7話 ロンドンブルー
戻る道は前のホイールが異常に大きい初期の自転車を見て心が浮き立った。しかも前と後ろに補助輪みたいなのがついてて、計四つのホイールを持っている。
私は暫定色情症の男性にハラスメントを受けたことはすっかり忘れて、自転車と同じ速度で歩いた。
自転車に乗ってる紳士がぎょっとしてこっちを見ている。メイド少女が異様な速度で歩いているんだからそりゃ見るか。
軽く会釈すると軽く帽子を取る挨拶をされた。ここで前に何か障害物があってそれとぶつかるとコントになって大爆笑…、なんてことはなく。実際にあっても困るけどね、ヘルメットとか被ってないから普通に重症になる可能性も高いし。
と言うかヘルメットなんて被らないのかな。鉄の鎧とかあるからそれを使えば…。それはないか。
それで互いが別々の道に向かうまで五分ほど並走して、燥ぐ心を平常心に戻しながら一般人のスピードに戻って歩き始めた。最近は自分がわけのわからないほどやや高性能な体を持っていることを忘れがちだけど、これでも軽く超人みたいなことになっているので、何とかして生きること自体はできると思う。
サーカスには出ないから。この時代のサーカスはただのサーカスではない。普通にやばいものがたくさん集まってて…。奇形の人を展示するとかね。見世物小屋、いわゆるfreak showである。
かの有名なエレファント・マン、ジョゼフ・メリックもサーカスで見世物にされていて…。
人は心に余裕がないと他人の中身ではなく見た目だけで判断しようとする。ヴィクトリア時代イギリスの見世物小屋の存在は、外面は取り繕っていても中身は余裕を持ってないことを証明するものだと思う。
こういうのをironyと言うの。
貴族なのに、恵まれた環境なのに、臭い川の近くで住んでいた人たちより心が歪んでいるなんてね。
娼婦の女の子たちは屈折することなく素直だった。母だって、港で労働者をしていた父だって、宿屋の主人であるジョナサンさんだって…。
彼らは今どうしているんだろうか。初めて戻った時はたったの一か月が過ぎただけなのに、まるで何十年もあってないようで、何もかもが前とは違く見えていた。
道端には生きているか死んでいるかも定かではない人たちが転がっていたり、縄の上に載って寝ている人たちとか。
縄の上に載って寝るというのは、本当にそのままの意味。小銭を払って縄の上に上半身を載せて寝るのである。鳥かな?
朝になると業者がその縄を切って、みんなで仲良く床にぶつかるという。
そして懐かしい汚物と腐敗したものが詰まった悪臭。宿屋に戻ると少し様変わりした景色が広がっていた。少しと言うか、かなり変わっている。一つだけだったレーンが四つに増えて、昼間なのに労働者ではないのだろう、暇そうな若者とかが来てボウリングを楽しんでいる。
「お前さん、元気にしてたか。随分といい服を着てるじゃないか。」
ジョナサンさんからの挨拶。エプロンとホワイトブリムを脱いだだけのメイド服である。エプロンとホワイトブリムがないと殆どすべてが黒で修道服みたいな感じがするんだけど、生地もいいし新品である。
「うん、元気にしてたんですよ。ところで今娼館はどうなっているんですか?」
「ボウリングをするために来る客の方が多くてな。娼館はやめた。」
驚愕。
「みんな失業者になっちゃうんじゃ…。」
「従業員になっとる。」
ジョナサンさんの話によるとここは食事とボウリングを楽しむ場所になっているとのこと。
「そんなことして大丈夫なんですか?」
「お前さんがそれを言うか。お前さんのところのお嬢様が許可をくれたんだ。娼館はやめて、ここだけで繁盛させろと。」
「お嬢様が言ったの?」
「いや、刑務所にぶち込められた。」
またまた驚愕。
「その日の午後に出たがな。それで形式上問題はないんだとよ。」
「大丈夫だったんですか?刑務所って、すごく環境が悪いと聞きますけど。」
「瘴気にだって耐えてきたんだ。ちょっと殴られたが、今はどこも痛くない。」
殴られるって…。
「けど…、私のせいで…。」
マジでやばい状況一歩手前だったようだった。
「お前さんがいなかったら面白いことなんて何もない、寿命が尽きるまで成すこともなく死ぬだけだったろう。俺の人生なんて大したものはないんだ。わかっている。だが今はどうだ。」
「どうなの?」
娼婦の…、いや娼婦だったウィニーと言う子がカウンター席で腰を掛けてジョナサンさんに私の代わりに聞いている。二十歳前後の、茶髪で茶色い瞳の子。
彼女ともよく話していた。主に一方的に私が話していた。食事の時とか話しかけても冷めた返事しか返ってこなかったから。
「今は少なくとも、神様の前に行ったら俺はこんなことをやってるので天国へ入れるんじゃないかと聞ける。」
「入るって確定しているんじゃなくて?」
ウィニーが私の代わりに聞いてくる。こんなに自分から人に話す子だったっけ。
だいぶ印象が変わってしまった。たったの一か月なのに。髪もみんな綺麗にショートカットにしているし。前はぼさぼさに伸ばしていのに。
「そりゃ俺だってな…。」
それからはジョナサンさんが農村に住んでいたころの小作農たちをこき使っていた話などが続いたので割愛する。
と言うわけで、娼館がなぜかボウリング場でありながら宿屋と言う不思議なものになった。
私が数人の女の子に直々に手とり足とり教え込んだレシピを出す食事も出していて。娼婦の仕事は数人ほどの女の子が個人でやっているだけで、もはや大人の総合娯楽施設と言っても遜色がない。
努力した甲斐があった…。
母は最近は古本屋で本を買って読み始めた。顔色もよく元気そうである。昼から夕方まで働いて、夕方からはランプの明かりで読書をするのが日課なんだとか。
ただ悪い知らせもあって。父が亡くなったことを知った。いや、やばいね。過労で倒れたのか何なのか、倒れてそのまま動かなくなって。それで終わり。
野菜の酢漬けを持って行かなくなってるからか。それが理由かもしれないと想像すると悔しさが心の中に広がった。
私の夢が、小さい家を買って家族三人で暮らす夢が…。
なんてあっけないものなのだろう。母はなんてことはないように言っていたけど。
彼は三十歳くらいだったし、この時代の労働者にしては平均より長生きしているんだってね。
悲しかった。何が悲しいって、話した記憶を思い出すから。握った手のぬくもりと笑顔を知っているから、声を覚えているから。
母の胸で泣いた。ただ静かに肩を揺らしながら泣いた。
どうか、彼が次に生まれた時は今回よりましな人生になりますように。
なんてしんみりしたけど、夜にはみんなと久しぶりにお酒を飲みながら騒いだ。本当、ほぼ全員が明るくなってて。下品な冗談も言って笑いあってて。
「そういえばアンナ、貴族家でメイドになったんだってね。」
女の子の一人が私に言う。ルルと言う名前で、15歳か16歳ほどの黒髪に緑色の目を持つ子。料理を教えた子である。
「うん。結構楽しいよ。紹介できるかも。」
「いや、いい。えらい人に怒られるなんぞ御免だし。あたしたちはあんたみたいに器用でもないし、まともに教育なんて受けてないからさ。それより美味しい料理のレシピとか知っているなら教えてよ。金持ちの生活がどうなのか聞きたいよね、ね?」
ルルちゃんが回りの子たちにそう聞くとみんなして興味があるようだったので、夕食を食べ終わってからもしばらく話しをすることに。
ロビーにあるソファーに寝っ転がって、手にはぬるいお酒。歌を歌った。前世で流行っていた日本語の歌を日本語で。日本語だと言ってるけど誰も信じている人はいない。
「貴族家のメイドがそんなんでいいのか。」
「いいの。今ね、私、ルミって名前になってるの。変えちゃった。戻したって言った方が正しいのかな。実は死ぬ前はここより百年以上未来の世界に住んでたんだよ。なのにこんな時代に生まれてしまった、それはもう大変で。」
「酔ってるのか。」
「酔ってない。」
「酔ってるだろう。」
「酔ってないって。」
クスクスと笑う。酔ったのかも。
次の日の朝。身だしなみを整えてから母に行ってきますの挨拶をして屋敷へ戻った。
戻ってからはまたメイドのルミとしてスイッチを入れ替える。
極端に離れた生活が同じ町に共存している。
だから心がなびくことなんてない。何に?
他人が勝手に条件を付けて、こうすればこれが出来るという口約束なんかに。
自分の若いころの体を彼にささげれば人気が保証されるとかのことを、あの男…、リチャードさんは言ってたけど。
人の心はそういうわかりやすい契約だけで動くようには出来ていない。それを思い知らせてやる。
舐められて逃げてそれで終わりなんて、そんなもの納得できるわけがない。
ただまあ…、別に体のスペックで何か肉体的な技を駆使して殺したりとかそういうことを考えているわけではないんだけどね。
なんか眠れなくて書いちゃったんですけど、こんな短期間で投稿するのって、普段は疲れますからそんな毎日やったりはできません…。ご容赦を…。




