないけど柑橘系特有の酸っぱい匂い、分子構造的に糞便のそれと殆ど変わらないのである。
なのでくその匂いも柑橘系のごとく爽やかに変貌することだって…。
これ以上考えるのはやめよう…。
まあ、細菌学が発展した現代なら、専門の研究者が楽しんで研究できるテーマかもしれないけど…。
ただ貴族は外交的な目的などで違う国の貴族と結婚することはそんなに珍しいことでもなかったため、妻の実家へ行くとか、できなくもない。普通に欧州を回る旅とかもするし。欧州だけ回ってから家に戻って、世界一周してきたとか言うんだよね、そしてギリシャに行ったことを、世界の果てを見てきたと言う…。ロシアには当然行かない。田舎のロシアなんぞ世界の中にすら入れないというのか…。
それで芸術は今までの流れから現在に流行っているジャンルや楽しみ方などを学ばされて、審美眼を育てるのである。
そもそも貴族はヌードが好きだったりとか色々あるんだけど…。なぜ貴族がヌードが好きなのかは…。イギリスの絵画を考える時にでも考えよう…。
そして上流階級の思春期までの女性と十歳になるまでの少年の家庭教師となるのは主に上位中産階級や下級貴族生まれの未亡人。
ガヴァネスと呼ばれる人たちがやっていた。
礼儀作法は基本中の基本で、話術、文学、歴史、複数の言語、そして芸術のことを教えられる。実際にシェイクスピアを暗唱させたりね。
ガヴァネスじゃないと家庭教師にはならないことはないけど、高いレベルの教養を持っているのに人を教えるくらいしかやることがないのはガヴァネスくらいだから。
別にガヴァネスじゃなくても、高い給料をもらえれば学者や官僚、まだ結婚してない若い女性までも家庭教師になることが出来るけど、ガヴァネスは実績もあるし、時間も余っているから長い時間カリキュラムを組んで教えることが出来る。
上流中産階級の未亡人なんて安定した収入がない場合はガヴァネスにならなければきついのだ。
そうしなければあの厳しいイギリスの労働環境で、臭い労働者たちと汗水を流してあくせくと働くしかない。
だから彼女たちからしても都合がいいので需要と供給が一致し、多くのガヴァネスが家庭教師をやっていたわけである。
私も目指してみようかな、ガヴァネス…。
その前に結婚する必要があるんだけどね。まだ遠い話である。
今はリチャードさんのことである。
同情は出来る、けどDVは許せない。
カウンセリングでどうにかする?
いくつか興味本位で調べて知っているだけで、ただの一般的な現代社会を生きる少し教育を受けた程度の人間が出来る範囲でしかないから。
まあ、この時代の人間の精神性は割とシンプルなところが多いから簡単に問題を解決できるのも難しくはないとは思うけど、ここには実はからくりがある。
カウンセリングの効果を高めるのは実は信頼関係にある。アンナさんに劇的な変化が起きたのも先に心理的な防壁をイザベラさんが無効にしてくれたから。カウンセリングの半分は相談者とカウンセラーの信頼関係の構築にあるのだ、その段階を一気に飛び越えたから効果を見込めた。
しかしリチャードさんは違う。プライドの高い貴族男性の防壁をただのメイドの小娘が、初恋の少女を連想させるだけの少女が崩せるものなのかと。
だけど彼の攻撃的になるような態度はどうにかしないといけない。そうしないと、たとえ離婚が成立してからも悪いことが起きてしまうかもしれない。
じゃあ原因から究明する?
思い当たることが多すぎるのでその問題を解決するためにどこから始めたらいいのかもわからない。
幼年期のトラウマ、短気な性格、浅慮さ、支配階級のサディズム、プロテスタンティズム文化の暴力的指向性、男性だけが集まる学校での女性蔑視の経験、女性に男性を受けることだけを強いる社会風潮、少年期に不本意な形で引き裂かれた恋の痛み…。
逆に同じ理由があっても暴力的ではない人間なんていくらでもいるわけで。
なので考えるべきは原因ではない。どうフォローをするか、離婚した後の彼が感じるであろう精神的なストレスをどうするか。これが重要なんだけど。
私を私自身ではなく初恋相手に被せる人なんぞにここまでしてあげようとするのかって…。普通にイザベラさんと排除をする方へ動いてもよかったはずで。それこそ社会的に抹殺するとか…。
ただそこまでするものなのかとも思ってしまうし…。
自分でもよくわからない。
どこか共鳴しているとか、そういう抽象的なものではないと思うんだけど…。




