表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/43

4話 燃える心に下水要らず

 夜。

 なかなか眠りにつけない。

 天井に映る大きな影。

 手を伸ばしてみる。

 気持ちが高ぶっていて、落ち着かない。お茶を飲んだら少しは良くなるのかな。

 こういう時はお酒がいいかも。

 屋敷にいる時は酒は滅多に飲めない。酔っぱらったメイドなんてそれはそれでいいかもしれないけど、さすがにそういうのは特殊過ぎるでしょう。

 お酒を飲んでいい年齢じゃない?どうだろう。

 飲んでないとやってられない!なんて。

 そっちじゃなく、水が固いのである。

 気持ちよくゴクゴク飲めない。それに比べると酒は進む。よく進む。

 それでも下層民はお茶が飲めないからと水を飲んでいた。

 下水が混ざった臭い水でも当たり前のように飲んでて。

 人間だって動物なんだから、知識と習慣がないと拒否反応すらも起きないのかな。

 ただの下水なのにね。

 上下水道を区別するというローマ時代どころか青銅器時代にもあった発想がこの時代になかったのかと言うと、そんなことはないと思う。当時の知識もあるし、ローマなどではまだ古い設備がまだ残ってたし。

 急激に増える人口に都市開発が間に合わなかっただけのこと。そもそも広がる町の範囲などを事前に設計するなどのことをしなかったんだ。だからスラムが生まれて、それを取り壊してまた拡張するなんてことが起こってしまう。

 近代になる前、町とは城壁の中にあるものだった。

 だから現代の都市開発の感覚と中世の都市開発の感覚は全く違うのである。

 城壁の中の限られた場所を使うのが中世の都市開発。

 機能によって分割し、必要なら範囲を広げるのが現代の都市開発である。

 そして現代にいたるまでの過渡期はと言うと、ただ必要によって動かされていて、あまり統制が取れていなかった。

 主に会社がやっていて、国家予算はなるべく使わない方向へ。

 これは欧州だけではなくほぼ世界中のメトロポリスから見られる現象。江戸時代の日本の方が特殊なのである。外国からの大規模侵略を気にしなくてもよかったから?

 中世から近代へと移行する過度期の社会はいつ戦争が起きるかわからない政治への不安と都市部に増え続ける人口の間にいついかなる時であっても幾分かの緊張をはらんでいる。

 そんな中、改めて上下水道の整備、設計をするにはそもそもそこに予算を使う発想は生まれない。

 それはなぜかというと国際社会が完全に無政府主義になっていたから。中世では宗教と言う制約があった。だけどカトリックの権威は以前に比べて強制力なんて微々たるもの。

 敵になったり味方になったりと情勢が変わることはあってもこの無政府状態が変わることはない。

 ならどの方向へ国家予算を使うか。

 最優先順位は軍に。

 他のすべては後回し。これは議会や王様が覆すなんてできるわけがない皆が共有している条件である。啓蒙君主がことごとく失敗をして結局民族主義の方向へ向かったのはこういった背景があったから。

 じゃあ都市開発は国家予算が使われないとどこでやるのかって、会社がやるのである。

 もちろん明確な限界がある。そもそも利益にならないなら会社が自分のお金を使うなんてありえないわけで。

 皆でお金を集めてやるとか、考えられなくもないけど、厳しい身分社会でコミュニティ優先の考え方なんぞそんなに一般的なものでもなく。ただ貴族街などではそのコミュニティ意識が発揮されたりして、比較的にまともに運営されていたけど、それでも都市全体に及ぶことはないから根本的な解決にはならない。

 結局のところ、公共事業をするなら国家予算を大規模に投与しないといけない。しかし国家予算の優先順位は軍備の方へ向いている。

 ここから予算を引っ張ってくるとか至難の業である。それが出来ないからフランス革命が起きたと言えなくもない。

 日本ならどうにかできたかもしれない。それで明治時代からの近代化も早かったのかな。

 なのでヨーロッパ各地の主要都市はベネチアやローマなどの例外はあったけど殆どが汚かったのである。

 飲むものがないなら汚い下水でも飲めと。

 どっかの都市開発ゲームで同じことをやってたら骸骨マークが溢れて都市機能が麻痺して、死体の処理も間に合わなくなって…。

 そうじゃなくて。

 どうすればそこまで腹の中が強くなるのかと。

 下水を飲んでよく全滅しなかったもんだと感心せずにはいられない。

 それともお腹が弱いと早死にして強い人だけが生き残っているとか。

 実際に下層民の子供は腹を壊したら生き残る確率は極めて低かった。下痢が始まったらそのまま死に至るまで秒読みとなる。

 脱水症状が始まるのに、飲めるのはお腹を壊した原因となる水だけ。

 完全に詰んでる。

 お腹を壊した子供にお酒を飲ませるなんて狂気の発想は思いつかなかったのかな。アルコールなんて刺激の強いものがボロボロの消化器官に入ったら余計に脱水症状が加速するか。

 なので下水飲んでも死んでない人間は元から強いということになる。

 そうやって強い消化器官をもつ人間同士が交配して子を産み強い消化器官をもつ子供が生まれるという……。

 そんなにダーウィニズムを体を張って必死に証明しようとしなくても…。

 それに関しての面白い逸話もある。

 下層民の生活を描くチャールズ・ディケンズの物語が流行っていたものだから、ある記者さんが実際はどうなのかと気になって下層民の生活の取材をしたんだけど。

 水がないからと家でもお酒を飲むのかと聞いたら、娘が体を拭くのに使ってた汚れた水にコップを突っ込んでそのままガブガブと平気で飲んで、足を水で洗ってまたそこにコップを突っ込んで飲んで、顔を洗ってまた飲んで。

 「記者さんも飲むか?」

 なんて汚い水が入ったコップを渡されて。

 飲めるかボケ!とコップをたたき割ったんだと。

 いやまあ、本当にたたき割ったかどうかまでは知らないけど、飲んでたら多分記者さんは自分が体験したことを文字に残すことなく死んでいたかもしれない…。

 すると死因は下層民が勧めた飲みものになるのか。

 殺人罪になるのかな。捕まるのかな。

 と言っても限界はある。

 さすがにそんな生活をしてて本当に進化しちゃってぴんぴんしているわけが…、あるかもしれないけど、人間だって割と進化しようと思えばできなくもないので、けど死人が多く出るし、そんな短期間でするようなものじゃないし。

 ロンドン全体の下層民に該当する話ではあるけど、臭い水を常時飲んでいたおかげで下層民の中でコレラの蔓延は恒例行事となっていたのである。

 1831年から翌年にかけて多くの下層民がコレラに感染。

 この時の死者は3万2千人に及んだ。

 次にまたインドから発生したコレラが1846年から1866年にかけて世界中に広まっていた時。

 イギリスでも1853年から1854年に大量に発生し、国内での死者の数は2万3千人に及んだ。

 初回より死者の数が少ないのはやっぱり進化していたから?

 そんなことはない。

 1831年の流行り病はインフルエンザとチフスをも含まれていたのでより多くの死者が出たのである。いわば病気のオンパレード。そんなビュッフェはいらない。一体誰得なんだ。

 環境破壊の原因となる人間が減るから地球の得…?人間はやはり地球にとってのウィルスだったのかな…。

 これ以上考えるのはやめよう…。

 ただこの時は貧困層だけにとどまらずすべての階級の人間が満遍なくかかっていた。テムズ川の臭さも絶望的なレベルにまで達し、いよいよ見過ごせない事態。

 そもそもの問題、古い下水道をそのまま使っていて、下水の処理能力が間に合わない状態をずっとそのままにしていたのである。

 この古い下水道というのはまだ城壁に囲まれた中世に作られたもので、とても狭く、間違っても19世紀の大都市となったロンドンが使っていい規模ではない。

 それでテムズ川がそんなやばいことになっていた状態に洪水が重なった結果…。

 下水道が爆発した。そしてコレラも爆発した。

 汚い水がすべての階級に満遍なく降り注いだ。

 みんな仲良くあの世行き。天使もサタンも死者が増えて大忙し。

 こうなると議会だって重い腰を上げざるを得ない。

 結果莫大な予算を投与しての1858年、大規模の下水道工事が始まったのである。

 と言うか、これ、コレラが流行った時期から4年も後のことなんだよね。

 もしかしたら死を楽しんでいたんじゃないかなと勘ぐってしまいそうなんだけど。

 と言っても下層民は上下水道を分けずにそのまま使っていて、1866年にまた東ロンドンにて再発。

 それ以前から下層民の中では継続的に感染者と死者を出していて、誰もこの状態を解決しようとはしなかった。

 1870年、やっとそれまで会社によって管理されていた水道を国有化し、また工事をして。

 今度こそ問題ない。

 それによりコレラが蔓延することはなくなったのである。

 これから先に東ロンドンがやばくなるって、これのことですよ。やばいでしょう、ずっと住んでたらコレラで全滅とか。想像するだけで恐ろしい。

 だからアランデールさんの提案は渡りに船だったわけだ。お酒の値段がいつまでも安く維持されるなんて期待してお酒に依存するのもね…。

 しかしまだ何も起きてない。

 まだ何も起こしてない。

 私は今まで自分が力がある側だと思ってなかった。何とかしようとしても出来ることはほんの些細なことで。

 何かを起こそうとしても起こすことなんてできないと。

 だけどそうじゃないと自覚できた。

 薄々思っていたより自分が動ける範囲は広いかもしれないと考えてはいたのに。

 今日のアランデールさんの提案が決定的で、私の心を確信に傾かせた。

 イザベラさんが私をメイドにしたのには珍獣を自らの手が届く場所に置いておきたいからとか、今になってはそのように後ろ向きになる理由がない。

 たかが十歳の少女なのに、何がどうなって影響力のある上流階級の人間が二人も話を聞いてくれるようになってて。

 イザベラさん一人の時は、何とかしてぶら下がっているようなものだった。

 掴まっていたのはイザベラ・サドルトンと言う上流階級の女性が気まぐれに垂らした細い糸。

 親の代わりになってくれるわけでもない、赤の他人でしかない。

 それでも握った糸は切らさないと必死になっていた。

 今考えると余計なことを喋りすぎた気がしなくもない。

 まだ二か月くらいしか経ってないのである、メイドになってから、たったの二か月。

 垂らされていた糸は思っていたよりずっと頑丈だった。

 糸を掴んで上った場所から見える景色はそれまでのものとは違っていた。

 やっと自分が生きている社会全貌が薄っすらと見え始めた。

 私の中に今まで感じたことのない不思議な感覚が湧き上がってきた。

 これは、なんだろう。

 支配される側だった。

 何かが決まったら受け入れるしかない側。

 それで作り上げていた、未来予想図。

 それは私にとって家のようなものだった。心の中にある小さな小さな家。

 不思議の国に閉じ込められて、外に出ることはできない。

 それが燃えている。

 自分の中にある後ろ向きな心が焼かれている。

 心の一部が自らを焼き焦がしている。

 そして作り替えられる。

 眠れない。

 結局一睡もできないまま次の日の朝を迎え、最初のレッスンが始まった。

 メイド服ではない、紫色のドレス姿となった。メイドの仲間たちとキャッキャッと騒いだ。

 「女優になっても私のことを忘れないでね。」

 なんて、ローラに言われたけど。ちょっと大げさなんじゃないかな。

 そして少し疲れ気味の私と違って久々に見るリチャードさんは暗い喜びが顔に見え隠れしていた。

 やはり何かある。

 時刻は事前に知らされた、午前10時頃。イザベラさんはフェンシング訓練をすると専門家のところへ行ってるので屋敷に主人がいないのに客が訪問した奇妙な状態である。

 しかし彼も予想できなかったんだろう、私は一人じゃなかった。一階にある広いリビングを使うことになったけど、先に来たアランデールさんが余裕の笑みを浮かべながらソファに座っていた。

 「彼は?」

 「私の後見人にございます。」

 そういうとリチャードさんからすっと表情が消えた。互いに自己紹介をすることはなかった。二人とも互いを知っていて、なぜ彼がここにいるのかという疑問だったのかな。

 リチャードさんも一人で来たわけではなく、30代半ばほどの綺麗な女性が一緒だった。多分女優。

 「初めまして、カトリーヌと言うの。女優よ。引退したけどね。」

 うん、そんな感じだろうと思った。長い茶髪を後ろにまとめていて、口の右下にあるほくろがチャーミング。ちょっと可愛いかも。

 「初めまして、カトリーヌ様、ルミと申します。」

 「貴族じゃないんだからそう固くならないで。」

 それから発声練習とか、姿勢とか、そういった基本的なことを教えられることになった。

 アランデールさんから見守られながらレッスンを受ける。

 「違う、もっと腰を締めつける感じに力を入れるの。」

 ちょっと自然体すぎたかな。言われた通りに腰を引き締めるようにする。

 「こうでしょうか。」

 「そう、その調子ね。」

 リチャードさんは終始無言で、アランデールさんを時折睨んでいた。

 アランデールさんは最初に私が間違えて打たれそうになった時、彼女の手を掴んだ。ソファから少し距離があったのに、一瞬で近づいたのである。これは中々…。

 カトリーヌさんはと言うと腕を掴まれてからぽっと顔を赤らめてアランデールさんに見惚れていた。うん、アランデールさん格好いいものね。

 「保護者が見ているのに子供を痛めつけるつもりかな。」

 すごい迫力。

 「い、いいえ…。失礼いたしました…。」

 リチャードさんが何か言いたげな目でアランデールさんを見ていたけど、彼の迫力に圧されたらしい。動けずにいて、結局体罰はしないことに決まった。

 うん、でも。

 ちょっとよくない流れかも。

 何がって、こんなに押さえつけたら反動が来るに決まってるでしょう。

 これはイザベラさんの計算外かな。思っていた以上にアランデールさんの迫力にリチャードさんが圧されすぎている。

 だからレッスン後に別れの挨拶だけしてカトリーヌさんと馬車に乗って帰るリチャードさんを追うことにした。

 「どこへ行く?」

 すると当然のこと、アランデールさんが止めてくる。

 「彼をこのままに行かせるわけにはいかなくて。」

 「なぜだい?これでいいと思うが。」

 「いいえ、よくありません。」

 「理由を教えてくれるかい?」

 「今はちょっと時間がないので、後にしてくれませんか?」

 アランデールさんは少し考えるそぶりを見せてから。

 「わかった。だが馬車を追うつもりなら足では追いつけないだろう。」

 「大丈夫です。それよりスケジュールがあるのでしょう?アランデールさんこそ大丈夫なんですか?」

 「それはそうだが。本当にいいのかい?」

 私はにっこり笑って速足で歩き始めた。

 アランデールさんが思っていたより早かったんだろう、遠ざかる私の背中をただ目を少し大きく開けて見ているだけだった。なぜわかるって、挨拶を忘れてたので一回後ろを向いて手を振ってたから。

 「今日はありがとうございました!また明日!」

 そう大きな声で言ったのである。

 それに対しアランデールさんは軽く手を挙げて柔らかい笑みを浮かべていた。

 馬車を追うと言ってもすれ違う馬車の見た目なんてあまり変わらない、全部真っ黒で。

 だからいちいち窓を後ろや横から覗いて確認してから。

 見つけた。

 馬車のカーテンの隙間からカトリーヌさんの手をぎゅっと握っているのが見える。てっきりキスでもしているかと思ってたけど、そうじゃなかった。

 そのまま窓から見えない角度を維持しながら目的地にたどり着くまで歩道を並走した。まあ、さすがにちょっと目立ったのですれ違う人たちから見られたけど。私も見ちゃうと思う。走るのではなく早歩きだけで馬車と並走するドレス姿の少女なんて。都市伝説にでもなってしまったらちょっと恥ずかしいかも。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 下水を飲ませるのはハ〇トの野望さんの街かなww 私は良く見てます
[一言] フットマンという職業もありますし併走も不可能では無いくらいの速度なのでしょうね。 とはいえ少女の身では無茶に違いありませんが。
[一言] これが、高速ババアという都市伝説の始まりでした
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ