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19世紀のロンドン、下層民の女の子として生まれる  作者: デイロー
2章 ヴィクトリアンなメイド、ルミ
20/43

10話 カウンセリング、再び


 アンナさんが少しの間ロンドンを離れるということで、二人のお子さんたちと共にイザベラさんの屋敷へ挨拶にやってきた。午後のお茶の時間をイザベラさんと楽しんでて、私は他のメイドたちと食器を運んだりお菓子を焼いたり。

 お茶の時間が終わると庭の前にある一階の部屋に私だけ残されてみんな撤収。

 先日のホテルのディナー以降、メイド仲間たちからの私の出生に関する追及は激しくなったけど、イザベラさんに許可をもらってから言うべきとかそれっぽい言い訳を繰り返してのらりくらり交わしていた。

 それでもいつまで持つか、みんなゴシップに飢えているのである。みんなと言うか、殆ど全員が。数人ほどは全然おとなしいけどね。インド人の女の子とか。

 まあ、それはおいおい。何とかする。きっと何とか出来ると信じてる、うん。

 この部屋にはお茶の時間中にはアンナさんが連れてきたメイドさんも二人いたんだけど、彼女たちは二歳ほどの幼児について隣の部屋へ。

 私だけをアンナさんが呼び止めてきたので残った。

 そりゃ、ただ座っているだけなのに侍従が何人も待機するのはおかしいけれど…、なんで私だけ…。まあ、心当たりはある。互いに話せることもあるし。

 名前が同じで親近感もわく。他人な気がしないのである。

 イザベラさんはと言うと走れる年齢になった男の子と庭で遊んでいた。

 貴族がそんなことをするなんておかしいと思ったけど。

 童心に戻ったかのようにキャッキャッと叫びながら走り回っている姿は政治とか文化とか、そんなのも確かにあるけど、人間と言う存在が持つ普遍的な側面はいつの時代も同じなのかもしれないと思わずにはいられない。 

 私が窓の外を眺めながらホモサピエンスの悠久の歴史に思いを寄せそうになっている時、アンナさんは私と同じく微笑ましげに眺めた視線を私の方をと向けてからこう言った。

 「座ったらどう?」

 「恐れ多く。」

 体ごとアンナさんの方へ向けて答えると。

 「今更?」

 確かにそうだけど。

 「この前は失礼いたしました。」

 「全然そんなことなかったわ。だから座りなさいな。」

 今日は妙に押しが強い気がする。

 まあ、貴族と使用人だし、ヒエラルキー的な意味で彼女がどう出てこようがこっちはそれが極端なことではない限り受け入れるしかないんだけれど。

 「ではまた失礼させていただきます。」

 「それでいいのよ。そうね、今日は前の時みたいに何か聞きたいこととかない?」

 「よろしいので?」

 「よくない理由でもあるのかしら?」

 心なしかワクワクしているように見えるんだけど…。前のサイコセラピー、心理治療がよほど良かったのかな。実は私も面白いと思っていた。だって貴族の精神状態を観察できるんだよ。学者魂をくすぐられるでしょう。学者じゃないけど。

 「ではいくつか質問をさせていただきます。」

 「どうぞ。」

 「前にご訪問なさった時、最初からイザベラ様を頼るという選択肢はお考えの中にあったのでしょうか。」

 「違うと言いたいけれど、そう見えても仕方ないものね。けどね?友人関係で依存なんてしてはいけないって、わかっているつもりよ。」

 「それでも自分ではどうすることもできない状況はありましょう。」

 「人に負担をかけるなんて、最初から考えるものではないわ。自分でしてみてからそれでもどうにもできなくて、最終的に人に頼ることもあるくらいでいいの。」

 「ではなぜお話しなさったのでしょう?イザベラ様がアンナ様のお話を聞いてどのようなことをお思いになるのかは予想なされたのでしょう?助けを求めていたのではありませんか?人は誰しもが助け合い支え合い生きるもの。決して恥ずべき行為ではないはずです。」

 「そう…、だけど。ただ言葉で…、温もりで慰めてもらえるのは期待していたかもしれないわね。」

 なぜイザベラさんがアンナさんが好きなのかって、こういうところなのではないだろうか。

 「ずっと前からそのような関係だったのでしょうか。」

 「そうね、何か悪いことが起きると慰めて欲しくて、それで甘えると…。」

 あ、顔が赤くなってる。話題を変えよう。別に二人のそういう事情を根掘り葉掘り聴きたいわけじゃないからね、ゴシップ記者じゃないんだから。

 「離婚には前向きでいらっしゃいますか。」

 「前向きなんて…、ただ感情でどうにかできる話じゃないのよ、貴族の結婚って…。今のは政略結婚の意味はちゃんと知っているあなたに失礼だったかしら。」

 「お気になさらないでください、ただのメイドの小娘にございます。」

 「ただのメイドの小娘は貴族を相手に上流階級のアクセントを堂々と口にしたりしないんだけれど…。何か事情があってメイドになっているのでしょう?事情を聞いたりはしないから心配しないで。あなたなら人の事情から心の機微を察してそこから何か意味のある言葉を引き出せるとかできるかもしれないけれど、そんな特殊な才能なんて私にはないんだもの。」

 え…、上流階級のアクセントを侍従が使うのっていけないことだったの?別に使いたくて使ったわけじゃなく、相手が貴族なのに荒っぽいアクセントを使うのは失礼かと思ってそうしただけなんだけど。

 それと才能と言うか、別に誰だって出来るものではないけど、それは前提に知っておくべきいくつかの知識だけ知っていて、経験に裏打ちされた直感が働くならそれこそ令和の日本では保健室の養護教諭だって出来るもので…。

 今考えてみるとその手の知識が少しだけハードルは存在するけど学ぼうと思えばどうとでもできる環境って、百年以上も蓄積した学問体系があってからではのもので…。この時代ではその感覚を知っているだけでまるで魔法使いのように見えるのではないかと今更気が付く。

 催眠療法と電気を使う拷問まがいの治療からそれこそ数えきれない事例からの試行錯誤が蓄積し、人の精神の仕組みをある程度は理解できるようになった。それもある程度。まだまだ遠いけど、そのある程度ですらこの時代の通念からしたら山のように高いものではないだろうか。

 「どうしたの?急に黙っちゃって。」

 いかんいかん。話の途中で考え込むのはよくない。

 「感情的な理由だけでいいでしょう、心を壊してまででも続ける価値があるものなんて、人の歴史を見てもそう多くはありません。大抵は破局で終わってしまいます。悲劇から人が得るべき教訓と言えましょう。」

 ここで私が心、に使った単語はmentalでもmindでもなく、そのままのheartである。

 アンナさんそれに頷いてから答えた。

 「それがあなたの考え方なのね。珍しいわ。神様でも魂の救済でもなく、心を話す人なんて。初めて見るかもしれない。」

 「異端である自覚はございます。」

 「そこまでのものじゃないでしょう?大げさに考えなくていいのよ。プロテスタントは人に信仰心を押し付けたりしないから。」

 それは…、今の時代はそうかもしれないけど。図々しくプロテスタント理念を押しつけてくる連中って、実はプロテスタントの起源から考えるとかなりずれているんだよね…。

 20世紀後半から21世紀初頭に至るまでの過激なプロテスタントの連中が闊歩するアメリカを考えて遠い目になりそうになるも近くに行儀よく美しい姿で座っているアンナさんに焦点を合わせる。彼女と話すときはずっと目を見て話すようにしていた。柔らかい目元と緩く曲線を描く眉を見るといかにも温厚な印象を受けるけど、目を見つめ返してくれる彼女は決してただ柔らかいだけの人物には見えないのである。

 と言うか、普通にこの時代にもエヴァンジェリストとかいるし。イエスこそが救いであるなんてことを他人にも言わせるエイミーちゃんとかいるし。

 イギリスのエヴァンジェリストは実はキリスト教シオニズム運動の源流ともなってて、後々エルサレムを中心としたパレスティナ地方に新しくユダヤ人の国であるイスラエルを立てることを是とした。諸悪の根源なのではと思わなくもない。

 「アンナ様が乗り気でなかったんでしたら勝手におこがましいことをしてしまったことになります。それでも提案を受け入れました。それはイザベラ様への信頼故でしょうか。それとも…。」

 ただ自暴自棄になっているだけなのか。そう直接聞くことはためらわれたけど、アンナ様は何となく察したのだろう、返答をする。

 「私だって貴族の端くれよ。自分のことは自分で何とかする。それくらいも出来ず貴族を名乗れるものですか。けど…、可笑しな話よね。結婚をしてしまうとね?何もかも夫に聞いてから決めないといけないの。女はただ自分に課せられた役割を全うするのみ。自由なんて存在しないの。一人で離婚の準備をするなんて考えたことすらなかったわ。犠牲にしなければならないことが多すぎるもの。浮気の証拠を集めるとか、本来は自分でするべきだったんでしょうけど…。」

 彼女は最初からそれなりに気づいていたようである。女優を家に連れてきたこともあって。食事も一緒にしたことがあるんだという話をイザベラさん宛てのアンナさんからの手紙越しにしていたことを知った時私の呆れは天井を突き抜けた。

 しかし女優を一人だけ連れてきたのなら人に言えるけど、劇場の主が何人もの女優を連れてきて親睦を深めることはそれだけ見ると身分を気にしない優しい貴族に見えなくもない。

 家の中で致したりする様子もなかったようで…。一体何がしたいのかわからない男である。後で絶対聞き出す。面白い話が聞けそうだし…、別に彼を破滅させたいわけじゃないから、もし可能なら色情症を治してもらって…、少なくとも浮気にならないように妻だけを見るようにしてもらうのはできるかもしれない。傷ついたアンナさんではなく再婚相手になりそうだけど。

 「両家が繋がることによる利益を無に帰すことを危惧してでしょうか。」

 頭の片隅でそんなことを考えながらアンナさんの話をそう繋げると。

 「貴族に生まれたならそれは受け入れるしかないものだわ。よく知っているわね。」

 笑みを浮かべながら言うアンナさん。少し含みのあるその笑みにドキッとする。

 もしやイザベラさんからアンナさんに私を探るように言われたとか…。

 そんなまさか、直接聞けばいいのに何でこんなややこしいことをする必要があるのか。

 それとも本当にあるの?あると思い込んでるとか?そろそろ色々誤解を解かないと不味いけど、逆に誤解を完全に解いてしまうこともリスクが高い。

 最初に考えていた言い訳は噓八百を並べることになって、今はイザベラさんとは互いの表情や空気をある程度読めるので、最初のころと違って嘘が嘘である事実がバレる可能性だって高くなってるし。

 どうしてこうなったのやら。

 「はい、具体的にどのような結果が伴うのかある程度は理解しているつもりです。」

 「じゃあ言ってみる?」

 「はい。離婚をすることで両家で不利益が発生するのは当たり前となりましょう。信頼関係を一度築いてから崩すもので、その負担は相当なものとなりましょう。教会に支払う莫大な金額はどちらの家からしても遠慮したいはず。それを知りながら離婚を前提に付き合いに折り合いをつけるなんて無理な話となりましょう。」

 「そう、ふふ。本当、ここまで詳しいなんて、どの貴族の子でもいざ口にしようとするとどこから話せばいいのか迷うもののはずよ。きっといい先生を持っているんでしょうね。」

 まあ、百七十年ほど後の人類文明全体が私の先生みたいなものだから、いい先生と言えばそうだけど。あ、これは使えるかもしれない。嘘はついてないもんね。

 「はい、とても素晴らしい先生でした。」

 「ええ、私も是非会ってみたいものだわ。」

 「それは難しいかと。」

 「そう…。それは残念だわ。」

 あっさり下がるアンナさん。イザベラさんなら巧妙に食いついて知らず知らず情報を漏らすところだったけど、アンナさんはそんなことをしないはず…。しないよね?

 「続きを話してもよろしいでしょうか。」

 「続きね。治療の続きでいいのよね?」

 「どのように受け取っていただいても構いません。離婚をする時に失うものは結婚を継続している時に失うものより大きいと感じていらっしゃいますか?」

 「そうね…、だから愛をはぐくむようにみんな頑張っているのよ。政略結婚でもどうにかして互いを好きになれるよう、譲り合って配慮して…。それで愛が生まれることを期待して…。これは前に言ったものね。」

 「感情的なものでしょうか。」

 「感情?そうね、感情を言っているのなら感情であってると思うわ。」

 ここだ。ここに彼女の行動を説明できる糸口がある。私は一気に畳みかけた。

 「アンナ様はその感情を失うことを恐れていたのではありませんか?自らの感情を失いそうな恐怖に突き動かされ、アンナ様に感情を取り戻してくれそうな人、イザベラ様に甘えることを考えました。抑えなくていい状況になった途端、抑えることをやめることにしました。それはアンナ様の心が悲鳴を上げていたからではありませんか?」

 「そう…、そうだったのかも…、知れない…。」

 少しだけ黙って考え込むアンナさん。

 反応を見るに的中している感じかな。別に攻撃をしたとかじゃなく、自分に自分が知らない自分の行動のもとにあるものをわからせることはサイコセラピーの醍醐味なのである。

 アンナさんの考えが終わるまで待っているとイザベラさんが四歳ほどの男の子…、名前は聞いてないのでわからない。

 女の子の服を着ているんだよね。

 ウィンストン・チャーチル首相も幼児のころは女の子の服を着て髪を伸ばしている写真が残っていて、この時代はそれが割と一般的だったと言うか、21世紀でも普通にやってる人とかいたし。いちいち男の子扱いすることなんてして、男の子が男の子の遊びをしたいと燥ぎ回ってたら死んでしまうとか普通にあって。

 割と切実。

 幼児死亡率が高い時代の生存戦略である。

 心理的と言うか、政治的と言うか、とにかくその手の理由もあるのだけれど。

 主に家の中に男性の役割が増えると男性の役割的な意味で家の中で政治的な衝突が起きてしまう。男性の男性性を抑圧するのには政治的衝突を避けたい気持ちも多分にある。有史以来戦争の最小単位である男性だけが政治の主体だったし。

 これは文化圏関係なく一般的な人類全体の話。

 それでそんな不本意な女装をしている幼児がイザベラさんとかけっこをしてからイザベラさんに抱き上げられてこっちを見た。母親が気になるのかな。

 イザベラさんは私が断固反対をしてからはありとあらゆる下に膨らませる系のものは着用していない。服も燃えやすいような素材は着ないようにしてて。コルセットの締め付けもゆるゆるで。

 この時代の貴族女性にしてはそこそこ型破りの状態。少し前まで社交シーズンだったため、イザベラさんのその姿はそれなりに注目されていたようだった。

 イザベラさんも社交パーティーなどがあった日には夜に屋敷に戻ってきてから、彼女をあまり好きではない人たちから嫌味を言われた時に女性が身に着ける重苦しい服の危険性を淡々と説いたことを冗談と皮肉を交えて語っていて。

 美容に関しては理屈だけではどうしようもできないことは確かにあるにはあるけど、さすがに命に関わることを、主に私が説明した内容をそのままに社交界で言いまわっていたらしく。

 まだ19世紀も半ばに入ろうとしているところなのにそれらの身に着ける系のものがなくなりつつあるのだと。

 イザベラさんの力って、ちょっと想像していた以上に大きい気が…。それともみんな嫌々着ていたものに対して着なくてもいい理屈を提供され解放されただけ?

 ジャンヌの呪いではなかったのか…。それとも理屈で呪いに打ち勝った…?

 初めて本格的に歴史を捻じ曲げた衝撃は脊髄を駆け抜ける電流をもたらした。

 これで私も歴史改変系知識チートの仲間入りになったのかと。

 そんな取り留めのないことを考えていたらようやく心の中に整理がついたのか、アンナさんが口を開いた。

 「そうね、前向きだと思うわ。離婚のこと。耐えるなんて出来そうにないもの。」

 なんか再起動してそのままOSまで変わったかのような新鮮さをまとっているんだけど。思った以上の効果にこっちがびっくりですよ。

 「それはよかったわ。」

 そう言ったのはイザベラさん。いつの間にか窓のすぐ外に立っていた。

 気配を消して近づいてきたのか。さては達人だな?

 いや、私もどうでもいいことを考えていて、注意が彼女に向いてなかったのでわからなくて当たり前か…。

 「イザベラ、ジェームスと遊んでくれてありがとう。」

 ジェームスと言うんだね。当のジェームス君はちょっと疲れたのかイザベラさんにもたれかかっている。いや子供の方が元気に走り回るものでしょう、なんでイザベラさんの方がけろっとしてるんだろう…。

 「いいのよ、いつでも。」

 笑顔で微笑みあう雰囲気が正反対の麗しい若い貴婦人二人。絵になる。

 「今回も彼女に色々としてもらったわ。」

 「褒美を取らせないといけないわね。」

 「何がいいかしら。」

 「主人のためとなるのがメイドの務め、褒美はお二方の笑顔で十分にございます。」

 「こんなことを言っているけど、どうする?」

 アンナさんのその言葉に。

 「人の労働にはそれに見合う対価が伴うべき、それがプロテスタントの教え。私たちの信仰を否定するなんて、見過ごせないわね。」

 イザベラさんが勢いよく乗っかる。と言うか窓を飛び越えちゃってますよ。パルクールか。ジェームス君まで片手で抱えて…。

 「そんな異端には…。」

 「ええ、お仕置きをしないとね。」

 え、何、二人して、手をワキワキと動かしながら近づいてきて。

 この後めちゃくちゃくすぐられた。

 ぐったりした私は隣でウトウトし始めたジェームス君とソファの上で脱力したままぼんやりと天井を眺める。装飾された天井の美しさはいつ見ても飽きない。

 本当…。

 恐るべし…。

 近代貴族…。

 


いつも誤字報告ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 人類史が先生と言うなら、この作品とデイローさんは自分にとっての近代ロンドンの先生ですね。 楽しく学んでいます。
[一言] 更新お疲れ様です。 人を助ければ助けるほどドツボ(&泥沼)に嵌まっていく気が・・・・ まあルミの先進的な思想を許容してくれるあたり、イザベラも大概な貴族女性ですが(^^;; 次回も楽しみ…
[一言] 誰かーコミカライズしてー買いたいー
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