閑話 ある令嬢の場合
私が生まれたのはヴィクトリア女王が生まれるほんの少し前。サドルトン家はカウント、或いはアールの爵位を持っており、ロンドン北部の土地を所有している。
始祖となったのは法律家。実家にはいまだに彼の肖像画が飾られている。髭を生やして、ぐるぐる巻き毛の奇抜な髪型をした老人…。いや、今も法律家は奇抜な髪型をしているから…。
もしかしたらイギリスの法律家は未来永劫あの髪型なのかもしれない。
ロンドンには法律関係の仕事が昔から多かった。多くの人が行きかう国際都市で、市場で行われる多くの取引を仲裁するのは法律家の仕事であった。
彼はエリザベス女王の統治下で新大陸開拓に必要な資金を寄付したことにより爵位を授かった。いささかこっちの財産目当てに爵位を押し付けられたように思えなくもない。
丁度新たな都市開発が進んでいたことから、莫大な不動産を所有できる権利を使ってロンドンの北側にある古い土地と比較的にテムズ川に近い土地を買い取り、私が持つホテルもそれに含まれる。
中世では基本的に土地は教会か王家に属しているもので、住まわせる権限を売買するだけにすぎない…。と言うのは形式上のもので、貴族家が跡取りを残すことができず丸ごとなくなることもあったため、誰かはそれを管理しないといけない。
結局国に貢献するかによって決まるもの。だけど始祖の彼がいなかったら貴族の贅沢なんて考えられなかったんだろう、だから自覚はしている。自分が恵まれた立場にいられることの自覚は。
昼間からスポーツを楽しみ、夕方にはオペラを鑑賞して戻ったら様々な種類の香辛料が入った料理を口にする。
広い屋敷の中に住み、十人以上のメイドが私一人のためだけに働いていることを当たり前と受け入れる。
なんて贅沢をしているんだから。
だけどただ贅沢をして無為に過ごすだけにはいかない。
都市部に比較的に近いところならそれなりに影響力を持っているけど、それは田舎貴族の多くが浪漫主義に心酔した時代錯誤な考え方から抜け出していないためでもある。
田舎に膨大な土地を持っているため中央とは距離を取って生きている貴族たちは徐々に浪漫主義から実用主義に塗り替えられる空気を形式上でしか受けきれていない。
理解できないものでもない。
貴族が子供のころから学ぶのは古い欧州の歴史と文学、作法と言葉。ホメーロスの叙事詩にあるトロイア戦争に関しての技術なんぞを暗唱できるほど学ばされるわけだから、現実が見えなくなるのも仕方がないことと言える。
だけど貴族たちは欧州全域でのつながりを持っている。外交はいつの時代も貴族のものであった。
戦争を決めるのも貴族、政治を決めるのも貴族。
しかしロンドンに光がともされて早数十年。新たに富を獲得したブルジョアジー階級はそんな貴族を見てくれだけでも学ぼうと必死である。
やや滑稽に見えるけど、実態を知っている分、どっちが阿呆なのか甲乙つけがたいところ。
事業に関する知識や様々な言葉を多用に学ばされるのは実用的だとは思うけど。
そういう私もフランス語、ロシア語、ドイツ語、イタリア語が話せて、スカンジナビア半島の言葉も話すのはともかく聞くだけなら問題ない。なぜスカンジナビア半島の言葉が聞けるのかって、家庭教師がスカンジナビア半島で住んでいたことがあったから。
だけど、そう。都市部に住む貴族でも浪漫に心酔する良さを知らないわけではない。古くから我が家と土地の関係上で繋がりを持つ家はいくつかあり、そういう家の一つには幼少期から長く一緒に過ごした友人がいた。名はアンナ。
彼女はよく冷たいと言われる私と正反対にいつも穏やかで、慈愛の心を常に持ち歩いているような子。いいところも知っているけど、弱いところも知っている。
可愛いものに弱い。男の威勢に弱い。そして押しに弱い。思春期を一緒に過ごしながら、彼女とは色々楽しいことをしていて、いつも私がする側だった。
そんなことができたのも我が家は女しか残っていなかったから。父は健在だけど、私の先に生まれた兄は私が生まれる前に亡くなっており、私のすぐ次に生まれた男の子も亡くなっている。
姉はまだよかった。彼女は兄がまだ生きている時に生まれていたから。親の教育方針も彼女を無難な家に嫁がせることを考えていたし、彼女自身も立派な淑女として育つことを心掛けていて、女として期待される役割と言うのを全うするために必要なことを進んで手にしていた。
しかし兄は死んでしまった。なんの病気かもわからない。気が付くと腹痛を訴えて、寝込んで、そのまま帰らぬ人となった。
どこにでもある話。貴族だって例外にはなりえない。
次に生まれたのが私で、それから一年後に生まれた弟は赤子のうちに高熱を出して亡くなった。
母の体がこれ以上は持たないという話で、我が家は姉妹二人だけになった。
親は兄に教えていたこと、つけていた家庭教師たちをそのままそっくり私に押し付けた。姉のリアナはそんな私を気の毒に思えていたようだけど、私自身はこっちの方がずっと合っていたんだと思う。
ただ私は一般的な都市部の貴族令嬢としては育てられていない。
護身用ではない、決闘に用いられる武術も学んで、銃を握って射撃訓練をする。
親も男の子を失った悲しみをそのまま私にぶつけるように、主に男性がたしなむものを私にもするようにした。
社交界ではそんな私はあまり好まれない。家庭的ではないから。
他の国は少しだけ事情が違っていたけど、少なくともイギリスで貴族令嬢の価値はどれほど包容力を持つことが出来るのかによって決められる。
だから姉のリアナの結婚はすぐ決まっていた。彼女は同じ女性の前では随分と辛らつになるけど、男の前では常に優しく微笑むことを心掛けている。初めて彼女が貴族男性を前にそのような態度をとることを目にしてからかいこっぴどく怒られたことはいい思い出。
ただそのせいで私の交友関係は酷く狭いことになってしまった。女の友人を作ろうとしても話題についていけない、男の友人なんて作ろうものなら自分に気があるのではないかと勘違いされがち。
アンナがいなかったら私にはそれこそ姉以外は一人の友人もできなかったはず。
だから彼女への思いは格別なのか。それとも私は彼女にかのレスボス島の女のように恋情を抱いているのか。自分自身でもよくわからない。
状況が変わったのは成人になってから。父が携わっていたいくつもののビジネスを本格的に手伝うようになり、それまで以上に利益を上げることに成功。
また二十歳を過ぎたころにはホテルまで貰った。ホテルだったのは賃貸業は女が顔を出すと舐められるから。
私自身の名義で、私自身で経営する。誰の指図も受けない。それは私が子供のころから夢見る生活であった。
それからだ。どこからか噂を嗅ぎ付けた連中が結婚を迫ってくるようになったのは。親は結婚をするのは私の意思で決めることだと言っていた。彼らも馬鹿ではない。自分たちが私に施した教育の意味は知っている。知っていても己を止められなかっただけ。
彼らのせいにするつもりはない。
だけど、そう。今までは見向きもされなかった。
姉のリアナは頗る評判がいい。そんな彼女の妹だから、結婚してしまえば従順になるはず。よく見ると顔立ちもいい。
なんて馬鹿馬鹿しい。
窮屈な現実がまるでコルセットのように締め付けてくる。
イライラが募り、夜には一人でお酒を飲む日も増えつつあった。
その時だった。ビジネス関係で懇意にしているブルジョアジーの一人が東ロンドンの旧市街地でボールを投げてピンを倒す遊びを広めている宿屋があるという話をした。
それなら知っている。貴族の遊びの一つで。比較的に平和なことから女性がよく楽しむ。
なぜ瘴気の漂う東ロンドンに?
興味がわいた。なぜって、貴族は遊戯には厳しい。貴族の遊戯を真似されるなんて、無礼であると罪をでっち上げて刑務所に突っ込むなんてことだってする。別に怒っているわけではない。貴婦人が楽しむものだから、そこまで目くじらを立てられることもない。
しかしよりにもよって、港近くの旧市街でそれが起きた。それは貴族への挑発と見ていい。誰かが故意にやっていたとなると社交界を騒がせるいいネタになるはず。
それで行って、自分の目で確かめることにした。念のため短剣と拳銃を袖の下に入れたまま。
馬車の中でも漂う瘴気の匂いにイライラが募る。こんなのを毎日浴びていたらすぐにでも気が狂ってしまうのではないか。
ブルジョアジーの案内で入り組んだ路地を歩く。嫌なものを踏んづけた感触は無視して。
宿屋の中は意外と綺麗だった。思ったよりずっと清潔感があって驚く。匂いも入った途端かなりの部分が薄れて、代わりに聞こえる喧噪。だけどこちらを見るとビクンとして身をすくめる。そんなに怖い雰囲気を漂わせているかしら。
宿屋の主人に聞くとここは娼館らしい。東ロンドンでは宿屋が娼館も兼業するのが当たり前なのか。
ホテルを所有している私を馬鹿にしているのか。いや、そんなことはない。別に、そんな当てつけでやっているわけではないことはわかっている。そもそも主人は私が誰なのかもわからない。
後ろで誰かが糸を引いている。こんな大がかりな施設なんて、そもそも野外でやることを室内で再現するなんて、そのために見た目も変わっている。
裏にだれがいるのか単刀直入に宿屋の主人に聞く。
この手の連中を相手に駆け引きとか無駄な言い回しなんてするだけ無駄。睨みながら言うと彼は冷や汗をかきながらポツンと佇む一人の少女を指さした。
年齢は十歳前後くらいか。
理由はわからないけど、彼女は泣いていた。それも何かに恐れていて泣いているとか、痛みに耐えられず泣いているというより…。何か心の奥底で封じ込めていた感情がそのまま涙となって流れているような。哀愁まで漂わせる。誰の目にも映らないのに、認識した途端存在感が増す。
近代になって庶民を描く絵画が増えて、私もよくそれらを楽しんでいた。彼女の涙はその絵画を連想させた。
服は令嬢が着そうなフリルのついたものだったけど、ボロボロで所々違う布を使っては縫い合わせていた。
怒りがすっと引くのがわかる。ゆっくりと近づく。焦ったら彼女が逃げるかもしれないと直感が囁く。
笑顔を向けて話しかけると彼女は涙を拭いてはこっちを見上げ答えた。
それも綺麗な上流階級のアクセントを使って。
下層民の粗いアクセントは聞いたらわかる。
だけど、彼女は違った。しかも単語の選びや言い回しも知っている。つまり彼女はどこぞの令嬢がここまで落ちたか、それとも…。詳しい事情はわからないけど、彼女がこんなところにいていい子ではないことはわかる。
この遊戯も彼女が意図的に何か悪いことを企んで広げたというより、ただ前に自分が見て、やっていたことを再現していただけなのだろう。
つまり彼女に悪意はない。
一瞬だけ彼女をどうすればいいのか迷う。このまま彼女をここに放置し、見なかったことにするか。だけどいずれは噂が届くはず。貴族の遊戯だけではなく別の何かを広めてしまうかもしれない。
そうしたらただのスキャンダルに収まらない重大な事件にまで発展するかもしれない。
その前に彼女を保護する?事情も知らないし、ここで聞けるようなものでもない。
もしも彼女にまとまったお金があるならどうなるか。親類縁者のところへ向かうかもしれない。そうすると事態は解決するはず。しかし同時に思う。
自分が保護者になってしまうこともありなのではないかと。ただそれを決めるのは私ではない、この子を取り囲む状況だ。
私はとっさに彼女に自分が持つ蝶々を形取った金の髪飾りを握らせた。ここの連中が下手に貴族のものに手出しすることもないはず。そういう分別力がない奴もいるかもしれず、逆に自分の軽率な行動により少女が危険な目に合うかもしれないと思いついたのは屋敷に帰って一息をついた夜のことだった。
少女が無事たどり着いたことを知った時は胸をなでおろした。ここ最近はなぜだか体調がよくなくて、そのせいでうまく思考が働いていなかったかもしれない。
名前は、運命のいたずらなのか、ただ一人の親友と同じくアンナと言った。
そして彼女は、思っていたよりずっと活発だった。そして色んなことを知っていた。
体調不良の原因を簡単に突き止めて、それからも私の体に悪いからと色んなものを変えたり、禁止にしたり、やらなくしたり。
天使か何かと勘違いしそうになる。愛くるしい見た目も相まって、ついついかまってしまう。
こんな娘が生まれるなら結婚をすることも悪くないかもしれないと思い始めたころ。
親友のアンナに思いもよらないことが起きていることがわかった。
そして少女、彼女はなぜかイギリスでは誰も行ったことのない日本の言葉だと言っていたけど、それが嘘だとは思えない、ルミと名前を変えた、彼女の話術でアンナの心を治癒するのを見て。
彼女のような、まるで天使のような少女が私の腹から生まれるわけがないと、妙に納得してしまう。
そして結婚をしたところで相手がまともな人間なことを期待するだけ無駄だということを改めて思ったのである。




