6話 メイドのルミ、危機一髪
話を終えて厨房に戻るとローラに抱き着かれた。
「すごかったよ。ルミは人の心に詳しいんだね。私より幼いのに。どこで学んだの?それも生まれる前から?」
「娼館で働いていると人のことはよく見てしまうから。それで慣れただけ。」
「それでもよ。お嬢様とあんなに堂々と話しているんだもの。」
「食事の時間です。」
テイラー夫人の言葉で離れる。
「今日は何かな。」
「果物のプディングです。クリームをかけて食べるといいでしょう。ルミ、お嬢様に愛されていることはとても光栄なことです。彼女の慈愛の心に感謝することを忘れないように。」
「はい。」
テイラー夫人の話に答えてから席につく。
「テイラー夫人に短くても一か月ほどの教育を受けることになるんだけど、ルミはすぐに働くことになったんだものね。」
「経験があったから。」
「羨ましいなぁ。教育の時に間違ってしまったら厳しく叱られることになるの。打たれるんだけど、これが痛くて。」
体罰があるのか…。メイドの教育に。
「跡が残ってたりしない?」
「ううん、そこまでじゃないよ。」テイラー夫人が切り分けたプディングをお皿にのせてクリームをかけてフォークとナイフで食べる。
「んん、美味しい。至福。」ローラは口いっぱいプディングを頬張っては笑顔を浮かべた。
「うん、本当、美味しいね。」頭を使ったので糖分が身に染みる。
数日後。
「劇場の位置はわかるね?」
イザベラさんの書斎で佇む華麗で瀟洒なメイド、ルミでござる。華麗で瀟洒メイドはござるなんて言ってないか。それは残念でござるよ。
「はい、お嬢様。」
「よろしい。手紙をちゃんとリチャード本人に伝えること。見聞きしたことがあるなら戻ったら報告すること。」
「かしこまりました。行って参ります。」
西ロンドン、それもテムズ川の北部は歴史も長く、土地の価格が高いため上流階級が住んでいて、ただ街並みが綺麗なだけではなく建物の大きさが違っている。
劇場までの道のりは大通りを歩くだけでたどり着くもので、馬車も通っているけど日傘をさして歩く貴婦人や杖を手に持った紳士たちの姿もよく見かける。前に、東ロンドンからここに来るように言われ通っていた時はそんな人たちの目に映ると漂う貧民の雰囲気がトラブルを引き起こすと思って、日が昇る前の明け方に出発して速足で、それでも間に合わなくなりそうだったから周りには目もくれなかった。
だけど今はゆったりとした歩調で歩いて、周りの景色をはっきりと見ることができて。
ここはテムズ川でもかなり上の方で、匂いなんて殆どしない。曇り空ではあるけれど紫外線を遮るには足りない、通り過ぎる庭に植えられた植物は生き生きとしていた。
町は結構静かで、道行く人たちの歩く音と馬車の音だけが聳える壁にぶつかってはこだました。
劇場の扉は開いていた。公演中ということはない。まだ時間ではないからなのか。中に入ると何階も上にも席があって、オペラ歌手なのか、若い男性が一人舞台の中央に立って歌の練習をしていた。モーツァルトかな。
観客席に一人だけ座っている男性にゆっくり歩いて近づく。
「用件は?」
すると男性はこっちをふりむくこともせず心地いい声で聞いてきた。
「リチャード様宛てにレディ・イザベラからの手紙にございます。」
私がそういうと振り向く。髭を綺麗に剃った鋭い眼光を放つ男性。
「そこにおいていけ。」
貴族男性という印象ではあるけど、リチャードであっているか確認もまだしていない。
「直接返事を聞くように言伝を受けております。」
「今からか。」
「できれば。」
「わかった。ついてこい。」
暫定リチャードさんが舞台の後ろ側に向かって速足で歩いてて、小走りをしながらついていく。
舞台裏には衣装や小道具がたくさんあって、いかにも劇場と言う雰囲気がした。
執務室みたいな場所に入って椅子に座る。私は立ったまま。
彼は手紙の封を開けてから読んで、頷いて見せた。
「双方の利益になる提案だな。夫婦で同席する理由は…。アンナと友人だからか。待ってろ。返事を書く。」
特にヒ素的な地雷は見つかってないので黙って待つことに。
悪い人には見えないんだけど、本当にDV男なのだろうか。
こっちをちらっと見るリチャードさん。すると手紙の方へ視線を向けてからまたこっちを見る。なぜ二度見されたし。
「リチャード様ご本人であっているのでしょうか。」
「違ったらどうする?」
「叱られるだけにございます。」
「そうだろうな。」
彼は封蠟をしてから椅子から立ち上がって近づいてきた。背が高くてちょっと圧迫感がある。見上げていると。
「随分と愛らしい顔立ちをしているな。メイドにするにはもったいない。」
「光栄に思います。」
無難に答えたつもりだけど。
「名前は何という?」
なぜ名前を聞いたのか。
「ルミと申します。」
「ルミ、異国的なニュアンスがするな。どこの言葉だ?」
話を広げる意図がわからないけど一応答える。
「日本語でございます。」
「ポルトガルの連中に奴隷にされた日本人がいるという話は聞いたことあるが。何かつながりでもあるのか。」
え、そんなに有名なの?たまたま知っていただけかな。
「そのようなつながりはございません。ただの知識にございます。」
「メイドが図書館にこもって本でも読むのか。日本に行ったことのある人間なんていない。嘘を教えられたわけじゃあるまいな。月に人が住んでいることが発見されたと、十何年か前に騒ぎになったことがある。その類のものはいつの世にも出回る。薬売りの連中とか特にそうだ。奴らはミイラなんて売ってる。そんなものを食べてどうなるかわかったものじゃない。そうだろう?」
何だろう、頭の奥で警鐘がなっている。もしかして興味をひかれた?何もしてないぞ。なぜだ。
「そうかも知れません。」
なので一言だけでそっけなく答えてみるけど。
「そういえば…、まだ君のような年齢の子とはやったことがない。その美しい顔が歪むことを見せてくれないか。」
は?え?マジ?そっち系?メイドに手を出しちゃう系?いやいや。自分の家のメイドでもないでしょう、何考えているの。ばれたら大変ですよ。スキャンダルですよ。だけどそれを言うのは得策ではない。知ってる。権力者は自分が窮地に追い込まれる状況を下のものに指摘されたら怒る。
怒らせたらレイプされるの間違いなし。よし、話題をそらそう。何が悲しくて子供のままトラウマのような初体験をしなくちゃいけないねん。
「芸ならいくつかできます。歌を歌いましょうか。」
「怖いのか?」
怖いとかじゃなくて、理不尽でしょう。
「恐れ多く。」
「やってみないとわからない。それとも経験があるのか。だが、そうだな。自分でほぐしてみろ。やり方はわかるか?」
こいつ…。アンナさんを傷つけたのって、本性がこんな感じだから?
「申し訳ございません、旦那様が仰っていることの意味がわかりかねます。」
はぐらかしてみるも。
「とぼけているだろう。それとも試しているのか。」
なんでわかったし。
リチャードさんが手を伸ばしてきたので後ろに下がる。
「お許しを。」
「何を許せばいい?自分で言ってみろ。」
やばい。防御を崩しに来るのがうまい。物理的に手籠めにしようとしてないだけまし?いやいや、ないって。
「旦那様のものを挟むには狭く窮屈な思いをしてしまうはずでございましょう。」
仕方なくカードを切る。こっちのカードを見せたんだからそっちも…。
予想通りリチャードさんは愉快気に笑う。
「今のはよかった。歌ってみろ。」
やった。窮地を脱することに成功した。根っから悪党じゃないって直感がうまく働いて気をそらすことができたようだ。
「わかりました。」
実は転生してから声の出し方がずっとよくなっていたので、ずっと練習していたのだ。イザベラさんのお屋敷に来てからはあまり歌っていないけど。
ただこの時代の感覚で21世紀の歌とかを聞くとどう反応されるかわからないので、無難にヘンデルが作曲したオペラリナルドで歌われた『私を泣かせてください』を歌う。イタリア語だけど、歌詞が好きだったので覚えている。
Lascia ch'io pianga mia cruda sorte,
過酷な運命、私を泣かせてください、
e che sospiri la libertà.
自由に焦がれることをお許しください
Il duolo infranga queste ritorte
苦難に侵された悲しき思い
de' miei martiri sol per pietà.
あなた様からの慈愛を祈ります。
元のオペラでは何回もこの歌詞を繰り返すものだけど、一回だけ。時間稼ぎをしているとは思いたくなかったから。
「美しい。歌詞の意味は知っているか。」
褒められて嬉しくなるけど顔には出さない。冷静に行こう。
「はい、今の状況にピッタリかと。」
そう、私を自由にさせろください。
「随分と強かなようだな。」
そりゃ強かですよ。なんたって前世の記憶持ちにして娼館であくせく働いていたんだから。
「慈愛を求めるメイドの祈りは届いたのでしょうか。」
「ああ、届いたとも。お前はうちの劇場で育てよう。歌手になれ。」
いやいや、今度はそっちか。アイドルか何か?メイドをスカウトしていいの?それともこういうもの?
「それはとても…。」
「光栄なことだろう?」
「難しい話でございます。」
リチャードさんは少しの間、何も言わずに私を値踏みするように上から下までなめまわすように見てから聞いた。
「なぜだ?」
「私はレディ・イザベラの侍女にございます。」
「やめればいいだけの話だろう。」
「彼女には恩義がございます。」
「人の道理を説く気か。」
「わがままにございます。」
また近づいてきたので下がる。
「ますますほしくなる。だが、そうだな。狭いんだったな。」
「はい、まだ血も流れない処女にございます。」
「処女との経験は何度もある。」
こいつ…。
「女優との関係でしょうか。」
ほかの貴族女性や上流階級の女性、もしくは男性と関係をしているようには見えないとかそういう直感的なのではなくただの消去法。慣れてるけどスキャンダルを引き起こせるような人間は権力欲やどこかしら心に弱みを持っている。
しかし彼はやけに堂々としているし陰湿な感じがしない。芸術に対する志向が強いだけ、美しいものに目がないだけ。まさに芸能関係者みたいな感じ。
そんな人間が相手にするのはやはり女優とかになるでしょう。
「そうだ。奴らはすぐに目移りをする。つなげておかないと。」
やはりね。
「子供ができてしまいます。」
「避妊はしている。」
「ご忠告にございます。話すのをどうかお許しください。」
「言ってみろ。」
「旦那様はアンナお嬢様の前には罪悪感を覚えていられるのでしょうか。」
「メイド風情が俺に説教でもする気か?」
これは当たったかな。
「そうではございません。自分でもどうしようもできないほどの衝動に突き動かされていらっしゃるのでしたら、それは心の病にございましょう。」
そう、美しいものだと性的興奮を覚えるの、それは倒錯的な執着のようなものである。本人も自覚しているのだろう、だから妻の顔を見ると罪悪感が沸き起こって、それを思い出させるとつい殴ってしまうと。
「心の病?心が病なんてものにかかるというのか。」
「はい、病にかかった心は体にも影響を及ぼします。」
「根拠はあるのか?」
「メイド風情が旦那様にこのようなことを言う理由は旦那様の健康を気にしてのこと以外にあり得ましょうか。」
「時間を稼ぐ奇抜な方法ではないと?」
「まだ未熟な果実は酸っぱいだけだと言います。価値を感じることがございましょうか。」
「幼さに魅力を感じる人間も少なくない。」
「ですが旦那様は違うのでございましょう?」
「だったらどうする?」
「一人のメイドが平和に主人のもとへ戻るだけにございます。」
リチャードさんはまた一歩近づいてくる。
壁が背に当たる。もう後ろに下がることもできなくなってしまった。
実力行使をするしかないかと悩んでいた時、彼は私の頬に手を伸ばして手の甲で撫でた。
「君がもっと年を取っていたら燃え上がる恋ができたかもしれない。」
くすぐったいけど我慢しながら見上げていると、つむじに口づけを落とされる。
「君に神の祝福があらんことを。」
どう反応すればいいかわからずぼんやり見上げると彼は背を向けて扉まで歩いた。
「レディ・イザベラのところで仕事を辞めたらいつでもここへ来ていい。ああ、だが、そうだな。出来れば君の初めてをもらいたいものだ。」
やっぱりやばい奴だった。
「アンナ様に申し訳なく。」
彼はため息をついてから舌打ちをした。
「人生は思いのままにはいかないものだな。そうだろう?」
私はスカートを摘まみ上げて軽く頭を下げる挨拶をしてから扉を閉じた。
イザベラさんにはどこまで言えばいいのか、今から悩ましい。




