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若き宰相と小さなお姫様


 あなたが新しい宰相ね。私はミレーユ・ベルトルード。ベルン王国の王女です。





 十九歳で宰相に任命されるとは誰も思っていなかった。

 名前を呼ばれた本人でさえも、最初は聞き間違いだと信じていた。

 それまでの宰相が副宰相として支えてくれると聞けば、本当に若くして宰相に選ばれたのだと実感するしかない。しかしなぜ文官としても経験の浅い自分がと疑問も浮かぶ。

 十七歳で王宮の文官に採用されてからわずか二年での大出世だ。何か深い理由があるはず。

 しかし、どんな理由があっても宰相に選ばれたことに違いはない。誠心誠意、ベルン王国の国王陛下に尽くすまで。

 これまで以上に大変な仕事量になるのも覚悟の上だ。

 宰相になれば、給与も格段に上がる。そうなれば――

 副宰相となった前宰相に連れられ、挨拶のために玉座の間へ案内される。文官の時でさえ入る機会のなかった部屋に、どうしても緊張する。

 ベルン王国国王・マルベックは賢王と呼ばれ慕われている。王家主催の社交界デビューの場で見初めた王妃を亡くしてからしばらく姿を見る機会がないが、遺された一人娘である王女が塞ぎ込んでしまい、できる限り側にいるのだと聞いている。

 愛する王妃を亡くした賢王と、幼くして母を亡くした小さな王女。

 悲しくも物語的な親子の話は近隣にも届き、舞台の題材にされようとしている。

 その中で自身が宰相として国王の最も近くにいることを許された理由が必ずある。緊張を飲み込んで開かれた扉の向こう、玉座に座る人影が見えた。

 しきたりとして直視することは叶わない。許可を得るまでは絨毯が視界のすべてとなる。

「この度、新宰相を任命したのでお連れしました。まだ文官としての経歴は二年ほどですが、大変優秀で努力家。さらに生家の伯爵家内の仲も良好。後継は次男だと聞いておりますので、本人も身軽に動けるかと存じます。……ご希望通りの男であると思います」

 前宰相――ハルク・シットマン現副宰相の説明に違和感を覚えた。自身の任命に国王陛下の意志があったというのは本当なのか。そのために先代国王の時代から宰相を務めていたハルクを副宰相へと異動させたというのか。

 何を求められているのか、それを差し出せる仕事ができるのか、少しずつ不安になってくる。

 国王はまだ一言も発さないまま、足音だけが近付いてきた。いつの間に玉座から立ち上がったのか分からなかった。

 絨毯の上を一定の速度で歩く国内最大の地位を持つ人物。すぐそこまで来ていると分かる足音と、間もなく足の先が視界に入ってしまう焦りに目を閉じてしまいそうになる。

 まだ御身を目に映す許可は得られていない。なのに視界に入りそうな距離にまで近づかれている。この場合どうすればいいのかなんてどんな本にも載っていなかったし、その前に声を掛けてもらえると文官の先輩も言っていた。

「頭を上げなさい」

 丁度爪先が視界の上部に入ってしまい、心臓が暴れ始めた瞬間にようやく声がかかった。

 だけど、上げられない。

 視界の隅に見えるものと聞こえた声に驚いてしまい、表情を取り繕う余裕を奪われた。

 見えた爪先はほんのわずか靴の先――それとレースの裾。

 聞こえた声も高く、想像していたよりもはるかに低い位置から聞こえた。

 数年に一度だけ全国民の前に姿を見せていた国王の姿は背が高くて地を震わせるような低い声だったはずだ。何より、爪先がわずかにしか見えないような長さのレースの裾が足元にあるわけがない。

 震える肩を息を吐くことで宥め、許しを得た頭を上げる。

 ゆっくりと、勇気を振り絞る時間を稼ぐようにして。

「陛下でなくてごめんなさい。あなたには重要な任務があるので、あとで宰相の執務室でお話するわ。……本来なら多くの貴族や大臣たちの前での任命式になるはずなのだけれど、事情が事情なの。お披露目式はあるから、ご家族をお呼びするといいわ」

 頭を上げきるよりも前に全身が視界に納まった。

「……王女殿下」

 小さな小さな女の子が、痛そうな首の角度で見上げていた。

 豪奢なドレスとさほどヒールの高くない靴。丁寧に結わえられたのであろう髪は子供らしさの欠片もないほど大人びているのに、不思議と似合う。

 全体的に子供らしさを捨てたような雰囲気に膝を付く間もなくじっと見つめられている。

「はい。みんなご存じ、ミレーユ・ベルトルードです」

 よろしく、と挨拶の言葉は口にするが、目礼も何もない。視線は下に向いていて身長差もなかなかにあるのに、圧倒的な身分の差を感じさせられる。

 宰相に任命された事実はじわじわと実感しているのに対し、目の前に現れた王女の存在はまだ理解が追いついていない。それでも上から見下ろしているのはよくないと体が王女より低い体勢を取ろうとしたが、片手で制された。

「お披露目式の場で陛下からお祝いの言葉をいただいてください。私からは、母――王妃が常日頃仰っていた言葉を伝えます」

 王妃カリーナは王女ミレーユが五歳の頃に亡くなっている。まだ誰の記憶にも新しいと思われる悲しき日。喪に服して一年が過ぎても国王も王女も表舞台には出られないほど憔悴しているとのニュースは今も続いていた。

 公務はこなされているし、夜会などの場にも時折出ているが、普段はあまり人の目に触れないことが周知されているほど。文官として働いてきた二年の間、少しでも元気な姿を見られたという話は文官室を賑わせた。

 脳内の情報処理はスムーズではあっても、得られた結果を受け入れられるかどうかはまた別問題である。

「王妃は度々、私に言いました。「体に気を付けるように」と。これは王妃の体が病に蝕まれていたが故に出た言葉だと私は考えています。ですから、あなたも体には十分気を付けてお仕事をされてくださいね」

 にっこりと年相応なような、どこか大人びているような、そんな笑顔を浮かべて王女は淑女の礼をとって数歩引いた。

 もっと厳かな時間になると身構えていたのが馬鹿馬鹿しくなるような穏やかな時間だったと痛感したのは、玉座の間を出てからだった。




 副宰相のハルクに次に案内されたのは文官時代に数度だけ来たことのある宰相執務室。

 もっと頻繁に報告や提出に来られるような働きをすることが目標としていたはずなのに、自分の部屋になるなど誰がいつ、冗談だとしても想像しただろう。

 賢王と呼ばれる相手と対峙するのかと膝が震えるほどあった強い緊張は、現れたのがミレーユ王女だったことで緩和された。宰相室の扉が開かれて、ここが自分の執務室になるのかと息を吸い込んだ瞬間、感動で涙腺が緩みかけた。

 今日は信じられないことばかり起きている。しかしすべて現実なのだ。これから国の発展に全力以上の力を注ぎ込む。

 休みなんてもはや必要ない。

 働くことが喜び。国の発展が幸せ。

 いただいた給料は必要最低限だけ残して全額――

「王女殿下のおなりです」

 扉のノックのすぐ後、肩が跳ねあがる一言がはっきりと聞こえた。聞き返さなくても分かる。

 つい今しがた謁見した王女との再びの邂逅。

 まだ小さな少女と言っても王族。国王よりも緊張は薄いとしてもまったく緊張しないわけではない。何か粗相でもしようものなら首が飛ぶ。

 頭を深く下げて登場を待った。

「頭を上げてください。どうぞ楽になさって」

 可愛らしい声にゆっくりと頭を上げる。

 ドレスも髪型も笑顔も何もかもが玉座の間で見た姿と同じ王女が、背筋を真っ直ぐ伸ばして見上げていた。

 痛そうな首の角度がどうしても気になり、片膝を付く。

 丸い目が二度三度と瞬いて驚いた顔の王女。視線を合わせてくれたのだと分かったのか、また笑顔に戻った。

「先ほどお伝えできなかった仕事内容についてお話に参りました」

 王女の言葉に耳を疑った。

 記憶が正しければ王女ミレーユは成人もまだ先の十歳になったかどうかの年頃。婚約者の選定に随分時間がかかっているな、という印象の強いたった一人の後継。

 王女教育は終わっているが世間を知らない深窓の少女であり、もっと言えば病気がちで一日のほとんどを自室のベッドで過ごしていると聞いていた。

 玉座の間で王女は「みんなご存じ」と自身を評したが、実際は名前と年に数回、国王や王女の誕生祭の一瞬だけと、王城で開催される貴族以外は入れない夜会で国王の隣で綺麗な人形のように座っているだけ。

 知っている人はその姿だけは知っていても、どんな人なのかまでは誰も知らない。

 それが王族、ミレーユ・ベルトルード王女。

 少なくとも宰相の仕事を熟知しているような方ではない。

 助けを求めてハルクに視線を動かす。不敬と言われても無理はない行為だが、直接「どういうことですか」と聞く度胸はない。

 ハルクは明るく輝く頭に照明の光を反射させながら、宰相執務室から使用人たちに外に出るように命令を出した。

 開きっぱなしだった扉が閉まり、一人ずつ残った王女の護衛の騎士と侍女が扉の前に陣取った。

 聞き耳を立てられないように見張っていて、逃げられないように見張っている。

「宰相にあなたを選んだ本当の理由は――若くて身軽に動けるからです」

「……若くて、身軽、でございますか?」

「ええ。ハルクじいさまはほら……」

 うふふ、と苦笑いを浮かべる王女にハルクが明朗に笑う。

「姫様に走られると追いつけませんからなぁ」

 和やかな雰囲気は祖父と孫のそれだが、病弱と噂の王女とはかけ離れているとしか言いようがない。王女の態度はこれが当然とばかりのハルクに、宰相の任に別の意味が含まれているのだと嫌でも察しがつく。

「座って話をしましょう。この後の予定の打ち合わせも兼ねて」

 結構長くなると思うのよね、と不穏なことを口にする王女は宰相執務室のソファに慣れた様子で座る。扉の前にいた侍女がいつの間にか淹れたての紅茶をテーブルに並べている。

 流れに付いていくだけで精一杯の中、王女の対面に座ると隣にハルクが腰を落ち着かせた。先代宰相兼副宰相の存在の心強さだけがこの場に留まる理性を残している。

「宰相の仕事自体はきっとご存じでしょう? ですから、これから説明する内容はあなたでなければならない極秘の任務についてです。詳細を知るものは限られているので、基本的に口外はしないでください」

「分かりました。守秘義務は文官の基本ですので慣れております」

「そうでしたね。ではまず、最重要極秘情報をお話しますね」

 ソファに座ると爪先がギリギリ届く程度の身長しかない王女が紅茶のカップを手に取り、口内を潤す。非常にゆったりとした動作だったので、これは同時に飲んでおけという意味だと捉えて自身もカップを取った。隣のハルクも同じようにカップに口を付けている。

 三人同時にカップをソーサーに戻すと、最重要極秘情報を話すために口が開くのを息を呑みながら待った。

「その前に、最近の国王陛下の公務の成果として浮かぶものは何がありますか?」

 まるで文官採用時の面接を思い出す。

 王女は和やかな子どもらしい笑顔を浮かべてはいるものの、質問内容と雰囲気に圧がある。

「……国内の統制力においては、過去最良の結果を出していると思います。マルベック王の治世になってから、というよりここ二年ほどでしょうか、地方における犯罪が明らかに減っています。文官の採用量も増えたことが関係しているとは思うのですが、どう関係しているのかまでは把握できておりません」

 二年前、文官の大量採用の求人が出た。

 十六歳から応募可能ということもあって飛び込んだのだ。記憶にはっきりと残っている。その理由が地方への派遣であると聞いてはいるものの、それが犯罪の低下率にどう繋がっているのかは知らない。武力を持たない文官が抑止力になるとは思えなかった。

 王女は小さく何度か頷くと先を促される。

「あとは街道の整備や新しい馬車の開発にも精力的だったかと記憶しております」

 何度か上司のサインをもらうために書類を運んだ覚えがある。

 商人や地方への出張が増えた文官の先輩から興奮した話をよく聞いていた。自分自身はあまり遠出というか、職場である王城と自宅の往復ばかりで実感はできていない。

 書類を運んだり文書の作成をしているから何をしたかという問いにしか答えられない。

「他にも大臣たちの会議が毎月の初めにあったり、各地の領主を三か月に一度招集した会議も最初は反発があったと聞きましたが、その場に姿を隠した陛下が同席することでこれまでにない活発な議論になっているとも……」

 思えば文官として勤務するようになってから変化したものが多いと感じる。

 大臣会議や領主会議なんて、これまでは定期的なものではなく、誰かが招集をかけて開催されるものだったはずだ。その場に国王が同席することで即決する議案もある。ハルクも会議には毎回出席していたはずだ。そうでなければ国王陛下がサインする書類の作成が間に合わない。

 隣に座るハルクを見れば、「あの時は大変でしたな」などと思い出し笑いをしていた。

 ニコニコと嬉しそうに王女も笑っている。

 もしかして父親の功績を誰かから聞きたかっただけの可愛らしいおねだりだったのかもしれない。そう思うと、王女の面接のような圧力も気にならなくなる。

「あ、そう言えば一つだけ、いまだに文官室でも密かに話題になっているものが……」

「あら、何かしら?」

 身を乗り出して話を待つ王女はソファにギリギリ届いている足をわずかにパタつかせると侍女の大きな咳払いが飛んできた。す、と何もなかったように姿勢が戻る。

「ええと」

 侍女の咳払いで我に返ったのは王女だけではない。冷静になってみれば国王の治世の印象報告とは関係のない話をしかけていた。

 別の話にしなければと考えるが、王女に「それで?」と聞かれると答える以外にできることがなくなった。

「王女殿下にお話しすることではないと承知していますが、文官室では一向に王女殿下の婚約者選定の話が浮上しておらず、陛下が渋っておられるのではと……」

 王妃を亡くした国王が一人娘の伴侶選びを渋るのも理解はできるだとか、王女には想いを寄せる相手がいて、その人物が相手に相応しくなるのを待っているだとか諦めさせるのに説得している最中だとか、文官室では思い思いの想像を言って楽しんでいるとまでは言わないでおくが、一人の文官として、これからは宰相として、王女の婚約者問題は最重要事項の一つとして考えておかなくてはならない。

 今の内に王女やハルクの考えを聞いておけば婚約者選びの基準も定めやすい。時期尚早と言うのであれば、いつから考えればいいのかの目安にもなる。

 もしやこれが王女の言う「最重要極秘情報」かという察しもつき、ならば話してもらえるだろうと反応を窺おうとして。

「……殿下?」

 俯いて両手を握りしめる王女に気付いて、口にしてはならない話題だったのかと背中に冷たい汗が伝う。宰相に任命されて初日にやらかしてしまったとハルクに視線を逃がす。助けてもらえると思うほど楽観していない。宰相の任命の取り消しがあるなら早く言ってくれた方が助かるといった気持ちがあった。宰相取り消しはされても文官としての命は繋いでほしいものだけれど。

 しかし、ハルクは宰相の任について再考するでもなく、どころか肩を震わせて必死に笑うのを堪えていた。片手で口元を隠してはいるが、目は笑ってしまっている。

「い、いや……姫様、やはりそれらしい理由は用意しておくべきのようですぞ」

「む、むむ……!」

 俯いていた顔が上げられ、王女は頬を膨らませて明らかに怒りを堪える赤い顔になっていた。

 怒らせたにしてはハルクの態度がおかしい。

 何より恐怖を感じない。

 小さな少女の癇癪を見ているのと同じ気分と言ってもいいのかどうか。まさにそうなのだけれど。

 王女は赤い顔をさらに赤くさせて、堪え切れなかった怒りを爆発させた。

「婚約者なんて選びません! 私がさせていないのだから、いないに決まっているのです!」

 最重要極秘情報は、このような形で明かされ始めた。




 王妃カリーナが亡くなってから、国王マルベックはまともに立ち上がることも難しくなったという。

 見るからに憔悴する以外にも気力の低下、食欲不振、睡眠障害等、毎日のように医者に見てもらう生活が少なくとも半年は続いた。当然公務も立ち行かなくなる。

 喪に服すという理由一年の公務の停滞はやむを得ないと大臣たちは諦め、城内は幼い王女の泣き声らしき音が響いた。

 喪が明けてから約一年、マルベックの復調は叶わずに寝室が執務室と化すようになる。それでも公務は進まず、ハルクは宰相としてなんとかサインだけでもと文書作成の方法に手を加えた。

 一方王女ミレーユは喪に服していた一年の間に王女教育を修了し、マルベックの気力を取り戻す努力を始めた。

 昼食前に中庭を散歩したり、サインを書くマルベックの隣で応援の声をかけたり、少女の健気な姿に胸を痛める使用人が後を絶たなかった。

 王女の友人作りのための茶会も開かれるようになったものの、半年と経たずに開催されなくなった。取り仕切る王妃がいないのだから当然の流れと言えたが、実際は別の勉強が始まったミレーユに茶会に出る時間がなくなったからだった。

 新たに始まった勉強こそ、国王陛下の公務に携わるのに必要なもの。

 帝王学や世界情勢の把握や周辺諸国の王侯貴族の記憶や成人以降に必要な淑女のマナーも含まれた。

 ダンスだけは身長が足りずに修了できていないが、王妃が亡くなってからわずか二年でミレーユはマルベックの仕事を代わりに行える知識を身に付けた。

 五歳で母親を亡くした幼い女の子は、七歳にして国王の影になった。




「ほ、本当にそのようなことが可能なのですか……?」

「可能か不可能か、ではなくて可能にするしかなかったのよ」

 紅茶のカップが空になった王女は、溜息を吐きながらテーブルに置く。即座に侍女が動いて新しい紅茶が用意された。

 立ち上る湯気の向こうに見える王女を見つめる。七歳で国王の仕事の代行を始め、もうすぐ十歳になろうとする年頃だ。貴族の子でもまだ遊び盛りや勉強に集中する年代のはず。

 約三年もの間、国王の代行を続けてきた小さな才女――

「もしや、先ほどお伝えした最近の陛下の功績というのはすべて……」

 自分の手が震えるのが分かる。

 聞かれたから答えたまでだったはずが、話した功績は賢王と呼ばれている現国王のものではなく、その一人娘である王女の功績だった。

 誰かに話せる内容ではまったくない。

 話せるものか。

 話したとして、誰が信じるのか。または信じてくれた相手が他国の王族関係者なら狙われかねない大変な事実だ。

 はっきりと返事をくれたのは、王女ではなくハルクからだった。

「姿を隠しての会議も、姫様が陛下の代わりをしていると気付かれないために行っていること。議論が活発になっているのは副産物なのだ」

「し、しかし、大臣会議も領主会議も、その場で陛下がサインをして決定される議題もありましたよね? まさか陛下のサインも王女殿下が……」

「さすがにサインの偽造はできませんよ。いくら私だからと犯罪ですもの」

「ではどのようなカラクリで?」

 王女が首を横に振りはするが、実際に国王陛下の直筆のサインが書かれた書類は文官室に戻ってくる。

 当然とも言える疑問に王女は天井を指差した。

「普通に陛下からサインをいただいてます」

「しかし陛下は議場にはおられないのですよね?」

「ええ。いるのは私ですもの」

「でもサインは陛下本人のものだと?」

「そうですわ」

 謎解きか何かを出題されたのかと思うほど理解できない。

 その場にいないのにその場の書類にサインができる。そんなこと普通なら不可能だ。だが王女は不可能ではないと言い切っている。

 宰相としての能力を今試されているのかもしれない。この程度のカラクリに気付けなければ今後の仕事の限界が見えると言われていそうで焦りが募る。

「深く考えないでください。もったいぶるつもりもないので答えてしまいますけど、普通に王家の影を使っただけです」

「姫様。王家の影は普通には使わないものですぞ」

「うう……。じいさま、言葉で伝えるって難しいと知ったわ」

「この調子でたくさんのことをお知りになってください」

 ハルクの王女を見る目は祖父のものに見えてならないが、二人の間に血の繋がりはない。それでもハルクは先代国王の時代から王家を見てきたことに違いはない。王女が「じいさま」とハルクを慕うのも分かる気がする。

 王女が幼くして国王の代わりを務められるのもハルクが側にいたからだ。

 さすがに年齢的に王女の側に居続けることが難しくなったために、新しく若い宰相が必要になったということか。

 本当の意味での採用理由が理解できた。

 小さいが故に表に立って執務ができない王女を隠しながら仕事をさせるためには、優秀な宰相が必要。ただ優秀なだけでは足りず、体力も必要になる。

「説明を加えると、王家の影には陛下の体調の機微の監視も兼ねてもらっておりましてな、戦時中でもなく今のところ王家に仇なす輩もいないこともあって、姫様がお命じになっておる。最初は驚くじゃろうが、あんたならすぐに慣れるじゃろうて」

「承知しました」

「うむ。常識的な宰相の仕事だけでなくて申し訳ないが、儂も手伝うので困ったことがあればすぐに言うと良い」

 文官の仲間たちも温かく優しい人が多かったが、ハルクも器の大きな人で安心する。重大な機密を抱えることにはなったが、何とか頑張れそうだ。

「そうだわ。大事なことを言っておかないと」

「おお、そうでしたそうでした」

 湯気の少なくなった紅茶で一度喉を潤した王女の大きな目が真っ直ぐにこちらを見た。

 文官として真面目に働いて二年。その間もだが文官になる以前も異性との接触が親族以外になかった。だから年は離れていても異性にじっと目を見られると居心地が悪い。これもすぐに慣れなければならないのだろうけれど。

 俯きそうになる視線を下げず、年上の余裕を持っているように見せかける。

「ハルクじいさまには遠慮していましたけど、あなたが宰相となってくれたからには私と行動を共にしていただきます。手始めに私の執務机もこちらに運び入れさせていただきますね?」

 秘密を共有する者となったからには、そういうこともあるだろう。国王の影となって執務を行うのなら必然とも言える。王女が国王がするべき執務をしていると知られるとよくない人たちもいる中、本当に信頼してくれているのだと思うと感動すら覚える。

 執務机を宰相室に、と言われて拒否する理由もない。知られて困るような人には「勤勉な王女殿下に作業用の机に興味を持たれまして」とでも言えばいいだけだ。

「分かりました。部屋のレイアウトも追々考えていければと思います」

「ありがとうございます! ここなら陛下に直接届けられるものもそのまま確認して回せますから、かなり楽になりますわ!」

 子どもらしい笑顔に、こんなことで喜んでくれるなら王女のための花でも選んでみたくなる。

 言っていることは作業の効率化の一環ではあるけれど。

「ああ、それからそれから」

「はい、なんでしょう?」

 専用執務机の搬入に喜んだままの王女はまだお願いがあるのか、両手を合わせて満面の笑顔で言った。

「宰相としての手当てはすべてあなたのものですし、使い方を指定したりはしませんし、あなたのご家族が困窮されていることは知っていますけれど、これまでのように給与のほとんどを御家のために使うなんてことは止めてくださいね?」

 宰相として宰相する前――文官として採用される際に、当然身辺の調査はされていることを失念していた。

 口を情けなく開けたまま、王女の笑顔に本日一番の恐怖を抱いた。

「健康が第一ですよ、ルシウス・ウィルフィード新宰相閣下?」


主人公は王女様の方です。

次回から王女視点になります。

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