6話 いたずらと加虐嗜好の違い
イザベラさんと就寝前の会話時間。
お茶を飲んで一息ついたところ。今日はなぜか向かい合って座ってるのではなく長いソファに並んで座ってるのが気になっていたんだけど。
すると彼女はテーブルの上にある新聞を広げ、指で今日のロンドンと言う欄をトントンと叩いた。大手新聞社の夕刊である。夕刊と言っても週刊よりはかなり薄っぺらく、速報がないか確認する程度。それでも、だからこそどうでもいいネタとか書かれていたりするのである。
この時代の新聞はどういうものだったかと言うと。
19世紀が始まって間もないころはコットンペーパーと言う綿花で作った頑丈で分厚い紙が主流だった。植民地から大量に供給されることにより綿花の値段が下がって、平均的な収入を持つと二着以上の服が購入できるまでになった。着替えがないからと臭いのは中産階級には該当しなくなって、下層民の匂いが際立つことになったんだけど…。それはまあ…。
それで綿花の値段が下がることにより相対的にリネンの値段が跳ね上がった。だって服を買いたい人が増えてしまうとね、綿花を使う服よりいい服とかないのかと気になるわけで。
リネンが他の素材と同等の素材からラグジュアリーな素材に変わり始めたのもこの時期である。
しかし綿花だけ使う紙は圧着せず水に浸して自然と繊維がくっつくようにして作っていたため薄っぺらく、強度もかなり低かった。
なので少し高いリネンを混ぜて紙を作ることになったんだけど、こうすると強度が上がって、結果本を再出版しなくても古い本が出回るようになるから逆に紙の値段は下がってしまうことに。
植物由来なので羊皮紙なんかよりはずっと安いことは言うまでもない。
コットンを重ねて圧着するようになってからは強度があがり、高いリネンを使わなくなってからは値段はさらに下がる。
しかしながらまだ庶民が簡単に手に入るような値段にはならず。
1820年代後半になってからパルプを加工して作る安い紙が使われるようになるまでは少なくとも中産階級ではないと誰かが読み捨てたものを読むということをしていた。
パルプ加工技術が生まれてからは安価で大量に新聞を発行することになり。
19世紀の識字率は上位の労働者階級も読むくらいは出来るほどそれなりに高かったけど、書くのは難しく、ただ難しい言葉がわからないくらいで。
それで需要はかなり高かったのである。
結果、この時代の新聞はコイン一枚で買えるほどの値段となったわけだけど。
ここで少し問題。
今までは紙の値段も相まって発行して売るだけでよかった新聞社。そもそも発行部数量も多くない。
しかしここまで安くなるとさすがに新聞社からしたらただ売るだけでは金にならない。
ここで広告収入を取ることを始めたわけだ。
するとどうなるか。
経済や政治の話を長々と書くだけじゃなく、より娯楽的な要素を求めるようになる。だってその方が売れるから。
小説やコラムの連載も始まるわけで。知ってても面白いけどためにはならない情報とかもバンバン載せる。特に日刊紙なんて毎日そんな面白いことが起こるわけがないし。
「これ、あなたよね?」
イザベラさんに言われて読んでみると。
まさにそのどうでもいい娯楽的な情報が記事が…。
『ドレス姿で馬車と並走する少女現る』
そう隅っこに小さく書かれていたのである。
あまり長い文章ではなかったんだけど、まあそれでも簡単に要約すると。
紫色のドレスを着た少女が馬車と長い時間並走しており、非常に目立っていたとのこと。
この前に自転車と並走していたメイド少女と何か関連性があるのではないかとまで書かれていて。
その名もパープルメイデン。
どこかのご令嬢様でなかったら新聞社にまでご連絡ください、取材をします…。なんて。取材される対価にお金がもらえるってことか。令嬢ならそんなお金はいらない、馬鹿にするな、とか…。
パープルメイデンって、アイアンメイデンの亜種かな。
そんな拷問とかしないし。
「ロンドンは大都会にございます。」
人違いの可能性をさりげなくアピールしてみる。
「テイラー夫人に聞いたわ。仕事の時間に一体どこへ行っていたのかしら。」
無残にも指摘され言い訳の余地もない。
「パブに…。」
「あら、昼間からお酒でも飲んでいたのかしら。はしたないメイドなこと。」
「違います、お酒を飲むためではなく…。」
慌てて取り繕う。
「どこが違うか説明してみなさいな。」
そう言われ返答が出来ずにいるとイザベラさんは上品にうふふっと笑う。
「本当あなたって面白いわね。」
あまり怒っているようには見えないけど、こういう時相手が怒ってないからと調子に乗るなんてことは出来そうにない。
「それで、目的は達成できていて?」
「目的…、アランデールさんから聞いておられたのでしょうか。」
「気になることがあったのでしょう?」
「はい。」
「かえって目立っては本末転倒じゃないかしら。」
「面目ありません…。」
「いいじゃないの。パープルメイデン。」
揶揄われてるのかな。
「はい、パープルメイデンにございます。」
「そこは否定しなさいな。」
どうしろと…。何だろう、いたずらっ子のような、ただのサディストのような…。
綺麗に装飾されたティーカップに手を伸ばしてお茶を飲もうとしたら二人同時に手が動いて。慌てて手を引っ込む。
すると悪い笑みを浮かべたイザベラさんが私のティーカップの方へ手を伸ばして、それを私の口の方へと持ってくる。口のすぐ前に少しぬるくなったお茶が。え?
「飲んで?」
「それはどういう…。」
「舌を出して猫のように飲んでみて?」
やばい…。
やっぱり貴族ってこういうところあるのか…。
「恥ずかしいのかしら。せっかくミスターアランデールに買ってもらったドレス姿で馬車と並走することはできたのでしょう?」
それも出来たんだからこれも出来るという論法?
ただのいじめっ子じゃないの。けどいじめにしては筋が通っているというか、そもそもの原因は私にあるわけで。
本当に言われた通りにするべきか一瞬迷ったけど、主人の手をいつまで同じ姿勢にさせるわけにはいかず、四足歩行する動物みたいに舌だけだしてティーカップのお茶を舐めて飲む。
目でイザベラさんの顔を見ると恍惚としていて…。いやいや、そんな表情するなし。
羞恥プレイを強いられる幼いメイド。
やばいのである。
お茶の美味しさなんて全然わからない。ぴちゃぴちゃと舐める卑猥にも聞こえる音だけが静かな寝室の中に響いてて。
十秒くらいそうしていたところでティーカップをテーブルに戻すイザベラさん。
「それで許してあげるわ。もし記者に捕まることがあっても主人の名を出して逃げていいわよ。それとも、新聞社からのはした金が欲しいのかしら。」
となるとやはりこれはけじめをつけるための儀式みたいなものだったのかな…。そんな規則、聞いたことがないんだけど。
「お嬢様の方がずっと大事です。」
「そう言ってもらって嬉しいわ。」
「恐縮です。目的のことですが、お嬢様にも知ってもらいたく。」
「言わなくていいわ。ローズとマーガレット、彼女たちに逢ったのでしょう?」
そう言われ少々驚く。
「はい、ご存じだったのですね。」
「そう、ミスターアランデールは商会を通してパブリックハウスにも手をつけているの。お酒を納品しているわ。」
それはもしや…。
「リチャード様からしたらアランデールさんはあまり好ましくない人物に映るはずでは…。」
要するに。
遺産を貰ったローズさんにパブの建設を勧めた人は他でもないアランデールさんであり。
彼はリチャードさんにとって母親のような存在であるローズさんが劇場から離れるきっかけを作ったことになるということ。
「都合がよかったもの。彼以上の適任者もいないでしょう?」
カジノ設計のことで話に乗ったのではなく?それと化粧品。
「故意に彼をお選びに?」
「あなたの後見人にもぴったりだったからよ。単にリチャード卿に嫌がらせがしたくてそうしたわけではないわ。ミスターアランデールは後先考えずみんながやっているからと投資に踏み込むような馬鹿ではない、人の話はそれに価値があるものなら誰からのものであったとしてもちゃんと聞く。子供にも優しいでしょう?」
まだあまり会話をしてはいないけど、確かに色々バランスが取れているまともな大人と言う印象を受けた。
「はい、とても好ましい方であると感じます。」
「彼に惚れたのではないでしょうね。」
「年齢的に難しいかと。」
「後二年もあったら保護者の同意を得て結婚出来るわ。知らなかったのかしら。」
は?十二歳に結婚?何気にやばいね、この時代。と言うか最初に年齢なんて言っても覚えないって言ってたくせにちゃんと覚えてるし。
「まだその時期ではないかと。」
「惚れているのは否定しないのね。」
別に惚れてないし。条件がいいから結婚出来たら楽に暮らせるかもとか、お父さんとやりたかったことを彼と出来ると嬉しいかもとか、そういうどうでもいい妄想とかしてただけだし。
「人の心は二十代も半ばを過ぎてから形が出来上がるものにございます。」
「あら、すると私の心はまだ出来上がってないことになるのかしら。それも師匠と言う人からの知識?」
イザベラさんって何歳なんだろう。23歳から26歳の間と言った感じはするんだけど。
「さようでございます。」
「あなたの母親に聞いたわ。それらしい人物と接触したことは一度もないんですって。一体どういうことかしら。」
え…。いつ会ったの…。
「謎は謎のままがいい、そういうことにしておきましょう。」
そう言われると助かる。本題に戻してみよう。
「アランデールさんはこのことに関してどういった考えを?」
アランデールさんが知っててその計画に乗ったとなると、リチャードさんに精神的な打撃を与えることを是としたことになるんだけど。ブルジョワジーが貴族にそんなことをする理由って何?イザベラさんの前で口にしていた革命とかはさすがに冗談だろうし。
「さぁ?ロンドンに住む人間なら誰も表面上ではきれいごとを言うもの。それが出来ないなら品格を疑われるわ。」
マーガレットちゃんは普通に素直な性格だったんだけど、庶民とは感覚が違うということなんだよね。
上流階級の人間は表面上ではきれいごとを言ってて、本音は隠すのが普通と。古い都はどこも同じなのかな。
「アランデールさんが経営している商会は先代のグリーンウッド夫妻ともかかわりがあったんでしょうか。」
今更だけどリチャードさんとアンナさんの苗字はグリーンウッド。
グリーンウッドと言うのは切って間もない、乾かしてない木材を意味する単語だけど、ただの地方、地域の名称にもよく使われている。多分どこかの地方の名称をそのまま使っているのではないかな。
それで、ただの商会の付き合いでアランデールさんはただの引継ぎをしただけと言うならアランデールさんの立場は受動的になるんだからそれで納得がいくんだけど。
「そういうのは本人に直接聞いてみなさいな。いい話題になると思うわ。」
それもそっか。
「それより、彼女、マーガレットね。何か感じることはなかったのかしら。」
まあ、奔放な性格で愛嬌のある顔立ちで、女優を続けたら成功していたんだろうな、とは思ったくらいで…。
違う、イザベラさんが言っているのはそういう意味じゃない。
マーガレットはリチャードさんより年下。つまりリチャードさんの母親であるグリーンウッド夫人が亡くなった後に生まれた可能性が高い。
ローズさんにきつく当たっていた令嬢たちが遺産の相続を許したのも、それを手切れ金とし、貴族家のスキャンダルになることを防ぎたかったから…。
「情婦に遺産が渡ったわけではなく、相続をしたのはマーガレットの方…。」
「あなたなら正解にたどり着くと思ったわ。そう、マーガレットは私生児なの。」
ああ、こういうのをただのメイドが知ってどうするの…。いやまあ、割と深入りはしているんだけど、それも結構意欲的に。だって面白いし、貴族の人間関係とか。
「それに彼女、リチャード卿の初恋相手らしいわね。二人も自然と惹かれ合って恋仲にまで発展して…、ローズに自分たちが腹違いの兄妹と知らされ距離を取ることになった。そんなところかしらね。そもそも身分の差を克服する手段なんて、恋に浮かれた少年少女の間に浮かぶはずもなかったはずだからどちらにせよ実らない恋だったんでしょうけど。」
そう言ってから残ったお茶を飲み干すイザベラさん。
「お詳しいんですね。」
「大切な友人の結婚相手を調べないわけがないでしょう?」
じゃあ私はリチャードさんにとってマーガレットと結ばれない喪失感を埋め合わすために必要な存在と言うことになるのかな。
同じ金髪で、もしかしたら二人が離れた時期の年齢と同じかもしれない。それなら思い入れがあるのも納得である。
「そのスキャンダルを新聞社などに発表することをしない理由は何でしょう?」
「貴族を大衆の餌にさせるですって?冗談じゃないわ。」
あ、これはさすがに本気で怒ったかも。
「申し訳ございません…。」
頭を下げる。
「そうね、肩をもんでもらえるかしら。少し凝ってるの。」
そう言われたのでマッサージを始める。
「そう、そこ。気持ちいいわ。」
立派なものをぶら下げて激しく運動しているもんね。そりゃ肩も凝るってもんですよ。じゃなくて…。
「お嬢様は、サディズムと言う言葉を聞いたことはあるんでしょうか。」
「聞いたことないわね。」
サディズムと言う用語が出来たのはこれから後の時代ことかな。
「サド侯爵のことは…。」
「悪趣味な小説を書いた人のことね。もしかして読んだことあるのかしら。」
読んだことはない。映画は見たことある。見なかった方がよかったと後悔するような作品だった。
18世紀のイギリスでは演劇検閲法が出来てから劇作家が自由な創作をできなくなり、その多くが小説の方へ走った。
そしてその中には際どい描写のある作品、いわば官能小説と言ったものも溢れていたのである。
この屋敷の書斎にもいくつかそういった内容の本があって…。サド侯爵の作品は見たことがないんだけど加虐的に攻める系の作品がいくつかあるし。
と言うかメイドにエロ本の場所とか普通に見られてるんだけど大丈夫かな。
隠してはいる。本棚にある本の後ろにあるので。こっそり読んでみたことも何回かある。いや…、別に飢えていたわけじゃなくて、ただの興味本位で…。
それはもういいか…。
「貴族は下々のものをいじめて楽しむものなんでしょうか。」
そう言ったらイザベラさんは後ろを向いて目が合う。
そして苦笑した。
「貴族のメイドいびりはこんな生ぬるいものじゃないわよ。けど、そうね。嫌な気持ちにさせてしまったらごめんなさい。マッサージはやめていいわ。」
「いいえ、続けます。お嬢様のこと、気に入ってますから。」
「そう…、ありがとう。」
マッサージをしている手にイザベラさんの手が重ねられた。
うん、やっぱりいい人なんだよね。
いたずらっ子ではあるけど。
ちなみにだけど、しばらく後のこと、イザベラさんからポンとお金を渡された。
新聞社から取材を貰う時のそれと同等の金額らしい。
忠誠心に対する対価かな。
全く、律儀なんだから…。
今度戻る時にお母さんにプレゼントでも買おうかな。
それとイザベラさんに何を聞かれたのかも聞いてみよう。
前回は詳しい描写が足りなかったようで。やんわりと指摘されたことは初めてかもしれません。
これからも指摘されるたびに修正いたします。
ご指摘、ご感想、誤字報告、ありがとうございます。




