御文庫お茶会
世界の各地で着々と次の一手が打たれていた頃、日本では赤坂宮が珍しくたった二人のお茶会を愉しんでいた。
二人といっても艶っぽさは微塵も無い男二人なのだが……。
御文庫でのこの二人の男のお茶会はそれほど多くは無い。
もともとこの二人は公務で顔を合わせることは多く、どうしても話し合いをする必要があることならば、相互にアポイントメントを取ることはそれほど難しくなかったからだ。
が、側近を排し、二人だけで小部屋で語り合うこのお茶会は、両者それぞれに特別な思いを抱かせていた。
二人の男はある共通の自覚を持っていたからである。
それは自分が何かを語れば、それによって大勢の人間の命、命運が左右されるに違いないということを自覚している、ということだった。
その自覚が人前で言葉を発することを極端なまでに控えさせた。
そういう共通な思いを持っているからこそ、御文庫内で不定期に行われるこの会談は、両者にとって、遠慮会釈を一切排し、自由に本音で語れるという意味で非常に重要なものとなっていたのである。
「イギリスをよく説得できましたね」
「それは今まで日本がイギリスとの間で積み重ねた友誼の賜物ということでしょうな。私は、当初イギリスを先に処理するつもりでした。が、幕府スタッフ初め、軍部も皆対英宣戦布告には反対しました。皆言うのですよ、陛下が嘆かれると。私の意志ではありません。イギリスはそういう日本の姿をある程度理解している、ということでしょう。何にしてもイギリスとの協調戦略は今回の件でいよいよ決定的となりました。もう後戻りはできません。かの国と行けるところまでいくしか無いでしょう。もっとも、日本サイドにはブラックアメリカ、メキシコがおりますし、イギリス側には英連邦諸国、フランス亡命政府やオランダ亡命政府もついています。決して悪い立場ではありませんよ」
「しかし、いかにイギリスがこちら側についたからとはいえ、アメリカがこの状態をずっと黙っているとも思えませんが……」
「そうですね。政治家や国民を諦めさせることはできても、ほとんど無傷のアメリカ海軍などがいますからな。その可能性は否定できません。なので、少々小細工なのですが、ダメ押しはしておくつもりです」
「ほう?」
「まあ、イギリスの望みでもあり、我々の戦略とも合致し、しかもアメリカにはできないということだから、ということだけなのですが」
「対独伊宣戦布告ということですか。なるほど、殿下はそれにブラックアメリカを一枚噛ませるつもりなのですね。大義を重んじるアメリカの軍人にはかなりの重しになりますね。聖戦に赴くブラックアメリカに矛先を向けるわけにはいかないか……」
「ただ私としては、ヨーロッパの決着をドイツの一人負けという形で終わらせたくはないのですよ、本音では」
「戦後世界の秩序の中でソ連の存在が大きくなりすぎるということですか?」
「投降したジューコフ将軍の話で、スターリンがどんな国を作ろうとしているのかがかなり分かってきましたから。ナチスドイツが倒れても、そのドイツとほとんど同じような国が日本の隣国としてさらに強大になって残る、という未来はあまり好ましくありません。インターナシオナル、万国共産主義運動なるものが、各国の国民にどれくらい受け入れられるものなのかは、私には想像できませんが、その正体が、軍事最優先で領土と勢力範囲の拡大を狙う国家だとすれば、その脅威度はかなり高い。実際、ノモンハン以前、内閣に入り込んだスパイを使って日本を中国戦線に引きずりこんだのは、スターリンでしたからな。もっともそんな危険な国を作り出したのは、ほかでもない我が国、ということらしいので、これも自業自得ではあるのですが」
「日露戦争ですか。あれは厳しい戦争でした。当時のロシア国内の反政府運動勢力であったレーニンの共産党を支援するのもやむを得なかったようです。仕方ありませんね」
「終わったことは今更どうにもなりません。とにかくソ連に対しては多方面からいつでも攻撃できる拠点がある、という体制を作っておくことが総合的な安全保障を行う上で必要不可欠です。そういう対ソ包囲網を考える場合、ドイツも駒としては是非抑えておきたい。私の見るところ、ドイツという要素の中で邪魔なのはヒトラーとナチス党という存在だけのようです。この排除をドイツ敗戦の前に行えれば、いろいろと好都合かと」
「アメリカと同じように反対派の勢力で新たな国を作らせるおつもりですか?」
「それができれば一番です。しかしアメリカ人は自由と平等という理念で出来上がった人造人種だったので、その矛盾を突くことで割と簡単に分裂させられたのですが、ドイツ人は日本人と同じで、民族的に分裂する要素はありません。日本で朝敵と呼ばれるような存在を見つけるのが難しいのと同様、簡単ではない、と考えています」
「メキシコはブラックアメリカ建国ではたいへんよくやってくれましたね」
「もう少し手こずるかと思っていましたが、いろいろと幸運もあったようです」
「そうですか。それにしてもまさかメキシコ軍を足軽のように使うとは思いませんでした」
「ほほう、陛下には見透かされていましたか」
「長槍と鉄砲の代わりがあの戦車だったのでしょう?」
「まあ、そういうことです。どんな弱兵でも新しい兵器を与えたら戦闘意欲が高まるものですからな。前の米墨戦争でコテンパンにされ、落ち込んでいるはずのメキシコ国民を元気づけるにはこれ以上のものはありますまい。それに金を惜しまずに与えれば日本人でなくても、傭兵もそれなりに働いてくれるものです。今回の場合はアメリカ軍が先にメキシコに入ったようですから、なおさら戦意は高まったはずですし。当初からどうやったらメキシコをアメリカへの戦さに踏み切らせるかが最大の課題でしたから。アメリカ軍にああいう軍人がいてくれて助かりました」
「聞くところでは、幕府の若手が大活躍をされたとか」
「形の上では幕府は無関係です。彼等は民間の商社に出しましたから……。しかし彼等に限らず、今の若者というのは優秀なのには驚きました。出自を尋ねてもおよそ聞いたことのない、とても名家とは呼べない庶民出の者ばかりなのですが、計算能力は高いし、知識もある。彼等が選ばれたエリートであるにせよ、その中身が貴族でもない名家出身でも無いものばかりというのはすごいことです。教育がよほど行き渡らないとありえないことでしょう。今の我が国民の教育水準というのは驚くほど高いですな。私がいた元の時代ではとても考えられなかったことです」
「そう言って頂けると、うれしく思います。ですが、まだまだ日本は遅れているのでしょう?」
「いいえ、オーストラリアでメキシコ軍と日本軍両方の訓練をやってもらったジューコフ将軍も日本兵の教育レベルの高さは素晴らしいと言ったようですから、大いに胸を張ってもいいようですよ」
「どういうところが、でしょうか?」
「軍人の人の評価など単純です。命令を正確に守ることができるかどうか、です。ま、その命令というのが、口頭指示程度のものであれば、それほど大変なことではありませんが、命令の裏の裏まで読み取ってそれを実行するにはそれなりの知識と智慧、観察力など必要になりますからな。ましてや現代では命令書などと呼ばれるほどの分厚い書物になります。そういうことができる人物が普通に現れる、というのは、社会全体の平均としても基礎的な教養が高いレベルにないと無理でしょう」
「日本以外の国というのは、それほど臣民全体では教養レベルが高くないのでしょうか?」
「案外、そうなのかも知れません。もちろん優れた人間は多いし、そういう人間が国を動かしていることは間違いありませんが、国民全員がそういう人間のわけがありませんから。ただ私の見た昔の日本はそんなでは無かった。秀吉、光秀があれだけ出世できた、というのはいかに譜代の家臣の能力が低かったか、ということですからな。特に皆数字には弱かった。これが秀吉と光秀との最大の差でしたな。まして、譜代どころか、世の中全体を見れば、普通に言葉が通じ意思が理解し合えるという者ですらもそんなにおりませんでした。だいたい隣国の者でも方言がひどくて分からないことが多かったほどですからな。本当に何も知らない者ばかりでしたよ。だから一向宗やら比叡山やらに神だ仏だといいようにひっかき回された。私が思うには、今の日本人の平均がこんなにも高くなったのは、日本人全員が家康の影響を強く受けたからのような気がします」
「ほう、家康公ですか?」
「あやつは、ヒマさえあれば本を読んでいる、本の虫でした。そのせいか、いろいろと物知りで、私よりも若い癖に年寄りの言うようなことをよく申しておりました。おそらくそのせいでしょう。家康の家来も勉強家揃いになっていましたな。そんな家康が作った幕府が二百五十年もこの日本の舵取りをしていたら、それなりに影響はあるでしょう」
「すると今度のことも、その家康公の遺産を利用できたから可能になったというわけですか?」
「それは私としてはあまり認めたくはありませんが。そう認めざるをえませんな。これに関しては。私には庶民に教育を普及させるなどという考えはまったく無かった。きっと良かったのでしょうよ。私が本能寺でくたばって、最終的にあやつが日本をまとめたことは」
「はははは、私も是非、その家康公に会ってみたかった。殿下をそこまで悔しがらせる人間というのは滅多におりますまい……。ところで、アメリカはこのまま落ち着きますか?」
「ルーズベルトの後継者となったウォレス次第でしょう。ブラックアメリカの誕生は、アメリカの矛盾を突いたものです。ですからいったんは落ち着かざるをえません。今の形はある意味、理念が現実になった状態です。つまり二枚舌だったから二つの国家になったわけで。黒人、いや有色人種を認めた自由なのか、白人だけの自由なのか、分断の理由はそれですから。一つのアメリカというのはその理念の差を無視していただけです。二つのアメリカという状態は、ある意味課題が解決された状態でもあるわけです。これを不幸と嘆くか、それとも改善と受け取るか、でしょうな。これは他ならぬアメリカ国民の自覚の問題です。だから今のアメリカは当面身動きが取れなくなった、と見ていいでしょう。これは私の勘ですが、もしかしたらハワイ州、ワイオミング州あたりは、ブラックアメリカへの編入を決めることになるかもしれませんよ。いやそれだけに留まらずアメリカ合衆国はさらに二つに割れることになるかもしれません」
「さらに二つに? どういうことですか?」
「そもそもアメリカ人という人種はいません。それは一つの理念を受け入れている個々人の集大成として成り立っている人種です。その肝心の理念に矛盾があったのです。これはアメリカ人という定義の否定ですからな。元々バラバラだったものを束ねていたたった一つの理念が壊れたわけですから、その復旧は容易ではない。アメリカにもヒトラーの信奉者がいてもおかしくないでしょう?」
「そんなに大変なことなのでしょうか?」
「私もアメリカ人ではありませんから正確なところはわかりかねますが、政府の役人が自分たちの仲間として信頼できるかできないか、というのはおそらく彼等にとっては日々の生活の上で大変な問題なのではないかと。そこに安住できるか、できないか、という意味で」
「なるほど、そう聞けばなんとなく重要さが分かります。それで、アメリカが不安定になることで、日米関係には波風は立ちませんか?」
「そうなることを怖れているのは今はアメリカです。我々ではありません。お気を煩わせる必要はありません」
「そうですね。それでは、ヨーロッパはどうなりますか」
「ドイツは負けますが、ドイツを完全に消滅させるのは何としても阻止したいと考えています。退場させる必要があるのはヒトラーとナチスだけにしたい」
「スターリンは危険だからですか」
「ええ、その通りです。ですからヨーロッパでの戦さのケリがつく前に、日本の優位性を強化しておこうと考えています」
「というと?」
「一つはドイツに襲いかかるソ連軍の数を絞らせ、日本軍が牽制できる場所を東ヨーロッパに確保すること、さらに中国とソ連の間にクサビを打ち込んでおきます」
「それは軍を動かすという意味ですか?」
「はい」
「いつも陸軍を使うのですね」
「日本は海洋国ですから、海は平和にしておいた方が国の利益に適っています。が、遠い大陸の内部でいくら戦争をやっても日本の脅威にはならないでしょう? なので海軍力は必要に迫られた時しか使うつもりはありません」
「それでソ連への牽制として周囲を囲むように占領地を増やすとどんないいことがあるのでしょう」
「ソ連の長い国境線はソ連自身にとって大きな弱点です。現状は、その国境を接する相手がバラバラだから、スターリンは好きな場所に軍を移動できる自由を手にしている。が、もし、その広大な国境線を挟んだ相手が、同じだったとしたら」
「逆にスターリンは常に裏をつかれる心配をしなければならない、ということですか」
「その通りです。今までの日本がかけられる圧力は東からだけでした。従って、もしヨーロッパの戦争が終結すると、そのソ連の軍事力の矛先が東に集中する可能性がある。そうさせないようにするには、ソ連の西、南にもソ連に対する圧力をかけられる基点が欲しいのですよ」
「日本軍が占領した占領地はどういう扱いに?」
「イギリスの英連邦に倣った植民地的な存在として、そうですな、国家元首を陛下に、そして公用語として日本語を必ず学ばせるぐらいの制約がかかった日本連邦の構成国的な存在にできれば一番いいかなとは思っていますが。イギリスとの関係を対等に保つ上でも」
「元首の件はやめて、日本語だけにしてください。これ以上私の責任が増えるのは御免被ります」
「確かに面倒そうですな。分かりました。元首はそれぞれの地元民の意向を汲み取って決めるようにしていきましょう」
「日本語というのは?」
「言語は民族の持つ業ですからな。結局同胞としてわかり合えるかどうかの最初の一歩にせざるをえない。地理的にも文化的にも英仏独は近かったのに敵味方に分かれ、距離も成り立ちも違う米英が緊密な状態になったのも結局は言語から始まったと思うのです」
「日本語、外国人には難しそうですが……」
「そもそも日本語が世界から孤立した言語であることが日本を危険にしているのかもしれませんよ」
「日本人の言っていることは理解できない……、その言葉通りというわけですか」
「日本語を広く普及させれば日本が目立たなくなる、ということはあるでしょうね。そして安全保障の面ではそういう状態にした方が良いということです。私としては、少なくとも朝鮮半島、満州国は日本語の国にしたいと考えているぐらいです。植民地を作るよりも日本語を公用語に採用した国を増やし、日本語教育を普及させることの方が重要です」
「学者さんにはきっと反対が多いでしょう。彼等の文化を壊すことになるでしょうから」
「それは否定しません。言語にも生存競争があります。すべての言語が未来にまで生き残るという方がおかしい。がそれでも日本語は何が何でも残さなければなりません。日本の将来が掛かっている、と私は思います」
「そうですか。ただあまり急ぎ過ぎないように。死人がたくさん出るのは困ります」
「この件はそれぞれの政府に任せ、私は直接でしゃばらないようにしておきましょう。それにこれには憲法を変えないといけないというところがいろいろあります」
「憲法改正ですか。なるほど、日本がイギリスのように世界各地に影響力を持つなどという想定は全くありませんね。占領地の住民の民のことも視野に入れた新しい国の仕組みが必要になる、そういうことですね」
「そうです。そして陛下ご自身もイギリス王室のあり方に近いものとなった方が、今後のためにはいいのではないかと考えています。植民地同士が争うような事態では、その政争に皇室は巻き込まない方がよろしいのではないかと。それに今の憲法では私がいなくなったら陛下がそういうことを含め、私の仕事をすべてやるしかありませんし、私は私の後継者を育てることはできますが、それを皇位につけることはできません」
「それは確かに無理ですね。わかりました。それぐらい大事な問題なのだ、と今後は私も考えておきます。ところで、本日のお話では、ドイツにしてもソ連にしても陸軍としては日本よりもはるかに先輩格の国と対峙する可能性があるわけでしょう? 大丈夫なのですか?」
「兵器は進んだものを持っていることは認めておりますが、作戦指導は意外と古くさいものと私は見ています。それに自己過信が激しい。それと東条首相の推薦で、面白そうな指揮官を見つけられました。彼ならうまくやってくれそうです」
「そうですか。目途は立っているということですね。ではお隣の中国、毛沢東の紅軍や蒋介石の国民党軍とはどういう関係を?」
「今まで通り、無関係、無交渉状態を維持します。彼等に関わって得るものなど何もありません。向こうから何か仕掛けてくるようであれば、しっかりと対応します」
「殿下は東条や板垣の敵討ちを画策するのではと思っていたのですが、意外です。今ならアメリカもソ連も蒋介石を助ける余裕は無いでしょうに」
「いいえ、イギリスがいます」
「イギリスですか?」
「蒋介石はイギリス、毛沢東はフランスが支援してきた歴史がありますからな。日本が中国本土に存在しているとまずかった理由は今も残っているのですよ。私が中国中央部に踏み込まない理由でもあります。中国中央部は今も昔もイギリスの利権下なんですよ。蒋介石や毛沢東だけならそれほど難しくはありませんが、イギリスと敵対することは何としても避けたい。むしろ他の国の影響下に中国が入るよりも、日本の国益的には、中国中央はイギリスの影響下にある方がずっとマシだと考えています」
「毛沢東をフランスが支援していたというのは、どういう意味なんでしょう」
「おそらくイギリスに対する牽制、という意味だったんでしょうな。利権争いにイデオロギーなど関係ありませんから。イギリスが出ているなら、うちも出る、それが当時のフランスの立場だったのでしょう。とにかく毛沢東がフランス寄りで動いている間は問題にしませんが、もしソ連との関係が深まるといろいろと困ったことになると考えています。今、毛沢東の本拠地は延安にあるわけですが、ここはソ連に近いでしょう。あまり放置していい場所ではないな、とこう思うわけです。ですから延安から見て、北方西方へ続くところはすべて日本の勢力圏下においておきたい。毛沢東には南と東に布陣する蒋介石だけを見ていて欲しい」
「要するに毛沢東が中国人相手に共産主義を広めている間は問題にしないが、北方民族まで感化させられるのは困るということですか。しかし毛沢東のいる延安に近づいたら、逆に毛沢東は北、西に対して警戒を深めるのでは?」
「陛下は三国志を読まれましたか?」
「ええ、なかなか興味深い本です。面白く読ませてもらいました」
「今、毛沢東が拠点を置いている延安というのは、昔の長安のすぐ北ということになるようです。長安は古代中国において、西、北の異民族を阻む山に囲まれ、同時に、東の中国中央平原に対してもそれ自体が城塞のように機能する難攻不落の土地と認識されていたんですな。平原では守るのは容易ではありませんから。つまり古代中国の常識で見ても、中国全土に対し、軍事的に優位とみられる土地というふうに見て間違いないでしょう。ということは毛沢東はもっとも安全な場所として中国の一番端を選んだ、ということです」
「では、その外側の北西地域に日本軍が居ても、自国領に入ってきたという意識はあまり持たないということですか」
「事情通の話では、言葉や風俗がかなり変わるようですな。だから万里の長城が築かれたのですよ。私が狙う場所はいずれも万里の長城の外側です。毛沢東自身がいろいろ言ってもまわりの中国人からすると自分たちが命がけで守らないといけない土地だとはおそらく考えないでしょう。そういう意味では満州と近い。つまり満州人がそこに入って来るのなら自然に見える……。いや、中国の歴史というのは、世界の中でもとにかく異様だと思います。まるで大陸の中央平原が底なし沼のようだ。まわりを全部底に飲み込み、周辺をずっと未開のままにしてしまう。アングロサクソンが常に外へ外へと発展していったのとは真逆ですな。外から攻め込まれた場合は例外無く中国化してしまう。一方、内側で生まれても外へは出て行けなくなる。モンゴル帝国だけが、中国への進出と中国以外への進出を両方行ったために、世界帝国を築けた唯一の例外だった。これは私なりに考えれば、中国中央という場所は、よそ者には治められない場所だ、ということを表していると思います。つまり中国人になりきらないとダメな場所だと。日本人のままではおそらく治められないでしょう。陛下が大日本帝国元首であり続け、軍が陛下の軍だということを保ち続けるためには、近づいてはいけない場所なのではないかと思います。むしろそういう特異点が拡大しないようにその外側を固めることが日本にとっては肝要なのではないかと。あれだけの国土と人口を抱えた国が無制限に膨張するようなことになるのは好ましいことではない。アメリカと違って、中心となる理念があるわけでもなく、ただ単に数が多いというだけの存在ですから、いつ何時、変な方向、例えばナチスドイツのような存在に変わるかも知れないという危険もあります。楽観的な希望を申し上げれば、ウィグルを平定しチベット王室を保護し、インドへのルートを確保できれば、日英がその領域を管理する形で、中国の争いは外部に広がるのを食い止められるので、非常に都合がいい、と思っています」
「なるほど中国を封じ込めるための万里の長城、ということですか……。しかしそんな広い土地、大軍が必要でしょう? 大丈夫なのですか?」
「いや大軍など使いませんよ。私は無駄な戦力は使わない主義です」
「そうでした。殿下がそう言われるのなら、きっとそれで済むのでしょう。分かりました。どうぞご存分にご活躍ください」
「は、ありがとうございます」
今日の話は終わりというように、「陛下」は立ち上がった。
が、そこで動きを止めた。
「殿下、念のため伺いますが、世界を納得させる口実はご用意されているのでしょう?」
「左様、山賊狩り、ですな」
「山賊?」
「いや山らしい山は少ないので盗賊というべきでしょうか。なんでも内情報告では、中国中央から逃げた盗賊が周辺の北方民族の村を荒らし回っているとのことで、その保護に手を差し伸べる必要がある……。なんでも中国人は辺境の民族を蔑視し略奪の対象にすることを厭わないそうです。北米と同じで、民族対立があるんですよ。日本人にはわかりにくくても世界の国々からはわかりやすい話だと思いますよ」
「世界というのはつくづくせつないものですね……。わかりました。では後は頼みます」
おそらくもう戦争は無い、という言葉を聞きたかったのだろうと、赤坂宮はその表情から読み取っていった。
いつの時代の天皇も言うことはたいして変わらない。それだけ大事に育てられた存在なのである。育ちの良さはどうしても人間のいい部分ばかりしか見なくなる人間を作りやすい。
が、たいていの場合は、それがよりひどい結果を招くことを赤坂宮はよく知っていた。
理解を示せても実際には関われないことが多く、人の残酷さというものに気がつけないのだ。
天皇という地位は、どんな問題でも当事者になることが許されない立場なのである。
戦さの指導など、はじめから天皇にできるわけがなかった。
要するに国家の危機に際しては、一番頼りにしてはいけないのが天皇だった。
赤坂宮の中ではそう定義づけられていた。




