5章 過去-8 彼女とキスなんてできないから
「なぁ、桃也さんの仕事って、そんなに危険なのか?」
二人の気配が消えた入口に視線を置いて、修司はぼそりと美弦に尋ねた。
「桃也さんは監察員。バスクやホルスの捜査をしているの。支部付のキーダーとはやっぱり違うのよ。私ももっと強かったらなりたいって思うけど……」
死と隣り合わせる事を危惧してキーダーになることを躊躇っている自分とは大違いだ。彼女はいつも強さに対して貪欲だ。
「折角力を持って産まれてきたんだから、キーダーとして最前線に立ちたいと思うのは自然な事じゃない?」
美弦は「当然でしょ」と言い切って仁王立ちのポーズをするが、「でも、こんな風船に手こずってるようじゃ、遠い話よね」と急に弱気になって、右手で掴んだ銀環へ視線を落とす。
そんなに急いで強くなりたいと思う心理なんて修司にはさっぱり理解できないが、彼女がその心情を吐露してくれたことは嬉しかった。
綾斗の心配した通り、彼女の思い描くキーダー像は現状と大分離れているらしい。
「そんなに急ぐことないんじゃねぇの? キーダーって十八歳位から力の兆候が表れるって言うぜ? 産まれた時からお前が銀環付けてるなら、生粋のキーダーって事じゃねぇか」
十八歳位で使えるようになるから、前もって備えるために十五歳でアルガスに入るのだと颯太は言っていた。それが本当なら、彼女の能力は至って正常なはずだ。
「ここに居ると、そんな悠長な事言ってられないのよ。アンタだってそうじゃない。バスク上がりのキーダーはエリートなんだからね」
声を震わせながら、美弦は早口でまくし立てる。
「いや、俺だって全然使えねぇし。この間一回打ったけど、銀環してからはもう……」
「一回でもいいの。強い力が使えるって確信が欲しいのよ」
目を真っ赤に潤ませる美弦。彼女との立ち位置が違いすぎて、掛ける言葉が見つからない。
「バスクだった奴の力ってのは、そんなに違うのか? 桃也さんも新人みたいなもんだって言ってたから、バスクだったんだろ?」
彼の名前を口にした時、明らかに美弦が声を詰まらせた。黙り込んで数秒沈黙した後、何故か吹っ切れたように「そうよ」と会話を繋ぐ。
「桃也さんは元バスク。私より少し前にアルガスに入ったの。詳しくは言えないけど、桃也さんの力を見ると、やっぱり羨ましいって思っちゃう」
アルガスに来て銀環を付けても尚、開示される情報量の少なさに無力感を感じてしまう。キーダーになると断言すれば、この状況は変わるのだろうか。
「みんな色々事情があるのよ。そんな事より今はアレをどうにかしなきゃ」
少し話したつもりが、京子が提示したリミットを半分も過ぎてしまっていた。
天井を仰ぎ見る美弦に、「お前でも無理なのか?」と尋ねる。本人こそ謙遜しているが、ここに居た二年間はきちんと訓練を受けている筈だ。
「何、そのカチンとくる言い方」
キッと強い視線を修司へ返し、美弦は力の気配を表した。胸ポケットに刺してあるペンを抜き、ポイと宙に投げて見せる。ノック式のありふれたボールペンは修司の頭上を越えた所で重力を捕らえた。そのまま弧を描いて床へと落ちていく途中で、ペン先が下を向いたまま制止する。まるで動画を一時停止させたように、不自然と宙に縛り付けられている。
念動力だ。修司も昨日の朝までなら同じ程度の事ができたのかもしれないが、銀環をした今では僅かに動かせる自信すらない。試しに床に落ちたままの赤い風船の残骸へと念を送ってみるが、こんな軽いものでさえビクリとも動いてはくれなかった。
美弦はペンを空中でクルクル回して見せる。プロペラのように中心を軸に回転させる様は圧巻だ。やはりきちんと訓練してるだけあるな、と修司は「凄いじゃん」と歓声を送るが、美弦は眉をハの字にし不服そうに零した。
「全っ然凄くない。距離が遠いと意識がブレるのよ。桃也さんみたいにはできないわ」
美弦はペンを今度は青い風船目掛けて飛ばした。弾かれたように跳び上がったペンは、修司の期待を煽って上昇するが、ペンの位置を見失ったところで、失速して床へ落ちてしまう。
「やっぱり届かないか。でも、とにかくやってみるしかないわね。道具を持ち上げるより、風船を落とした方が簡単かしら。アンタもやってみなさいよ」
美弦は両手をいっぱいに天井へ伸ばし、力を風船へと集中させる。隣に居て驚く程、彼女から沸き立つ気配は強いのに、如何せん目標に届いてくれないのは困りものだ。修司も言われるままに手を上げて「落ちろ落ちろ」と気合を入れて試みるが、効果はない。
こんな風に力を使うのも初めてかもしれないと修司は今までの事を振り返った。
力を使えば痕跡が残る。故に殆ど力を使う努力もしてこなかったのだ。力を隠す事、感情を高ぶらせないこと――幼い頃から颯太に言われてきたことだ。彼は力に詳しいと思っていたが、キーダーだったというなら納得の知識だ。
「あぁ――でも、そうか」
突然の閃きに、修司は銀環の付いた手首を持ち上げた。美弦は「何よ」と手を休める。
「俺さ、昔から伯父さんに感情を高ぶらせるなって言われてたんだよね」
「興奮が暴走を引き起こすって言うからね。正しい事だと思うわ」
「だろ?」と頷いて、修司は「だからさ」と人差し指を立てて提案した。
「お前の方が能力高そうだし、ここでお前が興奮すればいいんじゃねぇのか?」
安易な考えだとは思わない。我ながら良く思い付いたと称賛したいくらいだ。
「はぁ? 良く分かんないんだけど。ここで私に暴走させようっていうの?」
「銀環付けてれば暴走しないんだろ? 普段より一瞬でも力が増幅すればいいんじゃねぇの?」
不審がる美弦に、修司は胸を張る。距離こそあるが、軽い風船を動かすだけの力で良いのだ。
美弦はもう一度風船を見上げると、やや否定的な視線を返し、不服そうな顔のまま頷いた。
「やってみる価値はありそうね。でも、どうすればいいのよ」
「やっぱり、感情の高ぶりといえば、激高だとか憤怒だとか怒りだよな? お前ちょっと怒ってみろよ」
「簡単に怒れるわけないじゃない!」
既に苛立っているが、自覚はないようだ。しかし怒りが彼女の通常スキルだとすれば、怒りからの感情の高ぶりは望みが薄いのかもしれない。
じゃあ何だと考えて、修司は一つのアイデアに顔を上げた。
前に譲と観たジャスティが主演の映画の一シーン。主人公の少女が、想いを寄せる男に突然キスされて逆ギレするという場面。
これだ! と確信して彼女に振り向く。
「何よ」と眉をしかめる美弦と目が合って、ハッとした。正気の沙汰とは思えない。こんな場所でキスなんてできるわけないし、そんな度胸持ち合わせていない。逆に妄想で自分が興奮してきて、修司は慌てて頬を両手で叩いた。
しかし他にアイデアもなく、自分を奮い立てて頭にイメージを並べていく。彼女が怒り狂う顔は幾らでも出て来るが、そこまで持っていく過程に修司は「駄目だ」と首を振った。
「一人で何興奮してるのよ。今ならアンタの方ができるんじゃないの?」
それは一理あるかもしれないと思って一瞬技を試みるが、意識が散って風船に集中できず、思うようにはいかなかった。やはり美弦に託すしかない。
もう、ぶっ叩かれてもいい。キスは絶対無理だが、「覚悟しろよ」と意気込んだ。
躊躇う余地もないくらい、修司はそのまま美弦へと間合いを詰めて彼女の身体を抱き締めた。桃也と京子の抱擁を見て感化されたのかと笑ってしまうくらい、自分でも予想外の行動だ。
柔らかい感触と少し熱い体温が伝わって、修司は捨て身の気持ちで両腕に力を込めた。
美弦は一瞬抵抗を見せたものの、大きい目を更に見開いて身体を硬直させる。
「ちょっと、何してんのよ……」
小さく呟いた彼女の声が震えている。修司自身、目的を見失ってしまいそうになるが、このアイデアは秀逸だったようで、彼女の逆鱗をえぐる効果は十分にあったようだ。
想像以上の怪力で美弦は修司の身体を突き飛ばし、彼女の右手がバチーンと音を立てて修司の頬を撃ち付けた。
「ばっかじゃないの、変態!」
ホールに響く怒号。そして同時に彼女の両手は再び天井へと伸びた。
貼り付いたままだった青い風船が左右に大きく振れる。そしてゆっくりと白い天井を離れたのだ。
「ああああっ!」
美弦の怒りが歓声に変わる。修司を振り返り「すごい」と興奮して、また頭上を仰ぐ。
ようやく試練達成。しかし三十分なんてリミットはとうに過ぎていて、京子の力の効果が切れたのか、美弦の力が届いた結果なのかは良く分からなかった。
けれど、静かに落下してくる青色の風船を眺めて、耳まで真っ赤な美弦とハイタッチしたことには、頬の痛みにも勝る達成感を感じた。




