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19世紀のロンドン、下層民の女の子として生まれる  作者: デイロー
2章 ヴィクトリアンなメイド、ルミ
19/43

9話 一本釣り


 初めてイザベラさんと向かい合ったまま馬車に乗る。少しだけ緊張している私とは対照的にイザベラさんはまるで普段と変わらない。

 「これからのことが気になるでしょう?」

 少し迷ったけどここは正直に答えることにした。

 「はい、よろしければお嬢様のお考えをお聞かせください。」

 するとイザベラさんは淡々と計画を説明してくれた。アンナさんを裁判のスケジュールが決まる二か月後まで実家に避難させる。子供たちも一緒に。

 理由はそんなに重要ではない。リチャードはアンナさんにあまり気をかけているような状態ではないので、彼が納得できる理由なら何だっていい。

 それでも彼の注意がアンナさんに向いた場合、計画がバレたり彼が衝動的に動く可能性もある。

 と言ってもお嬢様は何らかの形で直接的な被害を受けることより間接的にスキャンダルが起きて全員が最終的にボロボロになる状態を危惧しているようだけど。

 リチャードは軍にも入ったことがなく、力任せに何かをするような性格ではないので彼自身がイザベラさんを襲撃するとか、そういうことは起こらないと思われる。

 体格はそこそこ大きかったけど、腕や足は筋肉がたくさんついているようには見えなかったし。

 何よりイザベラさんを身近で見ていてわかる。

 彼女には漂う、この人を物理的にどうにかしようと考えるのは間違っていると思わせる威圧感のようなものを、彼には感じなかったし。

 問題は彼が社交界で醜聞を自らの意思、もしくは衝動的な行動の結果で広げてしまう可能性にある。

 四千ほどの家が爵位を持った貴族であるイギリスだけど、人口の全体からしたら微々たるもの。

 一人が目立った行動をすることで民衆の印象は決まってしまう。特権を持っている支配階級の一員なんだから好き勝手にできるのではないかって、そうもいかないのである。昔ならともかく、そんなことをしていい時期ではない。

 それはなぜかというと欧州各地で旧体制に対する反対運動が行われている状態にあるから。

 と言っても反対勢力が大規模で反発をしていたとかではない。国民全体の体制に対する信頼は高かった。対外的に負けなしで、膨大な植民地を所有しており、経済も順調、科学技術による発展は生活を豊かにしていて、中産階級の財産も増える一方。

 なので体制に対して何らかの形で不満を持っていたのはイギリスでは少数派だったのである。

 だけど進歩し続ける社会の中では、ナポレオン戦争にて主導的な立場の自由民主主義側と対立していた。

 しかしそうなってしまうと古い思想の価値を高める必要がある。古い思想でも古い体制でもいいことが出来る、貴族だからと特権をひけらかしたりはしない、とアピールしないといけない。

 実際に成果まで出していたことからイギリスならではの特殊性が垣間見れる。

 公教育を主張したのも社会改革の一部主導した勢力が熱狂的なキリスト教信者であるエバンジェリストなのはイギリスくらいである。

 近代的なカトリック公教育と言えばマリア像と少女たち…。いかん。英国面ではなくオタク面に戻るところだった。

 まあ、こんな風に、この独特な思想体系の影響は近代化を目指した時期にイギリスの影響を多く受けた日本にも少し広まっているわけで。

 貴族も同じく自らの思想や行動原理にストイックさが入ってて。

 下層民が勝手に遊戯を盗むことを許せないほどの自尊心はあるけれど、自らが醜聞を広げるようなことを許せるような状況ではないというわけである。

 これは貴族だけの話ではなく、国の最高統治者である国王にまで及ぶことであったんだけど。 

 ヴィクトリア女王陛下が即位するかなり前からイギリスの絶対王政は実質的な限界を迎えており、王は自ら国政全般に指図をすることはできず議会で出された意見をまとめて方向性を決めるだけに自らの権力を制限していた。

 それにはイギリス王室の最大の汚点とされる遺伝子疾患の問題も大きかった。王家は血筋を過度に増やさないように気を付けていることから度々近親婚が行われており、結果、固有の遺伝子疾患を持つようになった。

 ジョージ3世も(1760年から1820年まで在位)在位期間中に遺伝病が悪化し、狂暴に振る舞うようになったことで息子のジョージ4世がウェールズ公と言う地位を使って摂政をしていたほどである。

 ちなみにこの遺伝子疾患が最悪の形で出たのがヘンリ8世である。

 このようにイギリスの支配階級は割と切羽詰まった状態で、ジェントリーなどの階級の立場が彼らが持つ富が増えることで上昇し、ブルジョアジーは言うまでもない。

 しかもウィーン体制はかなり危機的状況に陥っていて、それまである程度は緩かった雰囲気すらも引き締まることに。そう、まるでコルセットのごとく…。

 イザベラさんが前に言っていた、ヴィクトリア女王陛下が即位してから窮屈になっているという話にはこのような背景がある。

 ウィーン体制の崩壊まで秒読み状態。そして欧州各地に繋がりを持つ王侯貴族。

 こんな大事な時に、色情症の男を刺激するとどうなるか。

 うん。絶対に醜聞になるような何かが起きる。

 しかし貴族社会全体が被害を受けるなんて許せるかと言うとそんなはずがない。

 たかが男一人に惑わされるくらいならと。そしてその状況を引き起こした人がいるということなら。

 個人が持つ限定的な問題にして社交界全体から排斥されることになるだろう。

 それも下手したら一生の間。 

 だから念には念を入れる。

 「そこであなたが彼の注意を引くのよ。」

 はて、私に一体何の役割を期待しているので。首をかしげると。

 「あら、可愛いわね。」

 頭を撫でられる。違う、そうじゃない。

 「何をしたらよろしいのでしょうか。」

 「よこせと言われてよこすなんて、そう虫のいい話なんてあるわけないでしょう?」

 あ…、何となく察した。

 「あなたが行くのではなく彼を来させればいいのよ。」

 「浮気と疑われるのではございませんか?」

 「ふふ、そう思う?」

 まあ、何か策があるとは思うけど、そんなに貴族を長く見ているわけじゃないから彼らが持つカードとかわからないし。

 結局答えは聞けず馬車から降りる。

 ビジネスホテルとかそういうのを想像していた私の目の前に広がるのはヴィクトリアン様式の大きな建造物。

 まあ、時代的にあってるけど。アーチを描くベランダ、美しく装飾された柵のあるベランダ、そして綺麗な柱が並ぶベランダ。

 別にベランダだけではない、建物全体が装飾が凝ってて綺麗だったけど、ベランダがとにかく綺麗。

 ガス灯の光に照らされるその姿は童話を思い出す。大きさも地上六階?屋根のところに窓が二重にあるのでそれが六階目なのか五階の上部なのがわからない。

 貴族が泊まるにも遜色がない気がする。

 見惚れていたらイザベラさんがクスクスと笑った。

 「気に入ったようね。」

 「はい、とても、美しいと…。」上に向けていた視線をイザベラさんのところへ戻しながら恥ずかしさを隠すように小さい声で言ってしまう。

 「年相応なところもあるじゃない。」

 何も言えなくて俯いてたらポンと肩を軽くたたかれた。イザベラさんの手ではない。

 「また会ったな。」

 そこにはすました顔のリチャードさんが…。アンナさんが彼の少し後ろを歩いてくる。

 「ごきげんよう、リチャード卿。」

 「お招きいただき感謝します、レディ・イザベラ。いい夜でありますな。」

 「ええ、素敵な夜ですわ。」

 リチャード卿はイザベラさんより社交界での立場は下のようでイザベラさんより丁寧な英語になっている。彼の爵位は確かヴァイカウント。アンナさんはヴァイカウンテスで…。

 あまり気にしていなかったけど何かそれで序列みたいなのは一応はっきりしているのかな。そんなかしこまっている感じはしないけど。

 と言うか私を挟んだ状態のまま挨拶を交わしていいのか、気になって仕方がない。

 中に入ってそのまま食堂まで行くとたくさんの客が食事を楽しんでいた。身なりからして全員上流階級なのが分かる。

 繫盛しているようで。

 メニューを見て選ぶとかじゃなく、ウェイターを呼んで注文する。前世でも経験したことないよ、こんな高級レストラン。せっかくだからイギリスじゃなくフランスならよかったけど…。

 「ここのシェフはフランス出身ですの。」

 あ、そうですか。もしかして貴族でも自覚があるのかな。フランス料理の方が美味しいということの…。いや、貴族だからこそ自覚があるのか…。

 「ルミは何にする?」

 イザベラさんのいたずらが炸裂。メイドの小娘は大ダメージを負った。

 いや返答に困るって…!ここで思い切って一番高いので!とか言えるわけないでしょう、そもそもこんなところで定番として出される料理名とか知らないし。

 「ご主人様の意向に従います。」

 結局そう言うしかなかった。

 「牛肉の煮込みスープとかどう?」

 フランス語の料理名がきっとあるはずなのに私がフランス語知らないの知ってるからあえて変えて…。

 「はい、よろしければ…。」

 「イタリア語は話せるのではなかったか?」

 リチャードさんが私を見て言う。

 そう、イザベラさんではなく私に、メイド風情に言ったのである。つまり彼が私を話し相手として認めたということで、イザベラさんが話を進めやすくなった。

 「日本語なら話せます。」

 「またそれだな。知ってるか、ルミは13世紀のイスラムの文豪の名前だぞ。誰かに揶揄われたんだろう、それとも親が悪趣味だったか。」

 知ってる。自分の名前を検索してみたら出てびっくりしたんだから。と言うかこいつ勝手に人のことを…。

 「日本語にございます。」

 けど上位の者に怒るなんて出来るわけがないから淡々と答える。

 「主人を通さずに言うには失礼ではないかしら。」

 イザベラさんありがとう、やっぱり持つべきものはいい上司だね。

 「メイドと同席するとは思えず。」

 自分から話しかけといてそれはないよね…。

 「女優の卵じゃなかったの?」

 「まだ答えは聞いてない故。」

 「その話は最後に致しましょう。本題はそれではないでしょう?」

 しばらく待つと食事が出てきて、美味しく食べた。食事に夢中だったわけではないけど、ホテルで劇場の予約をするようにする、劇場のスケジュールを事前に伝えてもらうなんて話。

 そう変わったものでもなかったし。二人とも事務的な態度だったし。

 アンナさんはずっと無言だった。

 デザートが出て話がひと段落したころ。

 「ところでなぜ妻を同席させる必要が?メイドの話し相手にもならなかったと思いますが。」

 「彼女とも関係のある話ですわ。」

 「聞きましょう。」

 「今の季節は湖が美しいのは知っていて?」

 「水溜まりの間違いでしょう。」

 何の話をするのかわからなくてアンナさんを見ると。

 「実家の敷地内にあるの。」

 リチャードさんは事務的な表情のままアンナさんを横目で一瞬だけ見てからイザベラさんに視線を戻した。

 「社交シーズンが終わってまだ時間も経ってない。客の対応があります。」

 「列車に乗っていけばすぐでしょう?」

 そう言われアンナさんを見るリチャードさんの表情は硬いまま。

 あまり乗り気じゃないようだけど、イザベラさんの読み違い?

 「彼女一人で行けばいいのではなくて?子供も一緒がいいかしら。」

 そうイザベラさんが言った途端彼の口元ぴくっと動いた。

 「実家へ戻りたいのか?」

 リチャードさんが視線はイザベラさんに固定したまま聞くとアンナさんがデザートの果物のジェリーを一口食べてから答えた。

 「ええ、少しの間だけで構いません。」

 リチャードさんは横目で少し呆れた顔でアンナさんを見た。自分の口でそれを言えず人に頼ったのか、と言った感じである。

 「その間に彼女の指導をお願いしたいのだけれど。」

 「それででしたか。」

 リチャードさんがそれを聞いてほんの僅かに笑みを作った。あ、これはあかんやつや。

 「ええ、場所は我が家で。お願い出来るかしら。」

 これは予想外の提案だったらしい、また固い表情に戻った。

 「理由を聞いても?」

 「若い男性が一人いる場所にメイドを向かわせるとよからぬ噂が立つかもしれないでしょう?」

 「私が直接指導をするのをお願いするということではないでしょう、監督するだけなら私の家でも構わないと思いますが?」

 「見ているつもりはないの。それでもよからぬ噂が立つものでしょう?妻がいない間に令嬢が一人暮らす家で…、ね?」

 「なるほど。」

 また僅かに笑むリチャードさん。一体何を想像しているのか、知ったら後悔しそうだけど気になる。

 「どうかしら。」

 「それで良ければ。」

 少しだけ不安になってイザベラさんを見るとウィンクをくれた。あ、今のいいかも。リチャードさんは視線をイザベラさんから私へ移している。獲物を狙う捕食者かな。別に今から何かをされるとかではなくて。

 あれだ。

 光源氏計画。

 いやいやいやいや。

 まあ、そんなリチャードさんが思っているように運ぶわけがないけどね。

 むしろ…。

 そう。

 罠にかかったのは彼の方である。

 


いつもありがとうございます。なぜかあまり疲れないのが不思議です。経験上、こんなに書き続けると気力が削れるのに全然そうじゃなくて。


読者の皆様からの何かしらのパワーでも貰ったのでしょうか…。

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― 新着の感想 ―
[良い点] イイね、ゾクゾクする。 完結まで、御自愛ください。
[一言] ぬふふふ… 上手く罠にかかりそうですね! 更新ありがとうございます。
[良い点] ういんく [一言] さぁ狩の時間だ!
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