2話 水がないならお酒を飲めばいいじゃない
自動化がそこまで進んでない工場で働くのは子供でもできなくもない。というか、蒸気機関はこの時期にはほとんど使われていない。石炭は石炭を燃焼させたときに発生する石炭ガスを主に富裕層や貴族のところへ送るために使われている状態。
なので工場は自動化されている状態とは程遠い。
と言っても工業化は進んでいる。これが一体どんな状態かというと。
割と産業革命=経済成長という等式が普遍的なもののように思われがちだけど、実際にイギリスが大英帝国としていきり国でいられたのは植民地戦略による面がずっと大きかった。
インドから入ってくる綿花の量が徐々に増えて、それに合わせて工場の数も増やされた。
それで綿花の輸入量が増えると港も繁盛するわけだ。すると港の労働者を管理したり、貨物の審査をする人たちの懐も潤うことになる。
その人たちが主にここらあたりで行き来している消費者となって局地的な経済を支えている。労働者の賃金なんて、あってないようなもの。
産業革命は経済成長と直接つながるものではないという話だけど。
実際にせっかく昔のロンドンに生まれたんだからと、いろいろ町を見て回ったからわかる。
蒸気機関で動かされるのは作業ラインの中でもごく一部でしかなく、ほぼ労働者たちが体を動かしてやっていた。
ただ生産工程全般は機械による部分が大きく、その動力源として蒸気機関が使われてないだけで、例えば1858年に発明された有名な(?)プラットの綿紡績機はスチームで起動されるわけではなく人力でやる。下に踏むペダルがあって、自転車のチェインのように繋がってそれを何十人もの人間が踏みながら動かしていた。
もっとこう、チャーリー・チャップリンの映画に出てきそうな雰囲気の工場を予想していたんだけど、そうじゃなかったのだ。
産業革命とは言うけど、それは機関によるものというより、工学的設計を用いて大人数が生産工程に細分化して参加するような感覚に近いと思う。
「そこのお前、何をやってる!」
やばい、窓越しに見てたら監督をしている人に見られた。
そそくさと撤退して、今度は別の工場へ向かう。いやまあ、無料で見学できちゃうわけでしょう。リアルなスチームパンクですよ、こんなの見ないと損ですって。
というかひどい環境で生まれた私に少しは美味しい思いをさせろください。
それで工場ごとに似たり寄ったり、ということはない。機械の設備が違ったりするので。
設計している人が違うこともあるだろうし、工程の一連の流れもどっちがうまくやっているかなんてやってみないとわからないからなのか、そこにも違いがある。
作業ラインでも単純な仕事は子供の比率はやたらと高い。
繊細な作業になると女性が、力仕事は男性が、といった感じで、割としっかり適材適所で人を配置しているのだと感心したものだ。
一昔前にラッダイト運動があったのはその分業化に耐えられなかったから。
それまでは一連の流れを一人一人がワンオペで、自らの生産物を自分の目で確かめることができた。やる過程も自分で決められたし、職人技を要した。
そうやって自分で決められたものだったのが、みんな集まって使う機械でやるようになってしまったのである。それを壊したかった職人の気持ちが何となくわかる。
別に蒸気機関に喧嘩を売ったのではない。工学が職人を追い出したのである。
科学ではなく、工学。
ちなみに産業革命の恩恵を一番多く受けて世界の覇権まで握るようになったのはイギリスではなくアメリカである。
本国に産業発展に必要なすべての主要資源が豊富にある条件とか、神に愛された国だと自称するだけある。
それで労働者がやること自体が単純で、一日中ずっと同じ作業をする。
それは現代とあまり違いなんてないかもしれないけど、この時代だと普通に死ぬまでやらされる。
それこそ一日20時間とか。それでも都心部に流れてきて、それでもしないと明日食べることも賄えない状態となってしまうわけだからやるしかない。
熟練工になると食べることには困らないようだけど、都合よく入れるのかって話だし。
まだ七歳の私ももちろん労働に駆り出されるのが当たり前。
実際に働いている。宿屋での下働き。
住んでる場所でもある。
港付近にある安値の宿屋にある一室。母親と一緒の部屋である。客を受けて、そのまま娼婦と性交をするという。やりたくなければ別の宿へ行く。
娼館も兼ねている宿と言ってはいるけど実質ほぼ娼館。
母が仕事をしている時は私は外で時間をつぶすか何かしら仕事をする。
何をするのか。それまでは考えずに言われたことをやっていたけど、前世を思い出してからは自分でやれることをやってみることにした。
ここの衛生状態は最悪で、慣れているはずなのにかなり苦労した。
だけど、不思議なことに人々が話を聞いてくれる文化があるので言えば聞いてくれる。同じ階級というか、同じ穴の狢だと、一方的に命令を受けるような雰囲気ではあるけど、こっちが何かを提案するとそれが通るのである。
例えば「布団は定期的に日の当たる場所に干した方がいい」とか。七歳の子供なのに信頼されて、じゃあやるかって、なるのは予想外だった。実をいうと、それまではほとんど話さない生活をしていたようだ。
性行為が日常の一部となっている環境自体が衝撃的すぎて話すことすらままならなかったのかななんて、今の私にはわからないけど。
別に私がやっているわけではないのに、雰囲気自体がどんよりとしていて、重くのしかかっているようなものに圧迫され続ける感覚があった。
明るくふるまう人なんて、下層民には子供でもいない。私も同じで、それまではほとんど喋らず黙って言われることをやっていただけだった。
それが自分で話すものだから、聞く気になったのかなと最初は思ったけど。
そもそも話が通じるような環境だったと、改めて実感したのは子供でも大人の事情を話して、子供がそれに疑問を提示したら聞いて、それに回答をするのが当たり前にならないと、知識とか、人間関係とか、全部消えてしまうのを感じたから。
下層民だって人なのである。人は人と向かい合って生きるものである。
そんな単純なものだったという話。別に心温まるようなことは滅多になかったけどね。
まだ産業革命が佳境に入っていない状態なこともあって、都市部の人口は爆発的に増えてはいるけど工場から有毒ガスが大量に吐き出されてはいない。
まあ、でも、ロンドンの天気なんて一年の半分はどんよりしているので。
だから布団を干すといっても、直射日光なんて残り半分で何とかして危険な領域の、いわゆるロンドンスモッグに発展したのは1873年だから、まだ時間はある。それまで生きていられるかは疑問だけど。
床を磨くこと自体をやっていないことを知った時はびっくりした。
汚れがこびりついてあっちこっちが大変なことになっている。なぜこうなるまで放っておいたのか聞いてみると。
布は高い、水は汚い、貴重な石鹸を床磨きなんぞに使えるか、磨くとしても結局汚れる…。じゃあ外で排泄物とか踏んでここに来るとそれはどうするの。
そのために前にカーペットが置かれてある。
カーペットと言っても、かなり使い古されているような感じがするものだった。いつから?この建物を購入した時期からだと聞いた。
ちなみに私が話し相手にしているのはここで客がトラブルを起こすとそいつらを追っ払う、暴力団みたいなことをやっているおじさんである。
不思議なことに組織だったギャングはいない。
いや、不思議でも何でもないか。そんな目立ったら国が徴兵するので。そういう時代である。
使える材料は少ない。灰と酢くらい。それかクジラの油とかもあるけど、これで床を磨いたら滑りやすそう。
灰は結構簡単に手に入れることができる。問題は水。貯水槽では体を拭くようの水にも足りないくらい。
諦めたくなる。詰んでるよね、これ。そう思って外へ出て、入り組んだ路地裏を歩いていたら強面のおっさんとぶつかった。
なんだお前は。
一度死んだ記憶があるので怖くもなんともない。
今あまりいい気分じゃないから。どいてくれない?
そう言ったら殴られそうになって避けたら勝手に転んだ。やはりこの体、絶対何かあるよね。
私は転んだ男が腰にぶら下げていたお酒を手にしてそのまま走った。男はついてこようとおい、待て!なんて叫びながら走ってきたけど、私より全然遅かった。
酒、酒ね。ここは本当にどうしたものか。お酒がめちゃくちゃ安い。それはもう安い。例えると前世の一本で10円くらい?
多分、エンクロージャーで労働者を都心部に流入させて、農地改革を起こして、収穫量も増えたけど作物の値段は決まっているからその値段で取引するために捨てることはせずにそれをそのままお酒にして都心部に安価で入荷させているんじゃないかって思うけど。
うん。
水がなければお酒を使えばいいじゃない。
逆に水より磨きなどには使える気がするし。




