2話 レディ・イザベラ
皆が寝静まった夜の屋敷は広さも相まって昼間とは違う雰囲気がする。
街道側から入ってくるガス灯の明かりはカーテンの向こうから入ってきて、青白く映し出されたカーテンの影はそれを通り過ぎる私自身を幻想の中に引き込もうとしているんじゃないかとチラチラと見てしまう。
1807年1月28日。その時、初めてガス灯の光がロンドンの中心街に灯された。そしてそれは以前までの景色を、人々が世界を見る感覚を一変させた。
それまで光は月と星空だけだった。松明とか、クジラの油などを使ったランタンとか…、そういう小さな明かりだけで、町全体を照らすなんてことはできない。
それに比べガス灯による明かりは町の景色そのものが外側と境界線を作っては薄っすらと浮かび上がるようにしていた。そして霧と混ざり合った景色はこの世のものではない異空間となる。
今からでも物語が始まりそうである。
この時代では割と幽霊などの霊的なものに関して否定するようなことはせず、あるかもしれないという気持ちを誰もがどこかしらで隠していた。
ただそれを大っぴらに言えそうな雰囲気ではなかっただけで。その代わりに何事も死に繋げていて、黒猫が目の前を横切ると死ぬとかの話もこの時代の産物である。
近くに薔薇がないのに薔薇の香りがしたらそれは死神がまとう香りをかいだからだとか、そういった類の迷信は新聞紙や雑誌、人々の会話の中からどことなく現れては不気味な残像を残しては消えた。
産業革命は多くの富を生み出したけど同時にその富を生み出す過程で数多くの破壊を伴った。職人文化や市民たちの奔放さ、心の余裕…。多くを持ってても嫉妬や妬みは増えるばかり。そして富こそ至上であるとそれ以外の価値を疎かにするような態度を持つ人たち。
モラルの低下は深刻な問題で、人々は新たなる基準となるものを求めていたのである。
この中で即位したのが我らの女王、ヴィクトリア陛下であらせられる。
彼女は夫アルバート公との結婚生活がどれほど幸せなものであるのかをよく民衆にアピールしていた。
そしてそれは民衆に新たな夢を抱かせた。家庭内での幸せな生活、俗世の争いや妬み嫉みから距離を取って過ごせる温かいひと時。
ヴィクトリア女王の一番の功績はこのように加速する産業化によって下がりっぱなしのモラル意識を引き上げたことにあるのではないかという意見もあるくらいである。
ただこれはイメージで、実際にヴィクトリア女王の即位からモラルが上がるようになったのかというと、それはいい意味でも悪い意味でも完全に一致しているとは言い切れないかもしれない。
女王陛下が即位する前である1833年に奴隷所有禁止法が発令されてるし。そもそもがまだ科学分野での重大な発見や発明が人々の死亡率を劇的に下げることには至ってないので死が溢れる現実のせいでモラルの低下を防げるのにも限界がある。天然痘以外の予防接種とか、ペニシリンとかないから。
そして人々の中に科学的思想は広まっていたけど、同時に病気の原因がわからず死んでしまうケースは後を絶たない。階級に関係なく死ぬときはぽっくり死んでしまう。炎症が悪化したり食中毒になったり、がんなのに診断することができなくてそのまま最終段階に行ってしまったり。
文明の発展と科学技術の成果がもたらす明るさと未熟なままで起きてしまう残酷な出来事が同居していた時代、それがヴィクトリア時代である。
この二律背反はよくironyという言葉で21世紀のイギリス人の感覚にもなじんでいる。
そんなことを考えながらも二階のレディ・イザベラのいる部屋、彼女の寝室にたどり着いてしまった。現実逃避なんてもうできないのである。ノックをする。
「どうぞ」
「夜分遅くに失礼いたします」
中に入って軽くスカートをつまみながら頭を下げる。結っていた髪を解いたレディ・イザベラは娼館で美人には慣れているはずなのに上品な魅力を感じさせた。自然体でとても美しく、芸術品のようで見惚れそうになりそうだけど私は見惚れないぞ。呼び出された以上気をしっかり持たないと。
部屋の中もガス灯の明かりで明るい。ただ明るいだけではなく、電気の光と違って小さな揺れがあって、それに照らされる鮮やかで鮮明な緑色の壁紙は自然で美しい…。いや、あれ?この時代の鮮やかな緑色の壁紙ってあれだよね。色を出すためにヒ素を使ってるんだよね…。え、大丈夫なの?
「私が呼んだのよ。そこに座って」
レディ・イザベラはパジャマ姿でソファーに座って紅茶を飲んでいた。そして彼女は私に反対側のソファに座るように促す。
「よく東ロンドンからここまでたどり着けたわね。秘訣を聞いても?」
私がソワソワしながら座るとすぐにレディ・イザベラから質問が飛んできた。
「子供の元気さ故でございます」
うん、娼館で言った口調を今から変えるのも不自然だし、変に下層民の口調で話したら馬鹿にしていると思われて追い出されるとか…、ヴィクトリアンメイドという夢の職場を失くないのでござるよ。勘弁して。
「その喋り方。どこの貴族の隠し子?それとも資産家かしら?」
やはりこの質問が来たか…。実は考えてある。
「どちらでもございません。実は私は…」「言わなくていいわ」「え?」
「そう。それを聞いたところで面倒になるだけでしょう。それとも弱みでも握れると?下手に挑発したら決闘になるかもしれない。法律では禁止されているけど…、未だに普通にあるもの」
返事に困る。というか、質問を受けた場合じゃないと自分から話すのは礼儀に反するので言えない。そう、よく悪役令嬢が転生したらヒロインに言っているこの規則は実はヴィクトリア時代では一般的なものだったのである。
「それよりあなたがどれくらいできるか気になるものだから…、そういえば名前を聞いてなかったわね。なんていうの?」
「アンナでございます」
「アンナは私の友人にいるから別の名前にしましょうか。私が考えてもいいけど、提案はある?」
え、アンナじゃダメなの?今から名前変わっちゃうの?
「ルミでいかがでしょう?」
「ルミ(Rumi)?意味はあるの?」
「異国の言葉でございます」
「どこの言葉?」
「日本語でございます」
半信半疑な目で見てくるレディ・イザベラ。いや私もちょっとどうかと思ったけど、咄嗟に考えられるのって前世の名前くらいだし。RがLのLumiだったらラテン語繋がりで何とか意味付けができたんだろうけど。Luminousが光という意味だから。
「日本語ね…。わかったわ。あなたの名前はこれからルミね。ルミ、今自分の財産をそれなりに持つ結婚していない若い女が一番恐れることを言ってみて」
「結婚でございます」
うん。ヴィクトリア時代の結婚生活ってちょっといろいろ問題があって。この不安を描いた作品がシャーロット・ブロンテのジェーン・エア。1847年発行されたこの作品、当時の女性がどの思いを結婚に対して抱いているのかを繊細に描いていて…、って当時って、今の時代じゃん。ちなみにジェーン・エアは子供のころに虐待される主人公とか、女性の自立心とかを描いているので…、何かデジャヴ感があると思う。それは別にいいとして。
「その理由は?」
レディ・イザベラが好奇心に満ちた目を向けながら聞いてきた。
「財産を運用するのにも夫の許可がないとできなくなるからだと愚考いたします」
ずっと目を合わせたまま会話をしていて、私の話を聞いた彼女の表情の変化は劇的なものだった。満面の笑みになったのである。
「そう、そうなの。合格だわ。貴族の遊戯を許可なく広めたことは不問にします。代わりにこれから私の話し相手になりなさい。それと…、そうね。次からは二人きりの時はあなたから話かけることも許可するわ。何か言いたいことがあるなら言って頂戴」
「感謝いたします、レディ・イザベラ。では一つだけ聞いてもよろしいでしょうか」
「うん。何かしら?」
ずっと言いたかったんだ。私はまだヒ素を吸い込んだ時間が短いためかそれともチートボディに毒は効かないという便利仕様でも含まれてているのか大丈夫だけど。
「今のご気分はいかがでしょう?どこか痛いところや体調が悪いと感じることはございませんか?」
彼女は少しだけ考えてから答えた。
「少し前から調子がよくないけど、何か心当たりでも?」
「壁紙にヒ素が使われているのが理由でありましょう。変えたほうがよろしいかと」
「ヒ素?ヒ素がなぜ悪いの?化粧品にも使われるものでしょう?」うん?ヒ素って毒物だよ?
「それも体に毒でございます」
「みんな毒を使っているってこと?」
「左様でございます」
「根拠はありまして?」
「ヒ素は農家でネズミの駆除などに使われるものでございます。生物に毒となるものは人にも毒となりましょう」
「なるほどね…。ちなみになぜヒ素が化粧品に使われているのかは知っていて?」
美容目的もある。メラニン色素を含む肌の表層細胞を死滅させて死人のような顔になれるから。ただそのような生物学的な話はこの時代の人間が知っているものではない。
それでも使っている理由の一つにちょっと貴婦人に言えないものがある。
だから言っていいものかどうか少し迷っていたけど。
「知らないなら答えなくていいわ」
「性欲の抑制をするためだと聞き及んでおります」そういうとレディ・イザベラは薄っすらといたずらっぽく笑った。
「女性の性欲なんて信じられないものだけどね」
「レディ・イザベラは信じておられるのでしょうか」
「貴族なら婚約者が決まる前はみんなして多かれ少なかれ楽しむの。女王陛下がご即位なされてからは少しだけ厳しくなったけど…。それが成人になってしまうとどうしても…。娼館にいたのなら知っているのでしょう?これらのことも詳しく…。もしかして経験がありまして?」
「経験はございませんが、知識としてなら知っております」
「私も異性とは経験してないわね。下手に繋がったらすぐに結婚まで一直線になることだってざらにあるもの。この窮屈さをわかっていて?」
「想像するなんて畏れ多く」
「そう…。例えてみて?」
「何にでございましょうか」
「そうね、上流社会の貴族が結婚に持つ不安を、あなたが知っているものに例えてみて?」
「ヘンリー8世の結婚はいかがでしょう?」
テューダー朝第二代のヘンリー王は最初は順調に結婚生活をしていたんだけど、途中から男児を残すことに執着するようになり、女をとっかえひっかえしながら関わった女性全員に傷を残し、離婚のために罪をでっちあげて処刑までしている。かなり後の世で遺伝子疾患による脳機能障害で性格が急に変わったのがわかったけど、当事者からしたらたまったものじゃないし、原因がわからないと弾劾とか政変とかもできないわけだし。
「そう、そうなの。この不安を口にすることも許されないなんて、ひどいと思わない?人にとって自らの魂をかけて関わる仕事を取り上げられる苦痛がどれほどのものなのか、ラッダイトを経てもわかってないようなの」
「レディ・イザベラはどのようなお仕事をしていらっしゃいますか?」
「初めての質問ね。せっかくだから当ててみて?」
「地主でしょうか」
「すべての貴族は地主よ。土地を運用することは貴族のたしなみね」
それもそうか。じゃあ何だろう。農場を経営しているのならもっと農村部近くにいないとおかしい。
「宿泊業なんでしょうか」
「具体的には?」
「ホテルを所有していらっしゃいますね」
単なる消去法である。女性が運営に携わるなら表に出ない方がいい。劇場の場合は所有者が表に出る時があるので女性の立場からしたら少し厳しいし、賃貸業だって自分で直接人と頻繁に接触する必要がある。なので残りはマネージャーを表の顔にできるホテル業くらいしか思いつかなかったんだけど。
「正解。やはり娼館に過ごすような子ではないわね。自分でも自覚しているのでしょう?王室のメイドでもその年齢だと…、今いくつ?ううん、それも言わなくていいの。どうせ忘れるわ。それより…。そう、壁紙。今日は別の部屋で寝るとテイラー夫人に伝えてくれないかしら」
「かしこまりました」
「今日の話はこれで終わりだけど…。何か要望があったら言ってみて?」
「では今のように私めが時折言うことをお聞きいただけるようお願い致します」
「壁紙のこと?そうね、私のためかしら?それとも…。どっちでもいいわ。随分と高く買ってもらったものね。あなたに気に入られるようなものでもしたのかしら?メイドになったことを喜んでいるの?」
彼女が私を信じてなかったのは化粧品でも使われているのに壁紙ではだめなのかと暗に聞いていた時から薄々気づいてはいたんだけど、私に悪意がないことからなぜ自分のために助言をする気になったのか気になったのだろう。
「娼館の子らしくただはしたなく媚を売っているだけでございます」
なのでここでは他意はないと伝えておく。
「あら、誘惑しているの? いけない子ね」
え、いや。え?
どう答えたらいいかわからなくて黙っていたら。
「冗談だわ。そこまで卑屈にならなくていいの。あなたとの会話は…、不思議な感じがするわ。ルミ、ちょっと近くに来て」
言われた通りに近づくと額に口づけをされた。
「あなたのような娘が生まれるのが約束されていたら、私も男と結婚する気になったのかしらね。さあ、ここから出ましょう。ヒ素は毒物なのでしょう?」
うん。毒物で、ヒ素の壁紙が貼られた部屋で生活したら普通に死んじゃうから。よかったというべきか。よく間に合ったというべきか…。
それにしても。
やばいのだ。何がやばいって、貴族の話術って自分のペースを作ってそこに会話の相手を簡単に載せてしまうところがやばい。身分差のある人と会話した経験なんて前世を含めてもやったことがなく、だから衝撃的だった。我ながらよく会話についていったんだと思う。
というかそれがうまくできなかったから色々言ってしまった気がするけど、本当に大丈夫なんだろうか。彼女は、悪い人ではないというか、いい人だと思う。だけどなんというか、圧倒された。次からはもっとましな会話になるよう気を付けないと…。




