8話 スパイごっこと重なる誤解
これが数日前のことで。
私もそれから劇場の関係者をこっそり尾行して、主に女優さんたちだけど。それで彼女たちの事情とか知って、懐柔できそうな女性にはイザベラさんに伝えて、直接会うことはなく手紙などで法廷での証言を頼んで。
法廷にもスケジュールがあるし、アンナさんにも説明をする必要があるのでまだ時間はかかる。
一人でやったわけではなく、この仕事をする時、イザベラさんが普段使う幾人かの男性たちと知り合った。
屋敷にも実は門番をする若い男はいるけど。あまり話したことはないし、交代してるし。ホテル関係者って話で、使用人と言うより従業員と言った雰囲気で。
それで知り合った男性たちは、イザベラさんの手足となって動いて、それも家が代々使ってるとか。身なりもよくて。正体はただの上位の貴族に仕える下級貴族。
普段は遊んでいるようだけど。貴族なんてみんなそんなもの。遊んでる。豊かな生活と遊び。何もやってないじゃん。ビジネスで忙しいとかもない。
他の国は知らないけど、イギリスの貴族はそう。
常に優雅であるべし。忙しく仕事をするのはブルジョアジーと同じになってしまう。ブルジョアジーを毛嫌いしているとかではなくて、どうにかして区別をしたい様子。彼らはやがて支配階級に取って代わるものだから間違ってないとは思うけど。
20世紀後半になると不動産の収入を金融収入の方が上回るようになるし、実際に世界を動かす力も政治から経済に移って。二回の大戦が及ぼした影響も大きいとは思うけど。
ただこれはまだ未来の話で、今は事業家より土地をたくさん所有している貴族の方が力が強い。
余談だけど、貴族が革命などで全滅したり、そもそも貴族制から始まってない国で不動産を積み上げて多くの資産を持つようになっている21世紀を生きる人が実際の貴族みたいな精神を持っているのはちょっと面白いことだと思う。
閑話休題。
それで今日はホテルでリチャード、アンナ夫妻と食事をするということで。
やることがなく暇である。
使用人の食事なんて簡単なもので、一般的には上級使用人と下級使用人で分けられて食事をするようだけど、イザベラさんは使用人同士でそういう区別はしていないようだし。
理由は多分だけど、彼女がロンドン生まれだからなんだと思う。ロンドンは東京や関西、アメリカ海岸部のメガロポリスなどに比べるとそこまで大きな町ではない。
西ロンドンは東ロンドンとはそこそこ距離があるけど、南ロンドンとは近い。橋を渡ったらすぐにあるので。そして北ロンドンの高級感あふれるまさにヴィクトリアンな装飾がされた町と南の、今の時代になってから本格的に開発されている町とは、最短距離では200メートルくらいしか離れていない。
田舎では貴族の屋敷や別邸なんて農園や村とはかなり離れていることを考えると…。
なのでここでは上級使用人は下級使用人と区別していない。ただみんなしてイザベラさんには思い入れがあるようだけど。何か…、ただの使用人と言うより家臣とかそんな感覚で。
それで雑談をしていた。ローラは別の子と話しているので今日はエイミーと言う、ローラと同じくよく話をする仲間とテーブルの前に隣り合って座って食事を終えた後のお茶を楽しんでいた。
「この間実家の娼館に戻っていたんでしょう?どうだったの?」
エイミーは別に悪気があるわけではない。彼女のいい方が直線的なだけ。
「娼館じゃなくなってた。今はボウリング場兼宿屋。」
「ボウリングって?」
「ピンを立ててからボールを手で投げて倒す遊び。」
「お嬢様はそういうのやらないんだよね…。お嬢様が楽しむのが何か知ってる?」
「剣術でしょう?それと弓とか、銃とか。」
「そうそう。お嬢様は恐ろしいの。」
「恐ろしいの?」
「そう、だから服従しないといけないの。それに比べるとそれは結構楽しそう。そのピンを立ててボールを投げる遊びって。」
「うん。結構楽しいよ。ここでもやれるのかはわからないんだけど。」
「やってみたい。」
「普段は何して遊ぶの?」
「ハンカチに刺繡とか。聖書を読むとか?」
それって遊びなの?
しかも聖書って、旧約のところはすぐに神様が異教徒や信仰心の低い奴らを血祭にしちゃうはずなんだけど。
「聖書のどこを読むの?」
「詩編とか好きかな。みんな好きでしょう、詩編。」
みんな好き…?そんなに有名だったのか。そういえばキリスト教文化圏なのに聖書は見たことが…、なくはないけど。教会には行ったことないかな。
「実は聖書は本格的に読んだことなくて。」
「ええ、ルミちゃんってもしかしてカトリック?カトリックって、聖書はあまり熟読しないって聞くけど。」
そうなの?いや、それはただのエイミーの偏見かもしれない。
「宗教はないんだけど。」
素直にそう答えると。
「今なんて?」
「えっと…、宗教がないといけないの?」
「いけないというか…。」
「冗談だよ。プロテスタントなの。ほぼ新約だけ読んでたから旧約はあまり思い出せなくて。」
危なかった。地雷を踏むところだったよ。
「冗談にしては笑えない…。」
目がすっと冷たくなる感じがやばい。キリスト教、おそるべし。
「ほら、仏教とかあるでしょう?」
「仏教?何それ?」
そこから…。
「じゃあイスラム教とか。」
「は?」
また目がすっと冷えて…。いやいやいやいや。それほどのものなの…?今から十字軍遠征でも行くの…?
「うん、まあ、何でもない。」
「何でもないのね。ならよかった。イエスを信じないなんてどうかしてるよね。」
目が笑ってないって。
「そうそう、イエス・キリストだけが救いだからね。」
だから話を合わせてみると。
「うんうん。」
満足そうに頷かれた。自分の顔が引きつることを感じる。キリスト教以外の話をするのはやめておこう。そんな時代ではないみたい。
「それで詩編のどことかそんなにいいの?」
気になるので聞いてみる。
「ほら、ダビデの詩とか。」
「暗唱できる?」
「もちろん。祈りの言葉だもの。」
それで聞いたら、うん。祈りだね。綺麗な声で暗唱してたものだから、普通に詩のようで悪くない感じだった。ダビデ王がハーレムを作っていたとか、そもそもユダヤ人の神話を楽しそうに語っているアングロサクソンってどうなのとか。
色々突っ込みたい気持ちはあったけど、やめておいた。また冷たい目で見つめられたらたまったもんじゃないし、そろそろ超えてはいけない線を踏み越えてしまいそうな予感がしていたので。
まあ、それがここの文化と言うことなのだろう。と言うかイギリス神話であるアーサー王伝説とか、緑の騎士の話とか、あまり聞いたことがない。
本人たちもそこまで気にしているようには見えないし。お嬢様はホメーロスを知っているかは聞いてきたことはあるけど。もちろん知っていると言って内容を軽くつまんで話したら目をすっと細められたんだけど、なぜだろう。何かよからぬ誤解をされたようだけど。理由がわからない。ただの昔の叙事詩でしょう?何?もしかして平民はホメーロスは知りません、貴族しか学ばないことなんです、とかそういう落ちじゃないんだろうね…。
「うん、とてもよかった。」
一応褒めておく。
「そうでしょう?」
「ウィリアム・ブレイクとかはどう?」
「聞いたことない。」
「えっとね。ロンドンと言う詩があるんだけど。」
最近読んだのでわかる。夜は私も母と同じく読書をする日が多いので。お嬢様との会話をする日もあるけど、毎日じゃないし。
話すとエイミーは、
「ちょっと生々しいけど、ルミっぽい。よく知っているものね、その辺の生活とか。」
確かにそうかも。
「うん、父もその辺の生活に耐えられなくて亡くなってるし。この間のことだけどね。男がやることに女は口出しとかできないでしょう?何度もそんな仕事辞めてこっちに来てほしいって言ったけど聞いてくれなくて。」
「それは…、大丈夫?」
「うん、大丈夫じゃないけど大丈夫。」
「お嬢様には言ったの?」
「言ってない。」
「言ったら特別手当が出るんだよ。休日ももらえる。葬式あるんじゃない?」
「下級労働者に葬式なんてないから。」
「貴族じゃないの?」
「私の父が?」
「そう、その辺の生活って詩人のことでしょう?貴族には詩人も多いものね。詩人は早死にするって聞いたことあるもん。だからみんな言ってるよ。母は娼婦で、父は貴族なんでしょう?お嬢様に言うべきよ。」
それで席から起き上がろうとしているエイミーの袖を握って止める。
「待って。」
「なんで?」
「エイミー、何か言いたいことでもありますか。」
のんびりお茶を飲んでいたテイラー夫人がこっちを見る。
「何でもありません。」
慌てて言ったけど。
「彼女の、ルミの父親が亡くなっているようなんです。」
エイミーは、多分善意なのだろう、休暇とかもらえるはずなのに言わないのはよくないと。
「あら、それは大変ですね。浮気をして生まれた子供でも遺産は幾分かもらえるはずですが…。」
すごい単刀直入。これが実用主義…。
「いいえ、私の父はただの下級労働者で…。」
「母の交友関係でしょう。教育を受けているのでしょう?父の家とは繋がりもあるのではありませんか?お嬢様の許可なく探るのはよくないかもしれませんが…、この際だから言ってみなさい。何ならお嬢様には秘密にしましょう。父の名前は何と言いますか?」
ちょっと待って、本当にそうじゃないって…。
ローラなら私の味方になってくれるはず、彼女は今どこに…、さっきから見えないんだけどトイレ?
「ルミ、お嬢様のお呼びよ。」
丁度そのタイミングでローラが使用人食堂の扉を開けて入ってきた。
「うん、今行く。失礼します。」
逃げるように食堂から離れ、調度品と美術品、絵画が並べられて天井は装飾された美しい廊下を速足で歩いてイザベラさんの部屋に。
いつものようにノックをして返事を聞き扉を開けて入ると。
「その服に着替えなさい。」
椅子の上に簡素ながら綺麗なドレスがかけられていて、イザベラさんにそう言われる。
「今日はどのようなところへ出向けばいいのでしょうか。」
何か衣装が必要な場所って、いよいよ潜入でもするのか。スパイじゃないんだぞ。
「ホテルよ。」
「どこのホテルへ行けばよろしいのでしょうか。」
「何を言ってるの?同席するのよ。」
同席?え、もしかして使用人が主人と同席するとかそういう?
「それはなぜでしょう?理由を伺うことをお許しください。」
「読んでみなさい。」
手紙を渡されて読んでみるとそれには形式的な挨拶やビジネスの話の最後に才能のあるメイドがいた、ルミと言う、彼女をこっちによこしてくれないか、なんて書かれていて。
「お嬢様、これは…。」
「彼の前で何をしたの?」
「歌を歌っただけにございます。」
「何の歌?」
「ヘンデルの『私を泣かせてください』を少し。」
「歌ってみなさい。」
言われて歌ってみると。
「なるほどね…。」
考え込む様子のイザベラさん。
「これは使えるかもしれないわ。やはり同席なさい。」
「かしこまりました。」
「テーブルマナーは知っているわね?」
自信はないけど音を立てないくらいは何とかできそうかな…。
お嬢様に見られながら着替える。なぜじっくり見ているのか。
「何もされてないの?」
「何をでしょう?」
「リチャードに、何もされてない?異常性欲を持っているのでしょう?」
「言葉だけ少々。」
「何を言われたの?」
言えない。今更顔が熱くなった。
「大体わかったわ。」
私の顔が真っ赤に染まるのを見てイザベラさんはニヤリと笑ったのである。
※ウィリアム・ブレイクのロンドン
I wander through each chartered street,
私は特権で守られた道を歩きさまよう
Near where the chartered Thames does flow,
特権で守られたテムズ川の流れるちかくを
And mark in every face I meet
出会うすべての人の顔に現れたのは
Marks of weakness,marks of woe.
弱さと悲しみの印。
In every cry of every man,
すべての男のあらゆる嘆き
In every infant's cry of fear,
すべての赤子の恐怖の嘆き
In every voice,in every ban,
あらゆる声、あらゆる禁止令
The mind-forged manacles I hear.
心を封じ込む
How the chimney-sweeper's cry
煙突掃除をする人の嘆きはどうか
Every blackening church appals;
漏れなく黒ずんで教会を際立たせ
And the hapless soldier's sigh
そして不運な兵士のため息は
Runs in blood down palace walls.
宮殿の壁にて滴り落ちる
But most through midnight streets I hear
しかし真夜中の道で最も多く聞こえるのは
How the youthful harlot's curse
まだ若い娼婦の呪い
Blasts the new-born infant's tear,
生まれたての幼児の涙はとめどなく溢れ
And blights with plagues the marriage hearse.
そして病気を伴う腐敗は結婚と言う名の棺桶




