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19世紀のロンドン、下層民の女の子として生まれる  作者: デイロー
2章 ヴィクトリアンなメイド、ルミ
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4話 イギリスの料理事情



 今日はイザベラさんの友人、アンナ(私じゃない)さんと姉リアナさんが来るという話で、みんなして忙しい。主に厨房と家の掃除。掃除は調度品によって磨き方が違う場合があるし、高いところや重いタンスの下とか、全部ピカピカにする。

 「ルミ、そっちのカーペットを持ち上げて」

 「ルミ、梯子を支えてくれる?」

 「ルミ、このタンスを動かしてほしいの」

 はいはい、やりますとも。

 こうやって朝の掃除が終わると次は厨房。厨房は厨房担当の子たちがそれまでうまくやっていたけど、私が調理に必要な一通りのプロセスをこなせることを知られてからはこっちも参加することに。掃除担当の子たちはそのまま洗濯に行って、私は厨房なのである。

 一般的にイギリス料理がひどいと言われるのはそれまではそこそこ豊かであった食文化がヴィクトリア時代になってから衰退したからだと考えられる。別にイギリス人がメシマズの状況を喜んで受け入れていたわけじゃない。流れ的にそうなってしまっただけで。

 中産階級と労働者階級には料理の空白時期というのがあるんだけれど。

 第一に農村部から都市部への人口移動で農村部で伝えられていたレシピが消失した。

 次に産業化や植民地支配による国全体の富の増加で中産階級では自分で料理をせずメイドを使うかパン屋で美味しく焼けたパンを購入するようになり、中産階級の中から伝わるレシピがなくなっている。

次に家庭のレシピが復活したのは都市部にガスのラインが作られ、キッチンストーブが一般化した1880年代。

 農村部から都市部への人口移動が始まった時期を考えるとざっと百年ほどの時間が飛んでいることがわかる。

 これがただレシピがなくなっているだけで終わらず、それなりに豊かだった食文化ごとなくなっていることから復活させることにも限度があった。

 パン屋はこの空白期間にも開いていたし、植民地から輸入されるお砂糖の供給量も増える一方だったので多くのレシピが未だに残っているけれど。

他の国々はレシピも残っていたし、時代の変化を受け入れ新しくレシピを作っていたし。そんな中イギリスは…。カレー?カレーね…。

 しかし貴族家で出される料理の味はそれなりにいい。レシピも残っているし。見た目も悪くない。

ただ貴族料理は庶民料理とは思想が違うので味と言っても少し特殊。

この時代を支配している思想は何か。功利主義とか消費主義とか…、普通に資本主義とか考えられるけど。

 人々の生活は同時代の産業がどのように形成されているのかに深く影響を受けるんだけれど。それは国の支配的思想を体現することを流行の最先端と受け取る貴族からしたら当たり前のこと。

 何をやっても効率を優先するのがこの時代の風潮であった。現実的に効率を求める。つまるところ、実用主義である。

 結果、料理のコツも実用主義に傾く。

 実用的な味の追求って何ぞやという話だけれど。

 先ずは食材となるものの味だけを活かすか、香辛料をふんだんに使うかに分けられる。

新鮮なお魚や貝の類はレモンかお酢、塩だけで味付けをしてから茹でたり、茹でたり、主に茹でたりしてハーブを添えて食べる。とてもシンプル。

 肉類は香辛料を使って臭みを除去するだけにとどまらず、複雑かつ贅沢な味になるようにする。

パセリ、ローリエ、バジル、シナモン、クローブ、コリアンダー、ローズマリー、コショウ、ウィスキー、タイム、セージ、オレガノ、トリュフ、そしてカレーの中身になりそうなもの。

これらを適切な量を適切な箇所に入れてオーブンで焼いたり、オーブンで焼いたり、主にオーブンで焼く。

 なぜオーブンなのかって、オーブンの方が茹でるより正確に決まった時間を要するから、その数字の効率を美学として楽しむような感覚。精密さが味の秘訣で、だからこそ貴族に相応しいと。

炒め物も出されるけど、主にチャーハンである。

 海の幸は茹でて、肉類はオーブンに、お米はチャーハン。

 そして種類を数えるのも馬鹿らしくなるほどのバリエーションを持つ午後3時のおやつやデザート。

 なんたってアイスクリームまで普通に食されているのだ。

 冷蔵庫もあるし、業者から氷が買えるのである。

 冷蔵庫と言っても大きな箱の中に大きな氷の塊が入ってるだけのもので、中には冷やした方がいい食材を入れておく。

 この時代の氷の貿易は、北大西洋を中心に植民地を含むヨーロッパ各地とつながって行われた。真冬になったら主要都市にある川から氷を切って各町にある貯蔵庫に数十トンから数百トンを保管して市場に供給していた。

 値段は一キログラムあたり1000円ほどで、家に冷凍庫のない時代にしてはそう高い値段ではない。

 そう高くないと言ってもあくまで上流社会の感覚ではあまり高くないということだけど。

 ヴィクトリア女王陛下が成人となった誕生日には潰したパインアップルと氷を混ぜたアイスクリームが出されたことからアイスクリームがこの時代の貴族に愛されたことがわかる。

アイスというよりスムージーに近いかもしれない。作る過程は単純。桶に氷を入れ、その中に桶より少し小さいアイスクリームマシンを入れる。

 アイスクリームマシンと言っても自動ではなく手動のミキサーみたいなもの。クリームとすりつぶした果物、小さい氷を適度な量を入れて混ぜる。

 クリームと果物とアイスをスプーンで混ぜても作れる。

 ヴィクトリア時代の料理はそれがどれほど凝った料理であってもレシピに入る香辛料の組み合わせや量に違いがあるだけで、煮込んだものを焼いてまた炒めて揚げるなどと言った複雑なプロセスは必要としない。

これを実用的と言わずなんという。味はいいんだからそれでいいじゃん、みたいな。ソースはかなりの種類がある。主にインド由来のもので、

使用人が食べるものはオーブンは使わずできるだけ簡単に、それでいて効率よく美味しさを求めることができるようなものとなっている。

 自分が効率よく香辛料を味わいつくしたという事実を自分で受け入れることで味自体を楽しむことができる。

 食べて美味しい!じゃなくて。程よく効いたトリュフを鳩のむね肉と楽しむという…。いかにも貴族ってイメージ。

 ちなみに野菜も茹でる。スープの出汁とかは先に作っておいて、それを料理をするたびに入れる。ここでも効率を求める精神が発揮される。

 使用人のまかない料理も効率を求めているんだけれど。主に茹でる。貴族が食べるものと食材自体は劇的に変わるわけではないけれど、貴族に出す料理のように正確さ、精密さは気にしない。

 ただちょっと特殊で、編み物の中で茹でる。主にプディングを食べるけど、プディングと言っても小麦粉が口の中で柔らかく溶ける感じのプディングで、あのぷにぷにとしたプディングじゃない。

 生地の中には肉や果物を混ぜるか包むか。

 編み物の形が生地にくっきりと残って、見た目も悪くない。水の入った鍋の中に編み物で包み込んだ生地を入れて茹でる。これを適度なサイズに切り分けてお皿にのせて食べるのである。割と味がいいだけじゃなくて、厨房の中にあるものは割と何でも食べてよくて、ただ主人が食べる新鮮な食材とオーブンを使うのだけは許されない。

 ソースとかかけ放題。クリームとかもかけ放題。だから食事の時は至福の時間である。使用人の食事は主人の朝食が終わった朝の10時から11時、そして主人の午後3時の紅茶が終わってからの午後4時から5時。

 食事は二回で、お茶とおやつの時間が主人が昼食を終えた午後2時から2時半くらいまである。

今日イザベラさんとその友人たちに出されるメニューは、昼食にオーブンで焼いた香辛料たっぷりのウサギのプディングとハーブと牛肉で出汁を取った透明なスープ、別段変わることのないマッシュドポテト。デザートにはプラムのアイスクリームと甘いクリームの乗ったフェアリーケーキ(カップケーキのこと)。

 食べちゃいけないことを知っているけれどいかにも美味しそうで…。

 少しの我慢である。茹でたバージョンのウサギのプディングは後で食べられる。ウサギ…。可愛いのに死んでいる。そして美味しい。なんて残酷。

 食事を配膳してから壁側で待機。

 私たちメイドは無言でいる中、貴婦人たちの会話は自然と弾む。

 「この前子供が一人なくなってるんでしょう?大丈夫?」

 イザベラさんが姉のリアナさんに聞いている。リアナさんもイザベラさんと似て綺麗だけど、全体的に線の細いイザベラさんに比べリアナさんは少しだけ丸い。

 「心配してくれてありがとう。仕方ないものね、子供の命なんて…。まだ女の子の服を着ている時期で、髪も伸ばしていたんだけど。名前は憶えていて?」

 「ごめんなさい、忘れたわ」

 「あなたっていつもそうよね。だから結婚する気がないの?自分の子供の名前すら忘れてしまいそうだから?」

 「そんな余裕はないわ。年々客は増える一方なの。線路が増えて、列車旅行で地方からこっちに来ている貴族がどれだけ多いか知っていて?彼らはロンドンの劇場を求めているわ。私が結婚したら誰が管理するの?」

 「そういうのは夫が代わりにやってくれるものよ。女は家で夫を癒すだけでいい。女王陛下だってそうしていらっしゃるのに、あなたはいつまでもお高く留まっていて。結婚してみれば女としての喜びがわかるものなのよ。アンナ、あなたもそう思うでしょう?」

 その言葉にどこか儚い雰囲気がする美人なアンナさんは。

 「私の夫は思っていたのとは違っていて」

 「あら、どのように?」

 「彼は……たまに私を殴るわ」

 角度的に後ろなのでイザベラさんの顔の表情は見えないんだけど、背中からでも怒りが感じられた。

 「そう…、その話はお茶の時にしましょう。長くなりそうじゃない?それより、今日、実は紹介したい子がいるの…

 「そういえば見ない顔がいるわね」

 リアナさんがそう言うと。

 え、なんでみんなしてこっちを見てるの。

 「綺麗な子でしょう?」

 「ええ、どこで拾ってきましたの?」

 とアンナさん。

 「貴族の遊戯が娼館で行われているという話をしたことがあるでしょう?それで確認しに行ってみたら彼女がいたの」

 「あら、なら娼婦だったの?病気とか大丈夫かしら」

 リアナさんがイザベラさんみたいにいたずらっ子のような表情で見ている。流石姉妹、そんなところまで似てるんだね。

 「そうね、実際どうなの?私もまだ聞いてないわね」

 イザベラさんがそこで追撃。

 「私めは娼館生まれではございますが、客は一度も取ったことはなく、生まれて今まで一度も病気にかかったこともございません」

 「随分と今の職場が気に入っているようね」

 「病気だとしても養うわ。彼女は特殊な才能があるのよ。人助けの才能が。そうでしょう?」

 リアナさんの言葉にイザベラさんがフォローを入れてくれた。助かる。

 「人助けとは、具体的には?」

 アンナさんが私じゃなくイザベラさんの方に質問をする。

 「そうね、緑色の壁紙はいけない、だったわね?」

 「さようでございます」

 「実はホテルで使おうとしていたんだけど、別のホテルで体調不良の客が続出するという部屋の噂を聞いていたことがあるの。その部屋の壁紙、緑色だったわ」

 みんなしてまたこっちを見てる。

 「なぜ緑色の壁紙はいけないのか説明してくれる?」

 そうリアナさんに聞かれたので私はヒ素のことを話した。

 「自然科学に詳しいですのね。母親の名前がメアリー・アニングだったりしないのかしら?」

 とアンナさん。

 メアリー・アニングとは1799年生まれの、イギリス初の化石を研究した古生物学者である。名前からもわかるように女性。

 男性しかいない学問の分野で一人、農家の生まれながら古生物学の学会で色んな論文を発表したことで知られていた。

 「それは聞かないようにしているの」

 「言葉遣いも丁寧で教養もある。貴族の隠し子だったらどうするの?」

 「本人が言わない限り問題ないでしょう?」

 いや、言おうとしてるけど毎回遮られるし。ただの娼婦の娘ですって。激しく自己主張をするような強行突破とかはちょっとハードルが高い。

 「それで、彼女が特殊なのはわかったけど、それがどうしたの?」

 とリアナさん。

 「そうね…。面白ことを思いついたわ」

 イザベラさんは私に視線を向けているままニヤリと笑った。

 悪い予感しかしない。

誤字報告、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 初めて読ませていただきました。 読みやすく、歴史の知識豊富な作品をありがとうございます。 次話も期待して待っています。
[一言] この時代のイギリス全然詳しくないので楽しませてもらってます、続きも楽しみにしてます。
[一言] 更新お疲れ様です。 英国の家庭料理の衰退の解説が・・・・(TT) 主人公が今後メイド仲間や主人の付き添いにおいて外出で得られる知人関係とかで、家庭料理や郷土料理のレシピをアーカイブしては?…
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