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レオンハルトとクリストファーと三人で邸に入ると、真っ赤に腫れたクリストファーの頬を見て、アリッサが悲鳴を上げた。
カトリーナはアリッサにクリストファーの手当てを任せて、少し二人きりで話がしたいというレオンハルトとともに自室に上がった。
手が塞がっているアリッサのかわりに使用人が紅茶を煎れて、夕食前だからと軽めのマカロンを茶請けにおいて下がる。
「驚かせて本当にすまなかった」
猫舌のレオンハルトは、湯気の立つ紅茶には手を伸ばさずに、小さく頭を下げる。
「いいえ。確かにちょっと驚いたけれど、男性同士の兄弟はよく喧嘩をするものだとアーヴィンが言っていたもの。アーヴィンのお友達も、よくつかみ合いの喧嘩をするんですって」
男の子って大変ね、と頓珍漢なことを言うカトリーナに、レオンハルトが苦笑を浮かべる。
カトリーナは紅茶に角砂糖とミルクを落として、スプーンでかき混ぜた。琥珀色の紅茶の中でミルクが渦を巻き、溶けあっていく。
「クリス様は、国にとどまってくださるのかしら?」
カトリーナがスプーンをおいてぽつりとつぶやく。
「君は……、本当に、クリストファーが好きなんだな」
「え……?」
カトリーナがハッとしてレオンハルトを見ると、彼は少し淋しそうな表情を浮かべていた。寂しそうで悲しそうな彼の顔に、カトリーナの心臓がざわめく。
(やだ……、どうしてそんな顔をするの?)
まるで、クリストファーにカトリーナを取られるのが嫌だと言っているみたいだ。
カトリーナはレオンハルトの表情に目を奪われて、「クリストファーが好きなんだな」という彼の言葉に「否」と告げることを忘れた。
レオンハルトは考え込むように視線を落として、それから真剣な顔になると、立ち上がりカトリーナすぐそばで膝を折る。
「……レオン?」
まるで、騎士が忠誠を誓うかのような姿勢に、カトリーナは戸惑った。
「君にはひどいことをした。自分勝手な理由で一方的に婚約を解消して、今更こんなことを言う俺を、君は決して許してはくれないだろう」
レオンハルトが恭しくカトリーナの手を取る。
カトリーナは、目の前で何が起こっているのかわからなかった。
「レ、レオン、婚約のことは、怒ってはいないの。だからそんなことをしないで」
一国の王太子に膝をつかせているという状況にカトリーナは動揺してしまう。
確かに一方的だった。でも、レオンハルトには好きな人がいると聞いた。だから、仕方がないのだ。
(好きでもないわたしと結婚するより……、好きな人と結婚した方がいいものね)
カトリーナの心臓が、とげが刺さったかのようにじくじくと痛む。
婚約破棄されたのち、カトリーナはレオンハルトのことを好きになってしまったけれど、そんなことを言っても今更仕方がないのだ。
婚約中に今のように友人関係を築けていればあるいは婚約は解消されなかったのかもしれないと後悔したところで―――、仕方がない。
すべて終わってしまって、―――そして、レオンハルトはこれからはじまるのだろう。カトリーナの恋は何もないままに終わってしまうけれど、レオンハルトは好きな人と幸せになってほしい。
こうして、友人として接することができるだけで充分だと、カトリーナは思うことにした。
レオンハルトはカトリーナの手をぎゅっと握りしめた。
「君が怒っていなくても、俺はすごく後悔している。どうしてあのとき、君のことをよく知ろうともしないで、あんなことをしたのかと……。婚約は解消するのではなかった」
カトリーナの鼻がツンと痛む。
それ言ってくれるだけで、充分だった。だから、もういい。
「レオンお願い、立って? 膝なんてつかないで。わたしはあなたとこうして友達になれて―――」
幸せなのだ、と続けようとしたカトリーナだったが、続けることはできなかった。
「君が好きだ」
カトリーナにかぶせるように告げられた言葉に、呼吸すらできなくなったからだ。
息を呑んで、そのまま止めて、時間が止まったように目を見開いてレオンハルトを見た。
「君が好きなんだカトリーナ」
レオンハルトがカトリーナの手の甲に口づけを落とす。
手の甲に感じる熱にハッとしたカトリーナは―――、弾かれたように立ち上がった。
「な! ど? まっ」
通訳するならば、「なんで! どうして? 待って」。
驚きすぎて、言いたいことの頭文字しか言えなくなったカトリーナは、レオンハルトの手を振り払って、壁際まで逃げていく。
頭の中が真っ白になって、自分でも何をしているのかわからなかった。
壁際まで飛びのく途中に、ドンと棚に当たって、その上においていたものがバラバラと床におちる。
カトリーナはそれにも気がつかずに、壁に張りつくと、壁の向こうに行きたいのだと言わんばかりに拳で壁を叩いた。
さすがにレオンハルトも異常を感じとって、カトリーナに駆け寄ると、壁を叩いているカトリーナの手をそっとおさえる。
「カトリーナ落ち着け!」
「落ち着けないわ!」
結果、壁に囲われるような体勢になってしまったカトリーナは、やけくそのように叫んだ。
心臓が壊れそうなほどバクバクしている。深い呼吸ができなくなって、全力疾走したあとのように浅い呼吸をくり返した。眩暈すらしてくる。気のせいか耳鳴りもしているようだ。よくわからないが、何でもいいから大声で叫びたい。
「レオンは好きな人がいるって言ったわ! ブラウンの髪の人を探しているって新聞で読んだもの! わけがわからないわ! どうして!?」
壁を叩く手は封じられてしまったから、かわりにレオンハルトの胸に「えい!」とばかりに頭突きをしてみる。見た目よりも分厚い胸板は、びくともしなかった。
泣きたいのか怒りたいのかわからない。
好きだと言われた実感はまるでなくて、混乱だけが襲ってきた。
レオンハルトはカトリーナの手首をつかんでいる手を離すと、かわりに背中に手を回して、彼女の華奢な体を抱きしめる。
すっぽりとカトリーナは真っ赤になって、このまま失神してしまうかと思った。今だったら母クラリスの気持ちがわかる。失神しそうなときって、息すら止まってしまいそうで、こんなに怖いのだ!
レオンハルトは硬直して、はふはふと息なのかシャックリなのかわからないような呼吸の仕方をしているカトリーナの耳元に口を寄せた。
「馬鹿な話だけど……、俺が探していたのは君なんだ、カトリーナ」
レオンハルトはカトリーナのふわふわと波打つ銀色の髪を梳くように撫でる。
カトリーナは驚いたが、息をするので精いっぱいで、今にも泣きそうにうるんだ青紫色の瞳をレオンハルトに向けるしかできなかった。
「カトリーナ、仮面舞踏会に来ていただろう? ブラウンのウィッグをつけて」
どうしてそれを知っているのだろう。カトリーナはますます混乱したが、小さくコクコクと頷く。
「その時に、赤と金色の仮面をつけた、金髪の男と踊らなかったか?」
踊った。だからこれにも頷く。
「あれは俺だ」
カトリーナは瞠目した。
「あの日、君に恋をした。ずっと探していたんだ。探していた令嬢がカトリーナだって気づいたときは、自分の愚かさに打ちのめされたよ」
カトリーナは驚いて頭の中を真っ白にしたまま、もぞもぞと動いてレオンハルトの腕から抜け出すと、ぎくしゃくと化粧台まで歩いていき、引き出しを開ける。そこには、仮面舞踏会の日に拾ったハンカチが入っていて、それを両手で抱えて戻ると、レオンハルトは目を丸くした。
「これ……」
「レオン、の?」
「……あのとき忘れて帰ったハンカチか。持っているとは思わなかった」
間違いない。間違いなく、あの時の彼がレオンハルトだった。
ではやっぱり、レオンハルトの言うことは本当で―――、カトリーナに恋をしたという言葉も本当。
レオンハルトはカトリーナをソファに座らせて、先ほど度同じように膝をつき、手を握りしめる。
「君を好きになったのはあの時だったけれど、君があの時の女性だとわかって、こうして会話ができるようになって、もっと君を好きになったよ」
カトリーナは握られていない手で心臓の上をおさえて、真剣な色をしているレオンハルトの双眸を見つめた。
「自分勝手なことを言っている自覚はある。君がクリストファーを好きなこともわかっている。君に怒られて嫌われる覚悟もしている。でも、……やっぱり君がほしい。あきらめきれない。クリストファーに取られたくない。だから、ほんの少しでいい、俺のことも考えてほしい」
レオンハルトが、先ほど返したばかりのハンカチを、そっとカトリーナの目尻にあてる。そこで、カトリーナは自分が泣いていることに気がついた。
自覚すると次から次へと涙があふれてきて、レオンハルトからハンカチを受け取ると、顔を覆ってうつむく。
クリストファーのことは好きだけど、そういう好きじゃなくて、レオンハルトが好きなのだと、言いたいのに、嗚咽がこぼれて言葉にならない。
レオンハルトは躊躇いがちにカトリーナの頭を撫でていたが、ふと棚から落ちて床に散らばったものの中に、複数の毛糸の玉を見つけて立ち上がった。
黄色に濃いブラウンにモスグリーン。どうして初夏に毛糸が転がっているのだろうと考えて、アリッサにカトリーナが攫われた状況を詳しく聞いたときに、彼女が毛糸を買いに行っていたのだと言っていたことを思い出した。
レオンハルトは毛糸を集めると、同じく転がっている紙袋の中に戻す。
「……レオンに、編んであげるつもりで買いに行ったの」
「―――え?」
レオンハルトは、紙袋を持ち上げて、棚の上に戻そうとしたところで動きを止めた。
「わたしは、編み物が遅いから……、今から作ろうって思って買いに行ったの」
レオンハルトは無言で袋の中に視線を落とす。
カトリーナはぐすんと鼻を鳴らしながら、涙に濡れている目でレオンハルトを見上げた。
「好きなのはクリス様じゃない。あなたなの……」
レオンハルトの双眸が、ゆっくりと見開かれる。
「わたしも、レオンが好きなの」
言うや否や、毛糸の袋を放り出したレオンが飛びつくように抱きしめてきた。
「本当? 嘘じゃないか? 夢じゃない?」
「本当だし嘘じゃない。夢かどうかは、ほっぺをつねって確かめるといいってお父様が―――、んぅ」
レオンハルトに唇を塞がれて、カトリーナは最後まで言えなかった。
苦しくなるほど強い力で抱きしめられて、角度を変えて唇をついばまれる。
カトリーナはまだ混乱しながらも、レオンハルトの背中に手を回した。
そのあとレオンハルトはカトリーナを離してはくれなくて―――、抱擁とキスは、クリストファーの手当てを終えて、夕食を知らせに来たアリッサが、部屋の扉を叩くまで続いたのだった。




